Platina Star AXIS

Platina Star AXIS

Returning to a state where movement flows through

このブログは、Platina Star の記録です。


 


判断と感覚を、静かに整える。

そして、動きが通る状態へ戻る。


 


※心理や思想というより、

身体感覚・判断・空間(SPACE)の扱いのメモが中心です。


どんな記事が多いの? 


 


ざっくり言うと、こんな内容が並びます。


 


 ●体の詰まりがほどける(通る)感覚 


 ●痛みの扱い方(避けるより“見る”)


 ●動きを変える前に、動きが生まれる土壌を戻す


 ●0→1(創造や繁栄)が起きる条件


 ●経営や関係性にもつながる“調律”の話


 




まずはこの3本から



ここから読むと、いちばん迷いません。



①【通す】詰まりをほどく最短ルートは「痛みを見る」



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954261424.html



②Awai Movement|動きが生まれる土壌を回復する



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954073974.html



③スティフ/フリー:締める・通る



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12953964159.html



 





入口:体が通る



「まず試せる」「役に立つ」で入れる記事たち。



・焦点は固定できる。でも体感覚は固定しない



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12953804227.html



・【Pain? / Nah. #2】かゆみとしての痛み



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12952467558.html





コア:通すという状態



体と判断が“通る”状態の、中心メモ。



・【通す、という状態】― ディープディシューの奥が晴れた朝のメモ



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12950772720.html



・【通す、という状態】ー今日は、川の話になった☆彡



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12950465579.html



・ファンタジー感覚についての覚え書き ~深度を行き来するもの~



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12952141553.html



 





0→1 / 関係性



自分の中で0→1が起きる。関係性の中で起きる。



・【0→1】0と0を1にする:繁栄は勝手に起こる



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954092925.html



・【0→1】0→1は、自分の中でも起きる(意識×身体感覚)



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954135573.html



・【関係性】ユニゾワるって、恋愛じゃね?(恋愛としてのコ・クリエイション)



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954093080.html



 





経営・構造



感覚の話が、そのまま経営の話につながるところ。



・比較の概念がドロンする経営



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954092559.html



・【全体性経営の原理】 ― 経営を「構造」として観察した記録 ―



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12949918978.html



・感覚から始めることは、なぜ「核心」なのか

— 子供・踊り・言葉、そして経営へ



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12950883875.html



 





SPACE / AXIS



ここは“好きな人が戻ってくる棚”です。

2~3本読んでから入るのがおすすめ。



・SPACEの側に立つ — Category Error Notes



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954466407.html



・空間として在る、ということ(メモ)



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12952982586.html



・水平方向と垂直方向についての覚書



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12952902063.html



・AXISメモ|縦と横の話



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954026112.html



・奥多比ドロン:印象の操作権は誰のもの?



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954596270.html



・誤解?まあ、風や。



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12953643408.html



 





まとめ



整えるのは、能力じゃない。

判断の位置だ。



静かに、でも確実に。

判断と感覚の主導権を、自分に戻す。



 





Platina Star Global(統合HP)



全体の世界観・サービスの入口はこちら。



Platina Star Global



https://platinastar-global.jimdofree.com/






やりたいことのほうへ進む

— 構造と感覚、センスのその先へ —




センスのあるテーマというものがある。


あるテーマに触れたとき、

まだ構造をきちんと理解していなくても、

なぜか勘所がわかる。


言葉にする前に、

なんとなく通り道が見える。


細かい理屈を学ぶ前から、

「たぶん、こういうことだろうな」

という感覚が働く。


そういうテーマは、

やはりスムーズに進みやすい。


感覚が先に触れているから、

あとから構造を学んでも入りやすい。


違和感にも気づきやすい。

修正も早い。

伸び方も、どこか自然になる。


だから、

センスのあるテーマに注力したほうが、

スムーズかつ伸びやすい。


それは、たぶん本当だと思う。


⭐️


ただ、だからといって、


「では、センスのあるテーマを選ぶべきだ」


と一概に言えるかというと、

そこは少し違う気がしている。


センスがあるかどうか。

スムーズに伸びるかどうか。


もちろん、それは大事な判断材料にはなる。


でも、それだけで、

自分が向かうテーマを決めてしまっていいのか。


そこには、少し違和感がある。


うさぎとカメの話もある。


最初から速く進めることと、

最後まで歩き続けられることは違う。


感覚の入口が開いていることと、

本当にその道を生きたいかどうかも違う。


センスがあるから進む。

センスがないからやめる。


それだけで決めるには、

人の歩みは、もう少し複雑な気がする。


⭐️


結局、いちばん大事なのは、


やりたいことを、ちゃんとやれているか。


なのだと思う。


センスがあるかよりも。

スムーズかどうかよりも。


本当にやりたいことに向かっているか。


そこが、かなり大事だと痛感する。


もちろん、人は皆、

基本的にはやりたいことをやっているのかもしれない。


たとえ本人がそう思っていなくても、

深いところでは、

何かしら自分が選んでいる方向に進んでいるのかもしれない。


それでも、やはり、

表層の都合や、効率や、損得や、

「こっちのほうが向いているはず」

という判断だけで進むと、

どこかで、自分の中心から少しズレることがある。


センスがあるかどうかは、

進み方を知るための手がかりにはなる。


でも、人生のテーマを選ぶ絶対基準ではない。


やりたいことをやる。


その途中で、

構造理解が起きる。


その途中で、

感覚もアップデートされる。


最初からうまくできるから進むのではなく、

進みたいから、構造を学ぶ。


進みたいから、感覚が磨かれる。


そういうこともあるのだと思う。


⭐️


構造アプローチと、感覚アプローチ。


構造から入る人がいる。


原理を理解し、

全体像を掴み、

手順を確認し、

ひとつずつ積み上げていく。


感覚から入る人もいる。


なんとなく触れてしまう。

理由は説明できないけれど、

先に空気や流れを掴んでしまう。


どちらが上という話ではない。


構造があるから、

感覚が迷子にならないこともある。


感覚があるから、

構造がただの枠組みで終わらないこともある。


構造と感覚は、

本来、対立するものではない。


二本の柱のようなものかもしれない。


そのあいだを、

人は進んでいく。


ただ、その柱のあいだを、

向こう側に抜けて進むには、

やはり、やりたいことが必要なのだと思う。


構造があるから進める。

感覚があるから進める。


それもある。


でも、もっと奥には、


「そっちへ行きたい」


というものがある。


それがあるから、

構造も必要になる。

感覚も更新される。


⭐️


そして、その

「やりたいこと」について、

最近少し考えている。


やりたいことには、

いくつかの立ち上がり方があるのかもしれない。


ひとつは、

何もないところから、

ふっと立ち上がってくるもの。


あえて言えば、

自己ベースで立ち上がるもの。


もうひとつは、

誰かの存在に触れることで、

ある方向へ動き出すもの。


あえて言えば、

他者ベースで立ち上がるもの。


ただし、これはよく言われるような、


自分軸か、他人軸か。

自分のためか、人のためか。

自己満足か、他者貢献か。


そういう話とは少し違う。


もっと奥の話。


自己ベースといっても、

小さな自我が、

自分だけのために何かをしたい、

という感じではない。


他者ベースといっても、

誰かに認められたいとか、

誰かの期待に応えたいとか、

そういうことだけではない。


どちらも、

もっと深い場所から立ち上がる。


自分と他者の境目が、

少しほどけているような場所。


そこから、

何かが生まれてくる。


⭐️


たとえば、私にとっての自然体動は、

誰かの存在があるから生まれる、

という感じではない。


音楽も、そうかもしれない。


何もないところから生まれる。


どこからかと言えば、

自分から生まれる。


ただ、そのときの「自分」は、

普段考えているような、

他人と切り離された個人としての自分とは少し違う。


自他の区別が、

あまりはっきりしていない場所。


誰かのためでもなく、

誰かに向けてでもなく、


かといって、

自分だけで閉じているわけでもない。


何かが、ただ立ち上がってくる。


身体が動き出す。

音が出てくる。

空間に、流れが生まれる。


そこに、特定の誰かはいない。


でも、完全に孤立した自分だけがいるわけでもない。


自分という場所から立ち上がっているのに、

その自分は、自他の境目がかなり薄い。


そういう自己ベースがある。


⭐️


一方で、

誰かの存在に触れることで、

立ち上がるやりたいこともある。


過去の誰かかもしれない。

今、身近にいる誰かかもしれない。


まだ知らない、

ぼんやりした未来の誰かかもしれない。


会える人かもしれない。

もう会えない人かもしれない。


手の届く人かもしれない。

手の届かない人かもしれない。


仲間かもしれない。

好きな人かもしれない。


同性かもしれない。

異性かもしれない。


世代も関係ない。


特定の人であることもあれば、

そうでないこともある。


ただ、どこかに、

誰かの存在の気配がある。


⭐️


誰かに会いたい。

誰かに届きたい。

誰かと分かち合いたい。

誰かに見てほしい。

誰かの前で、自分がちゃんと立ち上がりたい。


そういうものも、

もちろんあるのかもしれない。


でも、それよりも、

もっと素朴なところで、


誰かを元気にしたい。

誰かの笑顔を見たい。

誰かを緩ませたい。


そうやって、

誰かと同じ空気を吸いたい。

誰かと、どこかで分かり合いたい。


言葉にすると、

少し限定されてしまうけれど、


たぶん、

やりたいことの奥には、

そういう誰かの存在との関係があることもある。


これは、

自分を捨てて他人に尽くす、

ということではない。


誰かのために、

自分を消すということでもない。


むしろ、

誰かが緩むとき、

誰かが少し元気になるとき、

誰かの笑顔がふっと見えたとき、


こちらの中にも、

何かが通る。


同じ空気を吸っている感じがする。


自分と他者が、

はっきり分かれたままではなく、

どこかで同じ場にいる。


そういう他者ベースがある。


⭐️


その誰かは、

今、目の前にいる人とは限らない。


過去の偉人かもしれない。

すでにこの世にいない人かもしれない。

まだ出会っていない未来の誰かかもしれない。


直接会える人ではなくても、

その人の残したもの、

その人の姿勢、

その人がまとっていた空気に触れて、


自分も、その空気をまといたい。

その人が見ていた世界の手触りに、

少し近づきたい。


そういう憧れや共鳴が、

やりたいことの原動力になることもある。


誰かを目指すというより、

その人がまとっていた空気を、

こちらの身体で少し通してみる。


過去の誰かがまとっていた空気を、

今の自分の身体を通して、

少しだけこの世界に通してみる。


そういうことも、

あるのかもしれない。


⭐️


自己ベース。

他者ベース。


こう書くと、

少しきれいに分かれたもののように見えるけれど、

実際には、たぶんそんなに単純ではない。


何もないところから立ち上がった自然体動が、結果的に誰かを緩ませることもある。


自分から生まれた音楽が、

誰かの身体や心に届くこともある。


逆に、

誰かを元気にしたいという思いから始まったことが、

気づけば自分自身の深いところを通していることもある。


だから、

自己ベースと他者ベースは、

完全に別物ではない。


入口が違うだけなのかもしれない。


どちらも、深く入っていくと、

自分と他者の境目が少し薄くなる。


ただ、最初の立ち上がり方として、


何もないところから、

自分という場から生まれるものがある。


誰かの存在に触れて、

関係の中から生まれるものがある。


その両方がある。


そう感じている。


⭐️


だから、

センスがあるテーマを選べばいい、

という話ではない。


センスがないから諦めればいい、

という話でもない。


スムーズに伸びることは、たしかにある。

向いているテーマも、たしかにある。


でも、

それ以上に大事なのは、


本当にやりたいことをやれているか。


そして、そのやりたいことが、

どこから立ち上がっているのか。


何もないところから、

自他の区別が薄い場所から、

ふっと立ち上がってくるのか。


あるいは、

誰かの存在の気配に触れて、

ある方向へ動き出しているのか。


そのどちらも、

たぶん大事なのだと思う。


構造アプローチ。

感覚アプローチ。

センスのあるなし。


それらは全部、

進むための手がかりではある。


でも、

進む理由そのものではない。


進む理由は、

もっと深いところにある。


自分だけで閉じてもいないし、

誰かのためだけでもない。


その境目がほどけるような場所から、

人は何かをやりたくなるのかもしれない。


だからこそ人は、

構造と感覚の柱のあいだを抜けて、

向こう側へ進んでいくのだと思う。


⭐️


追記:存在のアロマ


同じ香りを味わおうとして、

その人がまとっていた空気に、

少し近づこうとして、


それで結局、

その人にしかないアロマがあることを、

残り香のような、微妙なものとして感じ入る。


そういうのは、

なんだか、幸せなことだと思う。


分かりきらなくていい。


どうしても理解できないと、

憤慨したことさえあるかもしれない。


それでも、

そういうものも含めて、


その残り香の中には、

言葉では説明しきれないものが、

いろいろと含まれている。


それは、存在の微妙な味わい。


苦いとも言い切れない。

ほのかに甘いようにも感じられる。


存在のアロマ。

存在の味わい。


目には見えないけれど、

たぶんそれは、

プラチナ色の光のようなもので、


心のどこにでも到達する。

防ぎようのない、存在の輝き。


それは、

意識を向けさえすれば、

きっと認識できる。


はず。w


そして、

その光を見ているとき、


自分とか、他者とか、

そういう境目を少し超えて、


宇宙全体に通っている光が、

ほんの少しだけ、

輝きを増しているように見えることがある。


……かもしれない。w



構造と感覚、縦と横のNatural Communication

— TeachingとSharingの自然な切り替え —


本来コミュニケーションとは、


固定された上下でも、ただの横並びでもなく、

内容に応じて、縦と横を自然に切り替えるもの

だと思う。


それは

少し、

踊るようなものなのかもしれない。


教える、教えられる。

つまり、Teachingが成立するのは、

主に「構造」に関することだと思う。


手順。

順番。

原理。

注意点。

歴史的な経緯。

他の学問との整合性。


そういうものには、

確実に理解していく行程がある。


だから、

間違った理解は、エラーになる。


一方で、

Sharing、つまり共有や刺激は、

主に「感覚」に関することだと思う。


ある実践をしたとき、

自分の内側にどんな感覚が立ち上がったか。


どんな気づきがあったか。

どんな風景が見えたか。

どんな表現として出てきたか。


そこに、基本的に間違いはない。


素直な、ありのままの感覚そのものに、

正解・不正解を持ち込むことはできない。


もちろん、

その感覚をあとから構造的に整理することはできる。


でも、

その人に生じた感覚そのものを、

上から訂正することはできない。


だから、

そこでは教えるというより、共有する。


参考として聞く。

視野を広げる刺激として受け取る。

忘れていたものを思い出すきっかけにする。


つまり、


Teachingは、構造に関して。

Sharingは、感覚に関して。


この使い分けが、

私はかなり大事だと思っている。


⭐️


間違っていたら指摘する。

理解の筋道を示す。

必要なところでは、ちゃんと訂正する。


そういう上下関係の中で行われるのが、

Teaching。


それは、構造に関する内容の場合。


一方で、

横並びの立ち位置で、感想を言い合う。

上下なく意見交換をする。

お互いの感覚を持ち寄る。


それが、

Sharing。


それは、感覚に関する内容の場合。


ここを混ぜてしまうと、

いろいろおかしくなる。


構造を扱っているのに、

全部を横並びの感想にしてしまうと、

技術や理解は深まらない。


逆に、

感覚を扱っているのに、

上から正解・不正解を決めてしまうと、

その人の内側に立ち上がっているものが潰れてしまう。


だから、

どちらが良い悪いではなくて、

何を扱っているのかによって、

立ち位置を変える必要がある。


⭐️


10年前に私が弟子入りした、

気功、チャクラワークなどのEssensia™️の

師匠は、

最初の講義で、まず

「師匠と弟子」

というテーマから話を始めた。


私は、実はこれが一番重要だったと思っている。


一にも二にも、

ここが一番大事だったのではないかと思うくらい。


それは、

超えていくことをどれだけ許しているか、

という計りに関する話でもあったのだけど、


今回はそこが主題ではないので、

ここでは少しぼかしておく。


で、本題のほう。


その師匠から、

たとえば気功を教えていただくとき、

手順やバリエーション、歴史的経緯、統計学的な部分、

神経学や中医学など、他の学問との整合部分については、

かなりしっかり教えるスタンスだった。


そこはTeaching。


後日、私が勘違いしていたら、


「それ、前にちゃんと言ってあるよ」


と、ちゃんと指摘が来る。 


ここは、なあなあではない。


構造に関することだから、

間違っていたら、間違っている。


そこには、ちゃんと上下がある。


⭐️


ただ、面白いのはここからで。


気功のある技について、

構造的な部分をひととおり教えてもらったあと、

私がたとえば2週間くらい、訓練しまくる。


で、明けて師匠に、


「こんな感覚が生じました」


とか報告する。


すると師匠は、


「ふ〜ん、そうなんだあ」


で終わる。


あるいは、


「僕の場合は、こんな感じになったりするけど、兄さんの場合は面白いね。初めて聞いたよ」


とか、


「よく、そういう感覚のことを言う人いる。この前教えたおばちゃんなんか、似てるね。こんな表現してたし、兄さんとよく似てる。ちょーおもろい。w」


みたいになる。


つまり、感覚については、

Teachingの上下関係ではなく、

完全に横並びの立ち位置になる。


師匠と弟子というより、

友達のようなやりとりになる。


そこでは、

私の感覚を師匠が上から裁く感じがない。


「それは違う」

とはならない。


「そうなんだ」

「面白いね」

「僕の場合はこう」

「他の人ではこういう例があった」


というSharingになる。


⭐️


で、たとえば私が、


「その感覚の違いって、

陰陽五行論のこの違いから来ているように、

今ふと思ったんですけど……。


あ、すみません、

いきなり変なこと喋って」


みたいになると、


師匠は、


「いや、兄さんおもろいね。てか、それまじ面白いポイントだから喋るね」


となる。


そこから、師匠が、

陰陽五行論と感覚の違いについて昔掘り下げたときの、

師匠なりの構造認識を教えてくれる。


この時は、Teachingになる。


ただし、師匠にも確証がない部分については、

ちゃんとSharingになる。


「だから、こういうことになっているはず。そこを研究するのも面白そうね。僕はそれやるまでの時間つくれないから、今はやらないけど」


みたいになる。


一方で、陰陽五行に関する昔の偉人の逸話や、

そこから窺い知れる感覚認識についての真実など、

師匠の中で確証がある部分については、

ちゃんと教えるスタンスになる。


「そこはそういうんじゃなくて、こう。たとえば、こういう時にこうしないのと同じ」


という感じで、

教え口調になる。


ちゃんと上下が立ち上がる。


⭐️


この切り替えが、

私はとても自然で、

ものすごくしっくり来た。


TeachingとSharingを、

自然体で使い分ける。


構造はTeaching。

感覚はSharing。


これが、当たり前のように行われていた。


現代社会は、

構造を重視する場では、

上下関係や規律が強くなりすぎることが多い。


ある意味、

軍隊のように、正しさ、手順、指示、管理に寄っていく。


一方で、

感覚を重視する場では、

「それは趣味でやるもの」

「自由に楽しめばいいもの」

みたいに扱われやすい。


もちろん、それでもいいと思う。


でも私としては、

構造か感覚かを、

シチュエーションで分けるのではなく、

内容によって切り替えるほうが、ずっとしっくり来る。


仕事だからTeaching。

趣味だからSharing。


先生だからTeaching。

友達だからSharing。


そういう分け方ではなくて、


今、扱っているのが構造ならTeaching。

今、扱っているのが感覚ならSharing。


この切り替えが、

場の中で自然に起きること。


それが、かなり健全なのではないかと思う。


⭐️


気功などを教わるときも、

技の効果については、


「やってみると面白いはず」


くらいの言い方になることが多かった。


例えば

「呼吸が楽になるというのも、たぶんそういう効果にもなるはず」


という言い方。


つまり、

本人の身体にどう立ち上がるかについては、

どこか横並びの余白がある。


でも、気をつけるべき点については違う。


「ここをこうやりすぎると、こんなふうに崩れる人が多いから、そこは気をつけて」


というふうに、

構造上の注意点は、ちゃんとビシッと言い切る。


ここは、

「感じ方は人それぞれだから」

では済ませない。


崩れる構造があるなら、

そこは教える。


だから、

「はず」

と、

「ちゃんとこうやって」


が入り混じる。


横並びと縦関係が、

同じ場の中で自然に混ざる。


普通の人は、

もしかすると混乱するかもしれない。


でも私は、

そこがめちゃくちゃしっくり来た。


なぜなら、

それは態度がブレているのではなくて、

扱っている内容によって、

立ち位置が正確に切り替わっているだけだから。


⭐️


構造を扱うときは、

ちゃんと教える。


感覚を扱うときは、

並んで共有する。


確証があるところは、

責任を持って伝える。


確証がないところは、

一緒に面白がる。


これは、

とても高度だけど、

本来すごく自然なコミュニケーションだと思う。


Teachingは、構造に関して。

Sharingは、感覚に関して。


この使い分けが、

もう少し社会の中で自然に起きるようになると、

いろいろな場が、もっと楽に、深く、豊かになる気がしている。


この先の話をすると、

また長くなるので、

今日はこのへんで。




全体を把握した上で、

部分の目的を確認して動き出すと、

パフォーマンスが上がる。


これは、

チャリでデッカい橋を渡り切る時とかに

マジ体感ベースで毎回確認している。

(なぜ、それ?w)


何をいきなり?

っていう出だしだが。w


⭐️


構造を把握してから動き出すと、


ペース配分とか、

出力の配分とか、

今どこで力を使うべきか、

みたいなものが的確になる感じがある。


運動のパフォーマンスが上がるのを、

実際に体験しています。


気功の訓練をしていても、

そこに近いポイントを見つけた。


まずイメージでつくる。

軽くなぞる。

それから、実際に動かす。


これをやると、

体がちゃんとしてくる。

(ちゃんとするって、どんだけ漠然とした表現だ💦)


だからというわけかは知らんが、

構造把握は、いつもやってしまう。


⭐️


一方で、


何かを見て、

それから、やおら動き出す。


っていうのも大事だよね!

って思う。


構造の安心感から動くのではなく、


なんとなく動きたくなった。

動き方は、自分が決める。


ってやつ。


構造?

知らんがな。


あとで振り返れば、

そういうのはいくらでも分かるんちゃうん?


ってやつ。w


⭐️


たとえば、

有名な陸上選手がインタビューで、


「どうやったら、そんなにいい記録が出るんですか?」

と聞かれて、


「ウサギのイメージに入ると、必ず体が思いきり動ける感じになるんです。だから、まずそれをやっています」


と答えたとする。


それを見た子どもたちは、

たぶん、みんな違う受け取り方をする。


ある子は、


「ウサギのイメージか。陸上じゃなくて、正月のカルタ大会で使えそうだな」

と思うかもしれない。


ある子は、


「そのまま陸上で試してみよう」


と思うかもしれない。


また別の子は、


「私の場合は、ウサギじゃなくて、ジャッカルとか、鷹のほうが合いそう」


と思うかもしれない。


ある子は、


「あの選手は、動物のイメージの話をしているようで、本当は“なにかになりきる過程”の話をしているんじゃないか」


と感じるかもしれない。


⭐️


何かを学ぶ時、

真似ることが大事だというかそこから始まると聞いたことがある。


でも、

説明通りに再現することだけが、

真似ることではないと思う。


それは、どちらかというと、

マニュアル通りにやろうとすること。


もちろん、それも大事な時はある。


でも、真似るというのは、

説明されていない部分まで含めて、


自分なりに、

自分もやってみようとすること。


そこに、学ぶことの本質がある気がする。


説明されたものは、参考まで。


説明に則ってもいい。

則らなくてもいい。


学ぶことの本質は、


見た。

じゃ、動く。


見たら、

やおら動く。


そこなのだと思う。


⭐️


学ぶことと、

勉強することは、

狭い意味では少し違うと思う。


構造は、勉強する対象。

その通りに理解していく。


でも、

その人や、その動きや、その場が

醸し出しているものは

学ぶもの。


つまり、

独自に真似てみるもの。


分かってから動く。

Think。


分からないまま、やおら動く。

Feel。


どちらも大事。


どちらかだけに偏ると、

少し固くなる。



構造を見て、

感覚で動く。


感覚で動いて、

あとから構造が見えてくる。


その往復が、

けっこう面白いんじゃないかと思う。

いかに?


 

image

 

 

これは、

単に「人は変われる」という話ではなくて、

 

変化が起きる時、 

本当はどの位置が変わっているのか、 

という話です。 

 

 ⭐️

 

 例えば、 

イモムシが蝶になる。 

 

 あいだに蛹になるけどね。

 

で、

 

全く前のもんがなくなって、

新しくなる。

 

そういう見方もできる。

 

が、

 

その存在自体は、

変わらず続いてるよね。

 

とぎれてない。

 

だから、

起きているのは、

単なる消滅と新生ではなくて、

 

再編成。

 

位置が変わる。

 

⭐️

 

ただし、ここで言う位置は、

物理的な位置ではない。

 

いわば、

3Dプリンターで何かつくるプログラミングを、

全く違うものにした。

 

そういう話ではない。

 

変わる位置は、

細胞の場所とか、

構成とか、

構造上の位置そのものではない。

 

もっと手前の、

構成し始める立ち位置が変わる。

 

⭐️

 

イモムシが、

全く形態の違う蝶になる際、

 

変わるのは、

 

「そういうことは起きえない」

という立ち位置から、

 

「起き得る」

という立ち位置になる点。

 

それが、

なによりもまず、なのだと思う。

 

言い方を変えると、

 

物理的形態、

神経ネットワーク構造、

思考回路、

空間把握能力のための感覚器官とその構造。

 

それらが、

一度ゼロになって、

全く新しくなるとしても、

 

ブレずに、

ずっとあるもの。

 

つまり、

存在そのものに、

立ち位置が変わるということ。

 

デザインされている上記のことがらにあった立ち位置を、

 

デザインする側の存在そのものに変える。

 

ある意味、戻る。

 

⭐️

 

変わるのは、

意識の始点であって、

 

構成とか形態、

目に見えて把握できるものが、

全く違うものになったとしても、

 

それらは、

副次的にというか、

当たり前に変わったというか。

 

⭐️

 

これは、

仕事や表現でも同じだと思う。

 

たとえば、

 

ラーメン屋の店主が、

 

ちょいメニュー構成の中に、

定食もんも増やしていこ、とか、

 

いや、

ちょい冒険的に、

洋風メニューも若干加える変化も試みよう、

 

ってやるんじゃなくて、

 

あれ?

えと、ちょいさ、

 

そもそもんとこのほうこそ、

変えてみよか、

 

ってなる。

 

そもそもな、

 

おいら、

なんかを提供すると、

喜びが生じるんやた。

 

枝葉末節から、

そもそもへ、

立ち位置を変えてみるとな、

 

おいらっていう存在は、

そんな感じや。ってなる。

 

⭐️

 

そこからの、

 

ちょい蛹にでもなったんじゃないかいうような、

 

周りが心配しかけるくらいに、

しばらくのあいだ喋らんなって、

固まっとった。

 

おもたら、

 

やおら、動き出したら、

 

なに?

 

漫才デビューしはじめた。

 

SNSからはじめて、

しだいに浅草界隈でも、

リアルに活躍し出す。

 

提供するのが、

おいらやからて、なてるから、

 

そこだけ一貫してて、

 

ほぼ、

いろんなこと変わってもうたが、

 

まあ、

変わったいうことの本質は、

いうか、

 

きっかけはいうか、

 

まあ、ぶっちゃけ、

何が変わったん?

 

いうてなったら、

答えるんは、

 

立ち位置の始点を、

ぐっと引いたいうか、

 

それ変えただけや。

 

てなる。

 

ラーメン屋はじまりの例えは、ここで終わり。

 

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⭐️

 

まとめよう。

 

何から何まで、

全く変わるっていうのは、

 

その変わるポイントが、

あたかも、

次元がいくつも上のポイントで変わる、

 

ということ。

 

形の中で、

形をいじるのではなく、

 

形が生じてくる、

その始点の位置が変わる。

 

だから、

外から見れば、

何もかも変わったように見えても、

 

本人の中では、

むしろ、

 

より根本のところに戻っただけ、

なのかもしれない。

 

⭐️

 

あなたの

羽ばたく変化の日常に。

 

Good luck!

 

⭐️

 

注)ここでは、たまたま
「ラーメン屋という形態から、漫才師という形態への変化」
を例に出しました。

 

でもこれは、
ラーメン屋より漫才師が上、という話ではありません。

 

例えとしては、逆でもいい。

 

漫才師が、己の存在の視点に戻った時に、
ラーメン屋を始めて、
その道にまい進する。

 

そういう変化でもいい。

 

ここで見ているのは、
職業や形態の優劣ではなく、

どこから、それを始めているのか。

 

その始点の話です。

 

例えは、漠然とした自由解釈が可能なところも香るから、
受け取る人によって、
意図とは違う読み方になることもあります。

 

なので、念のため、
ここだけは書いておきました。

 

 

※書き下ろした時の流れに近い文章は、コメント欄に置いておきます。

 

 

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前の記事、

存在意義が変わるという重要ポイント

の中で、金融経済に関して感じることも書きましたが、


このテーマを絡めていくと、やはり、書き方を整えても、なかなか伝わりにくくなってしまうところがあるみたいです。


整えすぎると、逆に自分の中から出てきた熱や、違和感の切実さが薄まってしまうのかもしれない。


そう思ったので、追記的に書いてみます。


⭐️


たとえば、

食べ物から栄養を摂取しなくてもよくなる、

というような変化が仮に起きたとしても、

血液が全身にちゃんと巡る必要はあります。


「いいものをたくさん摂る」方向から、

「ちゃんと巡るようにする」方向へ。


健康維持活動の実質的な意義が変わる。

というか、自然な在り方へ戻る方向なのかもしれません。


どの栄養を摂るか。

どの食品を選ぶか。

どの組み合わせで摂るか。


そこから、


どうすれば、ちゃんと巡るのか。

どうすれば、流れが滞らないのか。


そこへ重心が変わっていく。

意識するポイントが変わっていく。


健康維持活動がなくなるのではなく、

意義が変わって、

でもちゃんと存在していく。


それと同じように、

金融経済も、意義が変わって存在していくのだと思います。

(もちろん金銭を軽く見て良いということではありません。流れが滞ることの重さを感じるからこそ、存在意義を見誤らないということです。


ただ、日常意識すべき重要度、という目線では、

ほとんど重要ではなくなっていくのかもしれない。


つまり、健康維持活動や金融経済も、

ほとんど意識せずに放置していても問題ないくらいに、

自然に回るものになっていく可能性がある。


けれど、それは重要度の話です。


このブログで書いたのは、

存在意義の話です。


日常的な重要度は低くなっても、

そのシステムに関しては、

むしろ別の意味で重要度が高くなる。


健康システム。

金融経済システム。


それらは、日常レベルの損得や管理の話ではなく、

もっと哲学的で、

もっと実質的な構造の話であり、

世界との協調度を測るものでもあり、

廻す、巡らす、通す、という流れの維持による、

変化する現象の中での生存可能性の直接的な尺度のようなものになっていく。


ある意味、俗ではなく聖な意義のもの寄りになって、

哲学・倫理・存在論などとの接点が増加していく方向。


また、一方で、流通量の多寡の反映の仕組みなども根本から変わっていくなどもあり得ると思います。


まるで、ドラえもんの中で出てくる世の中の全てが逆さまになるように、

とまではいかないかもしれませんが。


ただ、そうなったとしても、金銭自体の所持に価値があるのでなく、それがちゃんと流れているかに価値というか、

意義が変わっていく。


経済というものが、金銭の多寡でなく、流れそのものという本来の立ち位置に戻る。


通っているか。

流れているか。

廻っているか。

周りと同期しているか。


量は関係なくなる。


そうなると「思います」ではなく、

そうなるはずだ、と言い切りたいくらいの感覚があります。

実は。


⭐️


30年くらい前から、

この変わり目の時代に、

このテーマをしっかり見ていきたいと思っていました。


可能なら、

その変わり目で何か手助けをしたいとも思っていました。


だから、どうしても熱くなってしまう。


ただ、熱量がありすぎると伝わりにくいかと思い、

前の記事ではかなり整えた形にしました。


でも、こうして書いてみると、

やっぱり本当に書きたいことを書くときは、

整えすぎるよりも、

自分の中から出てきた言葉を、そのまま出す方がよいのかもしれない。


そんなことも、少し思いました。

⭐️

執筆中の飛び猫2にも、今回記事のテーマは入りますが、書き終えるのまだ先になりそう。💦