ファンタジー論、を限りなく従来の定義とかをほったらかしにしてまとめたくなった。
感覚世界には、深度がある。まずね。
深い深度方向は、自分自身の内面方向の感覚を探っていく方向。
浅い深度は、あくまで浅いのであって、方向としてはそちらだが、焦点は自分の外がかなりを占める。
外を意識したところで、それを認識したときの認知は自分の内面そのものでしかない。
というか、よりリアルに書くなら、認識できるすべては自分の内面だよ。
だって、目に映るものは自分の網膜スクリーンに映っているんだし、それをどう認知するかは、自分の趣向に最適化された脳みそでしょ?
興味ないものは映っていても見えないとか、普通にあるじゃん、人間。
だから、結局、自分の外を、そのものの感覚として感じることは無理。
食事をとる、Hで交わる、衣をまとう、住まいに住む、寝るときの空気、などなどは、実際、その行為に関わる対象を感じることになるが、厳密に言えば、自分の内でその感覚は生じている。
ていうか、もっと厳密にいうなら、自分の外なんてない。
全部自分の中。
ていうか、全部自分。
こう表現すると、あぶないように聞こえるふしあると思うが、正直に精査してみるだけでわかる。
外を感じるなんてできないよ。
で、外と感じるものが刺激となって、自分の内にあるものに気付く。
ときおり、それは痛みとして感じられ、
それを、そこにそのままあるものとして感じられると、最適化する。
逆説的に、痛みはなくなる。
それを排除しようとしたり、切ったり貼ったり的に動かそうとすると、痛みは続く。
で、痛みがなくなれば、それは自分の中のそこの部分が稼働状態に入ったということで、それは本来の状態に戻るということ。
別に、外からのアプローチによって刷新された変化をしたわけでもない。
あ、これは、そういうことがありえないっていうことね。
そもそも。
つまり、横道それるが激しくなったが、
深度には、浅い・深いがある。
浅い深度は、日常の意識状態というか、左脳を使う仕事などで具体的なことに集中している状態のときが多い。
深い深度は、自分の内面の感覚。
それは体感でよい。
心理とかでないほうが、深くいけるはず。
その感覚を探っていっているところが、深い深度感覚。
で、その深いところと浅いところを、ただよう香りのように、風のように通るものがある。
また、深い深度に行くにも、ちゃんと変な方向へいかないためには、この香りのような風のようなものに意識を向ける。
それは、ファンタジー感覚と呼んでもよいと思う。
赤色を呼び起こそう、内面にある赤色に焦点をあてようと思ったら、赤いものを見てもよい。
が、見ずにそれをやる。
つまり、深い深度の赤色に意識を向けたくなったら、リアルな赤色を視覚的にイメージするだけだと、変なところに行く。
だから、赤、チューリップの赤い花の色を思い出して、その匂い的なものを感じて、脳みそがジーンとなつかしいような振動を起こす、みたいな。
もしくは、真っ赤な夕焼けを思い出して、
一日遊んだあとにそれを見たときの、ホタルノヒカリの音とともに、
なんともいえず脳みそが鎮まる感じと、遊んだ満足を覚えながら見ていた、あったかい感覚。
もしかしたら、そのあと家に帰って、用意してあるクリームシチューの匂いとかも結びついているかもしれない。
そういうのこそ、
つまり、そういうファンタジー的感覚と呼んだらよさそうなものこそが、
本当に全うな深い深度にいける要素として使えるし、
深い・浅いに関係なく、自由にただようように行き来できる乗り物だ。
ファンタジー感覚とは、
ときに、音楽になるし、
ときに、存在感になるし、
ときに、なんだろ、ただ生きている歓びになる。




