江戸時代では、自ら学びたいと思う者が学んだので、学生は熱心だった。


しかし、近代は就学が義務的なので学ぶ気の無い者まで学生となってしまい、かえって健全な教育がなされていない。


学ぶ意思の弱い者にまで学問を授けてやる必要など無い。



                        (夏目漱石)



おい、おまえ、、、、まだこの星にいたのかよ、、、鳩山由紀夫、、、。


ってなわけで、まあ、もう呆れ返ってモノも言えない「こんな(粗末な)民主党を作った」のは、、、、、そう、鳩山、オマエだよ。。。。少なくとも菅じゃあない。


人のせいにするな。



そんな鳩ぽっぽだって東大卒。

っつっても、脱税王であっても逮捕されないくらいの家柄ですもん、、、、東大も表からはいったのやら裏からはいったのやら、、、わかったもんじゃない。


そうだ、、、、脱税王で思い出した。


よくもその口で他人を「ペテン師」呼ばわりできたものだ。


詐欺師が他人をペテン師呼ばわりって、、、盗人猛々しいというか、、、、、目くそ鼻くそというか、、、。


たのむから早くてめえの星に帰れ、、、、それが嫌ならせめて土に返ってくれ。











ピーターの法則



★能力主義の階層社会に於いて、人間は能力の極限まで出世する。すると有能な平(ひら)構成員も無能な中間管理職になる。


時が経つに連れて人間は悉く出世していく。無能な平構成員はそのまま平構成員の地位に落ち着き、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。その結果、各階層は無能な人間で埋め尽くされる。


★その組織の仕事は、まだ出世の余地のある、無能レベルに達していない人間によって遂行される。



(ローレンス・J・ピーター氏・教育学者)



詳しいことはウィキペディアに任せるのでこちらをご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87



先日、ある著名な大学教授と会食をして、その中で経営における人事のコツについて尋ねたところ、即座にこの「ピーターの法則」というものを例に出して説明してくださった。


自分の今現在の大きな悩みもあってか、久しぶりにシビれるネタである。


簡単にいえば、プレイヤーとして有能だったからといってマネージャーとしても有能であるとは限らない。

人事は適材適所を基本として行わなければ必ず失敗してしまう、、、、ということなのだ。







長時間集中して考えるということは重労働である。


健全なる肉体なくして健全なる思考と強靭な意志は生まれない。



(棋士・羽生善治氏)



わかっちゃいるのですが、体力づくり、、、、続かないのです、、、これが。


政治的正義という煌々たる電灯が頭にともると、激烈に群れる。


群れつつ、群れ走りに走る。

どの頭にも一個ずつ正義という電灯をともしているが、一人では決して走らない。

群れるための手段として正義が必要なのだ。


さらには集団として肌をすりあわせる緊密感が薄らぐと、すぐさま細分化し、新集団の電灯の光度をあげるために他の集団の正義を攻撃する。


(司馬遼太郎氏・「人間の集団について」より)



人間とは狼などと同じようにもともと群れずには生きていけない動物であり、群れるのが良いとか悪いとかいうこと自体が野暮というものだ。


ただ、狼など他の動物と違って、知恵が随分と発達しており、さらに言えば悪知恵を働かせることにかけては他に類をみないほどである。


それゆえ他の集団を攻撃する場合に信じられないほど陰湿な手段をつかうこともあり、同じ人間から見てもなんとも不愉快になることすらあるので、群れるというイメージを嫌うのかもしれない。








自分の理解できない価値を畏れることこそ重要ではないのか。



(北川達夫氏・大学教授)



北川教授は続ける。


世の中には学ばなければわからない価値が存在する。

学ぶことによって得た知識、生きることによって得た経験があって、初めて評価できる価値が存在する。


たとえば、私が3代目ナントカ左衛門のつくった茶碗を眺めたところで、ただの小汚い茶碗にしか見えない。

だが、私は「小汚い茶碗だ」と意見を述べるのをためらう。

知識や経験がないために理解できない価値を畏れるからだ。



なるほどなぁ、、、。

そりゃ思ったことをそのまんま言うのも良いだろうが、言った後ででもそれについて勉強した方が成長できますね。








影ばっかりだったところにようやく光が出てきた。


光が見えだすと影のことを言い出す。



(小泉純一郎・元総理大臣)



政治家・マスコミを筆頭に、かれらに感化されやすい一般市民まで、、、、みなで足の引っ張り合い。


社会人である限り覇権や利権の争いから逃れることはできないにせよ、、、、もう少し前を向きながら争う姿勢であってほしいが、、、、、どうでしょうか。




文献から知識を正しく得るときに、読み手の個性は不要である。



(荻生徂徠)





右であろうと左であろうと扇動や洗脳を目的としているとしか思えない歴史教育に毒されないためには、まずは「悔しい」、「憎い」とか「可哀そう」などの感情を排除して事実をしっかりと見据えなければならないだろう。



「こうであったらよかったのに、、、」などという感情が最も邪魔になる。



事実は事実として受け止めたうえで歴史は繰り返すことを前提にして学び、再びやってくる悪い流れを少しでも弱めるべく努力をするべきだろう。



「継続」が最優先事項である企業活動においても同じであろう。







映画を通して自分の精神の辿ってきた道のりが見えるのは、映画の隠れた醍醐味のひとつだと思う。



(兄の言葉)




文学にしても映画にしても音楽にしても、、、、その時その時で受け取り方がまったく変わってくることがある。


10年前の自分と今の自分では大きく違うし、また環境も違う。


同じ作品に触れても捉え方も変わっていたりする。あの頃の駄作が今は涙を流すほどの作品かもしれない。


自分の心の成長の過程、もしくは堕落の過程をたまにチェックしてみるのもよいかもしれない。


事前準備はものすごく大切なことだ。


第一印象は大切だが、第一印象は会う前から作られている。



(斉藤正勝氏・カブドットコム証券社長)



サッカーの本田圭輔氏も「準備」の大切さを繰り返し説いていた。


王貞治氏も敵との戦いよりも己との戦いという「準備」の重さを繰り返し説いていた。



ビジネスや人付き合いにおいて、第一印象なんてものは相手がどうとるかってだけで自分ではどうせ変えられないものだから、、、、なんて思っている人も多いかもしれないが、実際はそんなことはない。


自分の意識を少し変えてみるだけでガラっと変わるものだったりする。





鍵は正直者のためにだけある



(ユダヤ人の教え)




家を留守にするときに鍵をかけるのは何故か?


それは正直者が中に入らないようにするためである。


悪人がもしその家に入って物を盗もうとするのならば、鍵がかかっていようがなかろうがどの道入ってしまうのだ。


しかし、正直者でも、もしドアがあいていたら誘惑されて入ってしまうかもしれない。

正直者を誘惑しないために鍵をかける必要があるのだ。



要は、、、鍵があいているからといって盗みに入った正直者は当然罪人ではあるが、鍵をかけなかった人も正直者を犯罪者にしてしまった罪作りな人、、、、なのだ。