Platina Star AXIS

Platina Star AXIS

Returning to a state where movement flows through

このブログは、Platina Star の記録です。


 


判断と感覚を、静かに整える。

そして、動きが通る状態へ戻る。


 


※心理や思想というより、

身体感覚・判断・空間(SPACE)の扱いのメモが中心です。


どんな記事が多いの? 


 


ざっくり言うと、こんな内容が並びます。


 


 ●体の詰まりがほどける(通る)感覚 


 ●痛みの扱い方(避けるより“見る”)


 ●動きを変える前に、動きが生まれる土壌を戻す


 ●0→1(創造や繁栄)が起きる条件


 ●経営や関係性にもつながる“調律”の話


 




まずはこの3本から



ここから読むと、いちばん迷いません。



①【通す】詰まりをほどく最短ルートは「痛みを見る」



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954261424.html



②Awai Movement|動きが生まれる土壌を回復する



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954073974.html



③スティフ/フリー:締める・通る



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12953964159.html



 





入口:体が通る



「まず試せる」「役に立つ」で入れる記事たち。



・焦点は固定できる。でも体感覚は固定しない



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12953804227.html



・【Pain? / Nah. #2】かゆみとしての痛み



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12952467558.html





コア:通すという状態



体と判断が“通る”状態の、中心メモ。



・【通す、という状態】― ディープディシューの奥が晴れた朝のメモ



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12950772720.html



・【通す、という状態】ー今日は、川の話になった☆彡



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12950465579.html



・ファンタジー感覚についての覚え書き ~深度を行き来するもの~



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12952141553.html



 





0→1 / 関係性



自分の中で0→1が起きる。関係性の中で起きる。



・【0→1】0と0を1にする:繁栄は勝手に起こる



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954092925.html



・【0→1】0→1は、自分の中でも起きる(意識×身体感覚)



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954135573.html



・【関係性】ユニゾワるって、恋愛じゃね?(恋愛としてのコ・クリエイション)



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954093080.html



 





経営・構造



感覚の話が、そのまま経営の話につながるところ。



・比較の概念がドロンする経営



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954092559.html



・【全体性経営の原理】 ― 経営を「構造」として観察した記録 ―



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12949918978.html



・感覚から始めることは、なぜ「核心」なのか

— 子供・踊り・言葉、そして経営へ



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12950883875.html



 





SPACE / AXIS



ここは“好きな人が戻ってくる棚”です。

2~3本読んでから入るのがおすすめ。



・SPACEの側に立つ — Category Error Notes



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954466407.html



・空間として在る、ということ(メモ)



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12952982586.html



・水平方向と垂直方向についての覚書



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12952902063.html



・AXISメモ|縦と横の話



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954026112.html



・奥多比ドロン:印象の操作権は誰のもの?



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12954596270.html



・誤解?まあ、風や。



https://ameblo.jp/greatexperi/entry-12953643408.html



 





まとめ



整えるのは、能力じゃない。

判断の位置だ。



静かに、でも確実に。

判断と感覚の主導権を、自分に戻す。



 





Platina Star Global(統合HP)



全体の世界観・サービスの入口はこちら。



Platina Star Global



https://platinastar-global.jimdofree.com/







量から、通るへ。



私は最近、


時代は少しずつ、


「どれだけ持っているか。」


という量で測る時代から、


「ちゃんと通っているか。」


という時代へ変わりつつあるように感じている。


これは、おそらく経済だけの話ではない。


ほとんどすべてのジャンルに言えることだと思う。


今回は、その中でも分かりやすい「お金」を例にして話してみたい。



数年前の旅で思ったこと



数年前、


三人で東北・北海道を旅した。


私は運転が大好きなので、


「できるだけ運転したい。」


と自分から参加した。


その時、一人の若いメンバーが、


「嫌々運転するくらいなら断ってくださいね。」


と念押ししてきた。


私は、


「いや、運転大好きだから。それだけでも幸せなんよ。」


と答えた。


そして数日間、ほぼずっと運転した。


私にとっては、本当に楽しい時間だった。



旅の最終日。


ちょうどこちらから、


「いろいろありがとう。」


と伝えようとしていた、その直前。


その若いメンバーが、


「たくさん運転できたんだから、我々に感謝しなければダメですよ。」


と真顔で言った。


私は素直に感謝を伝えた。


実際、旅に誘ってもらったことにも、新しい経験にも感謝していたから。


でも、心の中では、


「なんか違うな。」と思った。



別に、


「運転手の役目をしたんだから感謝しろ。」


と思っているわけではない。


好きでやったことだから。


ただ、


「長時間ありがとうございました。」


という、ごく自然な一言すらなく、


好きでやっているんだから当然、


という空気のまま、


逆にこちらへ感謝を求めてくる。


そこには違和感があった。



後から思ったこと



知り合い同士だからこそ、


最初に一度、


「運転代は払います。」


「いや、今回は好きでやってるから大丈夫です。」


そんなやり取りがあったほうが、


旅全体はもっと気持ちよく流れたんじゃないか、と。


実際に払うかどうかは、本質ではない。そのやり取りを通すことで、


「相手の労力を当たり前にしない。」


という姿勢が自然に表れる。


その土台があるから、


「ありがとうございました。」


も、


「こちらこそ。」


も、


無理なく通る。



近所同士でも、よくある。


「これ、お代。」


「いや、お金なんていいわよ。」


「そんな、悪いわよ。」


「ほんとに気持ちだから。」


結局、お金は動かないかもしれない。


でも、


お金という仕組みを一度かますからこそ、


そのやり取りの中で、


自然と感謝や敬意を表す姿勢が生まれる。


そして、


その気持ちがちゃんと通るから、


その後の交流も、


引っ掛かりなくスムーズになる。


私は、


お金には、


そんな役割もあるように思う。



スキル交換でも同じ



お互いの得意なことを、


無償で交換する。


そんな場面でも、


「相手から受け取ったもののほうが大きい。」


と感じることがある。


「あぁ、自分から返せるものが今はない。」


そんな時、


「少しだけ受け取ってください。」


と、お金を添えることで、


お互いが気持ちよく終われることがある。



これは、


価値を合わせているのではない。


損得を計算しているのでもない。


おそらく人は、


自分の中で納得できる価値スケールで交換できた時、


一番気持ちよく受け取り、


一番気持ちよく与えられる。


だから、


「今の私には同じものを返せません。


ンその代わり、お金を添えるので、


そのお金で、どなたかから同じくらいの価値のものを受け取ってください。


そうすれば私も、


あなたのご厚意を思い切り受け取れます。」


そんなことが、


無意識ででも起きているのではないかと思う。



ここで本当に動いているものは、


お金ではない。


「ありがとう」と言える状態だ。


お互いを尊重しながら、


気持ちよく与え、


気持ちよく受け取り、


これからも気持ちよく交流していける。


その状態が通っている。


お金は、


その状態を支える橋になることがある。



感謝の仕合い



考えてみると、不思議だ。


感謝を伝えるために、


双方がお金を差し出す。


「今回はありがとうございました。」


「いえ、こちらこそ。」


そんなやり取りをする。


結局、お互い返し合えば、


所持金という量だけ見れば、


何も変わっていない。


増えてもいない。


減ってもいない。


でも、


何も流れていなかったわけではない。


流れたものがある。


気持ちだ。


感謝だ。


敬意だ。


尊重だ。


思いやりだ。


数字では測れないものが、


ちゃんと相手へ届いている。


量は変わらない。


だけど、


通った。


そこには、


数字では表せない豊かさがある。


私は、この状態を


「感謝の仕合い」


と呼びたい。


勝ち負けの試合ではない。


お互いが感謝を仕合わせる、


そんな仕合いだ。



AI時代のお金



もしAIが発達し、


生活必需品や社会インフラの多くが無料になったら、


お金は必要なくなるのだろうか。


私は、そうは思わない。


むしろ、


物を手に入れるための役割が小さくなるほど、


人と人との間で、


気持ちを通すための役割が、


より鮮明になっていくような気がしている。


敬意。


感謝。


配慮。


尊重。


思いやり。


そういう目に見えないものを、


自然に流す媒体として。



以前私は、


「お金がなくなっても、その哲学や倫理だけは残るかもしれない。」


と考えたことがある。


今でも、その考えはある。


でも最近、逆のことも思うようになった。


現実にお金があるからこそ、通る気持ちもある。


お金は、


価値を交換するための道具であると同時に、


「ありがとう」と言える状態を支える道具でもある。


人と人との間に、


感謝や敬意が自然に流れるよう、


静かに働いていることがある。



冒頭に戻ろう。


私は、


時代は「量から、通るへ」と変わりつつあると思っている。


もちろん、量を否定したいわけではない。


量があることも大切だ。


減らす必要もない。


ただ、


その先に、もう一つ大切な方向がある。


通ること。


ふれあいが通る。


やり取りが通る。


気持ちが通る。


感謝が通る。


尊重が通る。


敬意が通る。


量が変わることもある。


変わらないこともある。


でも、


その向こうで、


人と人との間に何かが通った時、


そこには数字では測れない豊かさが生まれている。


そんな社会を支えるためにも、


お金は、まだまだ役に立つ存在なのだと私は思う。


そして、


これからの時代は、


「どれだけ持っているか」だけでなく、


「どれだけ通っているか」。


そこにも価値を見出していく時代になるような気がしている。




P.S.


例えば、


知識も、


「どれだけ持っているか」ではなく、


「どれだけ通っているか」


という見方ができるような気もしている。


ここから続けると、


コーヒーでも沸かして飲むくらいの休憩を一旦はさんで、


次の時限で続きをやるみたいな時間割感になるので、


今回は、このへんで。☕️😄






人に合わせず、人に届く 

 ー 価値が通り、流れが生まれるところ



少し、自分の中で整理しておきたいことがあります。


まだ結論として強く言い切るというより、

今の時点で、こう捉えると少し見通しがよくなる、

という程度の整理です。


⭐️


仕事の価値について考えるとき、

よく「人に喜んでもらうこと」が大事だと言われます。


それは確かにそうだと思います。


ただし、ここでいう「喜んでもらう」は、

単に相手を気分よくさせるとか、

相手の望みに合わせるとか、

そういう意味だけではありません。


仕事には、いろいろな種類があります。


ものを作る仕事。

運ぶ仕事。

売る仕事。

直す仕事。

守る仕事。

整える仕事。

管理する仕事。

判断する仕事。

教える仕事。

楽しませる仕事。

安心させる仕事。

止める仕事。

記録する仕事。

表に出ないところで、滞りを減らす仕事。


接客のように、

人と直接向き合う仕事もある。


テレフォンオペレーターのように、

相手の困りごとや確認事項を受け取り、

必要なところへつなぐ仕事もある。


建設業のように、

身体を使い、現場で形を作り、

社会の土台そのものを支える仕事もある。


清掃のように、


場を清め、整え、


人が安心して通れる状態を保つ仕事もある。


人と直接関わる仕事もあれば、

仕組みや環境を支える仕事もある。


目に見える成果を出す仕事もあれば、

問題が起きないように保つ仕事もある。


だから、すべての仕事を

「人に喜んでもらうため」

という一言だけでまとめると、少し雑になるかもしれません。


けれど大きく見るなら、

仕事の価値は、

誰かの生や活動や場が、少しでも整うことにあるのだと思います。


喜び。

安心。

納得。

回復。

整理。

保全。

前進。

滞りの解消。


形はいろいろあっても、

何かが少し通る。


そこに仕事の価値がある。


⭐️


では、人の価値とは何か。


ここは、仕事の価値とは少し違う話だと思います。


人の価値は、

単に誰かの役に立つことだけで決まるものではない。


何かができるから価値がある。

成果を出すから価値がある。

人に喜ばれるから価値がある。


もちろん、そういう面もあります。


けれど、それだけではない。


人の価値は、

他の誰かに合わせることで生まれるものではなく、

その人から自然に発露しているものの中に現れるのだと思います。


その人の感覚。

その人の視点。

その人の判断。

その人の手触り。

その人の間合い。

その人の存在の仕方。


そういうものが、

無理に世間へ合わせたものではなく、

その人自身の深いところから出ているとき、

そこにその人の意味が現れる。


これは、

「独自でなければ価値がない」

という話ではありません。


目立つ個性があるかどうかでもない。


特別な才能があるかどうかでもない。


むしろ、

その人がその人として、

どれだけ無理なく通っているか。


そこが大事なのだと思います。


⭐️


世間に合わせる。

他人の価値観に合わせる。

評価されそうな形に寄せる。

喜ばれそうなものを演じる。


そういう方向で作ったものは、

一時的に反応を得ることはあるかもしれません。


けれど、自分の深いところから発露していないなら、

どこかで通りにくくなる。


疲れる。

ズレる。

続かない。

自分の中で、何かが濁る。


一方で、

自分の奥から自然に出ているものが、

結果として誰かに届くことがあります。


それが、誰かの喜びになる。

誰かの安心になる。

誰かの整理になる。

誰かの支えになる。

誰かの前進になる。


そのとき、価値は循環している。


通っている。


ここで大事なのは、

人に合わせることと、

人に届くことは違う、ということです。


世間に合わせることと、

社会の中で価値を持つことも違う。


人に合わせているように見えて、

実は通っていないこともある。


逆に、

自分の深いところから出ているものが、

結果として人に深く届くこともある。


通す方向は、

世間や他人に合わせていく方向ではない。


どれだけ自分から純粋に発露しているか。


どれだけ、その人自身から出ているか。


その方向へ深く入っていくことが、

逆説的に、

世間や他人を喜ばせ、

支え、

役に立つことにつながるのだと思います。


⭐️


自分から出ているものが、

他者にも届く。


自分も喜び、

他者も喜ぶ。


自分の深いところが通り、

それが他者や場にも流れる。


そこに、

自他享楽の世界があるのだと思います。


もちろん、これは単純に

「好きなことをすればいい」

という話ではありません。


「自分らしければそれでいい」

という話でもない。


仕事として誰かに届くには、

相手がいる。

場がある。

現実がある。

責任がある。

受け取り手がいる。


だから、自分から出ていることと、

他者や社会の流れに届いていることの両方が大事になる。


ただ、少なくとも、

世間に合わせることで価値を作ろうとする方向だけでは、

どこかで苦しくなる。


本当に通る価値は、

自分の深いところから発露したものが、

結果として誰かや社会の流れに届いている状態なのだと思います。


人に合わせるのではなく、

人に届く。


ここを取り違えないこと。


⭐️


そして、この

「自分から出ているもの」

「他者や社会の流れに届いているもの」

という二つは、一見すると逆方向に見えるかもしれません。


自分の深いところへ入っていくことと、

社会の中で価値を持つこと。


純粋に発露することと、

誰かの役に立つこと。


この二つは、対立しているように見えることがあります。


けれど本当は、

ここがつながったときに、

価値は通るのだと思います。


自分を曲げて、世間に合わせるのではない。

かといって、自分の中だけで完結するのでもない。


自分から純粋に出ているものが、

結果として誰かに届き、

誰かの喜びや安心や整理や前進につながっている。


そのとき、

自分と他者の間に、

ひとつの流れが生まれている。


⭐️


ここで大事なのは、

価値観が同じだから価値が通る、

というわけではないことです。


むしろ、

価値観が違うまま、価値が通うことがある。


同じ価値観になることではなく、

違うまま交換できること。


自分から出たものが、

相手の世界の中で別の意味を持つ。


相手から差し出されたものが、

自分の中で思いがけず響く。


違う感覚、違う立場、違う欲求の間を、何かが通る。


そこに、価値交換のダイナミクスがあるのだと思います。


⭐️


そして、もしこれから先、

お金の意味が変わっていくのだとしたら、

お金、あるいは電子ポイントのようなものは、

この流れを映し出すものになっていくのかもしれません。


生きるために必要なものを得るためのお金ではなく、

価値がどこで発露し、

どこへ届き、

どのように循環しているのかを示すもの。


ただし、それは、

価値そのものを測るということではありません。


人の価値に値段をつけるものでもない。


むしろ、

その人から発露したものが、

どこへ届き、

どのように受け取られ、

どんな循環を生んでいるのか。


その流れを示す、

ひとつの痕跡のようなものになるのではないか。


価値を測るのではなく、

価値が通った流れを映すもの。


そう考えた方が、

私の中ではしっくりきます。


⭐️


そうなると大事なのは、

単にどれだけ持っているかではなくなります。


資金の保有量。

つまり、手元にいくらあるのか。


もちろん、それもまったく無意味になるわけではありません。


けれど、より重要になるのは、

その資金やポイントが、

どこから入り、

どこへ流れ、

何を支え、

どんな循環を生んでいるのか、

ということなのだと思います。


従来の会計の言葉で言えば、

B/S、つまり貸借対照表に表れる保有状態だけではなく、

P/L、つまり損益計算書に表れる活動の結果や、

そこから読み取れる価値循環の方が重要になっていく。


そして、さらに大事なのは、

キャッシュフロー的な視点だと思います。


実際に何が入り、

どこへ出ていき、

どこで流れが止まり、

どこで次の活動につながっているのか。


どれだけ大きく見えても、

流れが滞っていれば、通っていない。


逆に、手元に大きく残っていなくても、

価値が入り、必要なところへ流れ、

協力者や次の活動へつながっているなら、

そこには確かな循環がある。


だから、これからの財務や会計で重要になるのは、

単に利益が出ているかどうかだけではなく、

どんな価値が生まれ、

どんな協力関係が動き、

どこに流れが滞り、

どこに次の可能性が生まれているのかを読むことなのだと思います。


つまり、

所持金額そのものよりも、

流れ。


保有量よりも、

循環。


金額の大きさよりも、

どこから来て、どこへ届き、何を動かしたのか。


そこを見ることが、

お金の意味が変わっていく社会における、

財務や会計の新しい役割になっていくのかもしれません。


⭐️


このあたりは、以前書いた

「固有の価値の交換が、主流となる世界」

という記事で考えたことともつながっています。


人に合わせることと、

人に届くことは違う。


そして、

自分から出ているものが、

他者や社会に届いたとき、

そこに価値の交換と循環が生まれる。


その流れをどう見るのか。

どう扱うのか。

どう循環させるのか。


そこに、これからのお金や経済の意味を

考える入口があるのかもしれません。


⭐️


これはまだ、現時点での整理です。


ただ、

人に合わせることと、

人に届くことは違う。


この違いを見ておくことは、

自分が何をしていくのかを考えるうえで、かなり大事なのではないかと思っています。




----------------



ところで、

新しい経済について私が思う理想を、

少しだけ別の角度からまとめておきます。



生活必需品、基礎サービス、インフラ、一定の贅沢品、システム利用は、

無償、あるいは限りなく無償に近づいていく。


だから、生きるためにお金はいらなくなる。


ただし、

人が人として提供するもの。


活動。

場。

表現。

判断。

手仕事。

コミュニティ。

協力体。


そうしたところには、

価値の流れが生まれる。


そこに、ポイントやお金に似たものが流れる。


でもそれは、

奪い合うものではない。


溜め込むものでもない。


生存を守るために抱え込むものでもない。


どこに価値が通ったのかを映し、

どこへ流すのかを選ぶためのもの。


そして、

他者に見せつけるためのものではなく、

自己の流れや通りを内省するための判断材料になるもの。


価値の点数表ではなく、

流れの鏡。 


そういうものとして、

お金の存在意義が変化していく。


そのような新しい経済による社会が、

私には一番筋が通っているように思えます。


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追記:


お金は本来、
価値観の違いを超えて、
人と人、活動と活動、場と場をつなぐための媒体なのかもしれません。


だとすれば、
お金は単に消えるのではなく、
その本来の目的の方へ変化し、
再編成されていく。


つまり、
存在意義そのものが止揚されていく。


そんな可能性もあるのではないかと思っています。


さらに言えば、
私は、存在するものすべては本当の意味では無くならないのではないか、
と思っています。


それは、同じ形のまま残り続けるという意味ではありません。


形を変える。
名前を変える。
役割を変える。
届き方を変える。
別の場へ流れ込む。


そうやって、存在意義を変えながら、
何かは通り続けていくのではないかと思うのです。


たとえば、長く続いたバンドがあったとして、
メンバーが入れ替わり、名前が変わり、
その音楽がCMで使われ、商品と結びつき、
さらにそこから新しい作品やキャラクターへ広がっていく。


外形だけ見れば、
元のバンドとはもう別物かもしれない。


けれど、最初にそこから出た何かの気配や振動、
魂のようなものが、形を変えて別の場所に通っていることがある。


イモムシが蝶になることも、
人が亡くなって別の在り方へ移ることも、
もしかすると同じ構造の中で見られるのかもしれません。


無くなるのではなく、
通り方が変わる。


存在は、個体として固定されるというより、
流れとして保存されていく。


だから、お金についても、
単に「無くなる」とは私はあまり感じていません。


お金という存在にも、
長い時間をかけて保持してきた光がある。


それが、支配や不安や奪い合いの道具としてではなく、
価値観の違いを超えて、
人と人、活動と活動、場と場をつなぐ媒体として、
本来の目的の方へ組み替わっていく。


そういう意味で、
お金の存在意義そのものが、
止揚されていく可能性があるのではないかと思っています。


もしかすると、最終的には、
電子的な形すら持たなくなるのかもしれません。


お金という形を離れ、
人々の関係性の中にある捉え方や哲学へと、
姿を変えていく。


形も、名前も、扱われ方も変わる。


それでも、
それが担ってきた何かは、
無くなるのではなく、
別のかたちで通り続けていくのではないか。


そんなふうに感じています。





立ち位置を固定しないということ


TeachingとSharingから見る、自然なコミュニケーションの要点


少し前から、

Teaching と Sharing という切り口で、

コミュニケーションについて考えていました。


Teaching は、構造を渡すこと。


整理する。

説明する。

方向を示す。

手順を伝える。

必要な指摘をする。


Sharing は、感覚を共有すること。


一緒に感じる。

体験を受け取る。

横に並ぶ。

相手の話の中に入る。

余白を持つ。


どちらが上で、どちらが下という話ではありません。


どちらも必要です。


ただ、最近あらためて感じているのは、円滑なコミュニケーションにおいて大事なのは、

Teaching か Sharing か、という分類そのものよりも、

その場に応じて、立ち位置を固定しないことなのかもしれない、ということです。


⭐️


人間関係の中には、

いつのまにか上下関係のような形にならないと、

うまく会話しづらい人がいるように見えることがあります。


こちらが頼んだわけでもないのに、

いつのまにか助言が始まる。


相談したつもりもないのに、

評価や分析が始まる。


ただ話していただけなのに、

相手が急にコンサルタントのような立場になる。


本人に悪意があるとは限りません。


むしろ本人としては、

その立ち位置に入ることで落ち着いているのかもしれません。


教える側。

導く側。

判断する側。

評価する側。

整理してあげる側。


その場所に立つと、話しやすい。


けれど受け取る側からすると、

いつのまにか下に置かれたように感じることがあります。


頼んでいないのに、指導されている。

普通に話していたはずなのに、査定されている。

ただ共有したかっただけなのに、改善対象にされている。


⭐️


これは、内容が正しいかどうか以前の問題になることがあります。


言っていることが正しくても、

その立ち位置で言われたくない、と感じることがある。


助言の質が高くても、

今それを求めていない、ということがある。


つまり、人間関係の詰まりは、

意見の違いだけで起きるのではなく、立ち位置の固定

によっても起きるのではないかと思います。


⭐️


Teaching が悪いわけではありません。


必要な場面では、Teaching は大切です。


仕事の指示。

新人教育。

再発防止。

情報の整理。

責任ある判断。

専門知識の共有。


こういう場面では、構造を渡すことが必要です。


曖昧に横並びでいるだけでは、

進まないこともあります。


一方で、Sharing も必要です。


雑談。

感覚の共有。

違和感の受け取り。

アイデア出し。

場の空気づくり。

相手がまだ言葉にしきれていないものを待つ時間。


こういう場面では、

上から整理するよりも、

横に並んで受け取ることが必要になります。


だから大事なのは、

Teaching か Sharing かを決めつけることではありません。


必要な場面では縦に立つ。

必要な場面では横に並ぶ。

そして、そこに固定されない。


ここが要点なのだと思います。


⭐️


職場であれば、役職や責任があります。


上司と部下。

発注者と受注者。

先輩と後輩。

責任者と担当者。


そうした構造はあります。


だから、職場においては、

すべてをフラットにすればいい、という話ではありません。


必要な縦はあります。


ただし、

会話のすべてが縦に固定される必要はありません。


業務指示では縦が必要でも、

現場の違和感を聞くときには横が必要になる。


改善点を伝えるときには縦が必要でも、

相手が何を感じていたのかを受け取るときには横が必要になる。


決める場面では縦が必要でも、

考える場面では横が必要になる。


この切り替えができる職場は、

情報が流れやすくなるように思います。


逆に、何でも縦で処理する職場では、

人は本音を出しにくくなることがあります。


正解を言わなければならない。

評価されている。

否定されるかもしれない。

余計なことは言わない方がいい。


そういう空気になりやすい。


一方で、全部が横のままでも、

責任の所在が曖昧になったり、

決めるべきことが決まらなかったりします。


だから職場では特に、

縦が必要な場面では縦に立ち、

横が必要な場面では横に戻れること

が大事になるのだと思います。


⭐️


これは、仕事以外のコミュニティでも同じです。


趣味の場。

学びの場。

表現の場。

実践の場。

友人関係。

緩やかな集まり。


そういう場では、Sharing が大切になることが多い。


自分はこう感じた。

こういう体験があった。

こういう方向を試してみたい。

まだうまく言えないけれど、こういう気がしている。


そんなやりとりの中に、場の豊かさがあります。


しかし、そこに頼まれていない Teaching が入りすぎると、

急に場が固くなることがあります。


それは違う。

本質はこう。

あなたはここが分かっていない。

こうした方がいい。

その考え方では浅い。


本人は貢献しているつもりでも、

場としては重くなることがある。


なぜなら、横の共有の場に、

上下の立ち位置が持ち込まれるからです。


もちろん、コミュニティにも Teaching が必要な場面はあります。


知識を教える場面。

安全のために止める場面。

誤解を整理する場面。

方向性を確認する場面。


だから、ここでも Teaching が悪いわけではありません。


問題は、固定です。


Teaching 固定は、マウントや支配に見えやすい。

Sharing 固定は、曖昧さや停滞につながりやすい。


⭐️


大事なのは、場面に応じて、縦にも横にもなれること。

そして、必要が終わったら戻れること。


この「戻れる」が、とても大事なのだと思います。


上に立てることより、

上に立ったあと、ちゃんと降りられること。


横にいられることより、

横にいながら、必要なときには責任ある言葉を出せること。


そこに、コミュニケーションの成熟があるのではないかと思います。


⭐️


もうひとつ、気になっていることがあります。


それは、

内容によって態度を変えることに、抵抗がないこと

です。


これは一見すると、少し誤解されやすい言い方かもしれません。


態度を変えるというと、

相手によって態度を変えるとか、

都合よく振る舞うとか、

そういう意味に聞こえるかもしれない。


けれど、ここで言いたいのはそういうことではありません。


同じ相手であっても、

やりとりの内容によって、

今この会話の本流がどこにあるのかは変わります。


仕事の確認をしているのか。

感想を共有しているのか。

相談を受けているのか。

一緒に考えているのか。


そこで変わるのは、

言葉遣いが丁寧か砕けているか、といった表面的な話ではありません。


むしろ、

今は縦で進める場面なのか、

横で受け取る場面なのか、

その見立ての方が大きい。


⭐️


ここで以前書いた「縦横」の話ともつながります。


縦とは、

頭で論理的・合理的に筋道を立てて扱う領域です。


横とは、

ただありのまま感じていることを受け取る領域です。


言い換えるなら、


縦=構造

横=感覚


です。


そして実際の会話では、

今扱っている内容が構造なのか、

感覚なのかを見分ける感度がとても重要になります。


相手が整理を求めているのか。

ただ感じていることを共有しているのか。


問題解決をしたいのか。

まず体験を受け取ってほしいのか。


この違いに敏感になることが、

縦と横を使い分けるうえでのカナメなのだと思います。


そして実際の会話では、

縦のやりとりの最中に、

場を円滑にするための横が少し入ることもあります。


たとえば真面目な確認作業の途中で、

沈黙を埋めるような軽いひとことを挟む。


けれど、それは本流が横に変わったという意味ではありません。


縦の流れを維持したまま、

潤滑油として横を一瞬入れただけです。


ところが、

その横だけを拾ってしまう人がいる。


「あ、今は横なんだ」

「じゃあこちらも思いきり横で返していいんだ」


そう解釈してしまう。


でも実際には、

会話全体として何をしているのかが重要です。


また、


相手が縦だから縦。

相手が横だから横。


そういう単純な話でもない。


やりとりしている内容そのものが、

今は構造の話なのか、

感覚の話なのか。


そして本流とは別に、

円滑さのためのスポット的な縦や横が入ることもある。


だから結局のところ、

機械的なルールで判断するというより、

会話全体の流れを感じながら調整していくしかないのだと思います。


それができると、会話は安定しやすい。


⭐️


逆に、これが分からない人は、

距離を詰めようとして、いきなりぞんざいな言い回しになることがあります。


丁寧に話すことは距離があること。

雑に話すことは親しくなること。


そんなふうに捉えてしまう。


けれど、それは間違いだと思います。


尊重することと、距離が遠いことは同じではありません。


親しくなることと、雑に扱うことも同じではありません。


近さとは、

相手をぞんざいに扱うことではない。


近さとは、

相手が安心して、こちらとの横のつながりを許せる状態のことではないでしょうか。


だから、自然に距離を詰めるには、

まず尊重が必要です。


尊重があるから、近づける。

雑に扱うから、近づけるわけではない。


ここを取り違えると、

本人は親しみを出しているつもりでも、

相手からすると、ただ急に扱いが雑になっただけに感じられます。


⭐️


この

会話における姿勢と距離感について、

勘違いをしている人は意外に多いと感じます。


そして、この部分は、

もしかすると訓練できる領域かもしれないとも思っています。


ここで少し補足しておくと、

私は実際に、SST、つまり社会生活スキルトレーニングのような場を、複数回体験したことがあります。


SSTでは、対人場面を想定し、

ロールプレイをしたり、

相手の反応を見たり、

フィードバックを受けたりしながら、

社会的なやりとりのスキルを練習していきます。


その体験があるからこそ、

今回考えていることも、まったく別の話ではないように感じています。


ただし、ここで私が言っているのは、

SSTそのものを説明したいということではありません。


むしろ、SST的な訓練の考え方を踏まえたうえで、

さらに少し別の角度から、

「立ち位置の可変性」や

「縦と横の切り替え」や

「尊重を保った距離感」というテーマを見ている、という感じです。


単に、

こう言えばいい。

こう返せばいい。

こう振る舞えばいい。


という話ではなく、

今この会話では、どの立ち位置が自然なのか。


構造を渡す場面なのか。

感覚を共有する場面なのか。

縦に立つ場面なのか。

横に並ぶ場面なのか。

あるいは、縦の本流の中に、少しだけ横を差し込む場面なのか。


そうしたことを感じ取る力も、

もしかすると訓練の対象になり得るのではないか、

と思っているのです。


こういう発想は、

私が実際に体験してきたSST的な場とも重なりますし、

以前書いた「構造と感覚のNatural 

Communication」の話とも重なっています。


もし訓練として考えるなら、

単に話し方を学ぶというより、


「今扱っているのは構造なのか、感覚なのか」


を見分ける感度を育てる方向になるのかもしれません。


ただし、ここはまだ私の中でも、

可能性としての段階です。


こういうトレーニングを実際に設計するなら、心理学やカウンセリング、組織心理、発達特性、トラウマ反応などに詳しい専門家のバックアップがあった方がいいと思います。


なぜなら、立ち位置を固定してしまう理由や、距離感の調整が苦手な理由は、人によって違うからです。


経験不足の場合もある。

上下関係でしか安心できない場合もある。

距離感の学習がうまくいっていない場合もある。

文脈を読むことが苦手な場合もある。

過去の環境の影響で、防衛的に上に立ってしまう場合もある。


だから、単純に

「こうすればコミュニケーションがうまくなる」という話にはできません。


けれど、方向性としては、

たとえばこういう訓練は考えられるかもしれません。


軽い雑談。

真剣な相談。

弱音。

報告。

依頼。

指摘。

反論。

沈黙。

喜びの共有。

傷ついた話。


それぞれの場面で、

どのくらいの距離感が自然なのか。

Teaching が必要なのか。

Sharing が必要なのか。

どこで縦に立ち、どこで横に戻るのか。


そうしたことを、ロールプレイで体感していく。


大事なのは、

「丁寧に話せるようになること」だけではありません。


むしろ、

同じ相手との会話の中でも、

内容によって縦と横のスタンスが変動することを認識し、

それを身体感覚として掴んでいくことです。


今は助言を求められているのか。

今はただ受け取る場面なのか。

今は決める場面なのか。

今は一緒に考える場面なのか。


その変化を頭で理解するだけでなく、

実際のやりとりの中で感じ取れるようになる。


そして、

縦から横へ。

横から縦へ。


必要に応じて自然に移動し、

終わったらまた戻る。


そうした切り替えを体感的に学ぶ訓練の方が、

単に話し方を整えることよりも、

ずっと重要なのかもしれません。


もちろん、その過程で、

親しみと無礼を分ける。

尊重と距離の遠さを分ける。

丁寧さと緊張を分ける。

横並びと馴れ馴れしさを分ける。


といった認識も役に立つでしょう。


けれど、それらはあくまで一部です。


本当にカナメになるのは、

会話の内容に応じて、

今どの立ち位置が求められているのかを感じ取り、

縦と横を行き来できる感覚を育てることなのだと思います。


⭐️


ただ、これは今のところ、

私が「こういう方向はあり得るのではないか」と感じている段階です。


具体的なメニューとして責任を持って提示するのは力不足です。


もし、この領域に詳しい人や、

実際にトレーニングを組める人がいるなら、

この発想を自由に拾ってもらってもいいと思っています。


⭐️


大事なのは、

人間関係の問題を、

単に性格の問題やマナーの問題だけにしないことだと思います。


そこには、

立ち位置を固定してしまう癖があるかもしれない。

内容に応じて態度を変える感覚が育っていないのかもしれない。

近さとぞんざいさを混同しているのかもしれない。

縦と横を自然に行き来する経験が少ないのかもしれない。


そう見ていくと、

改善の余地も見えてくる。


Teaching と Sharing は、

単なる会話術ではありません。


それは、

人と人が関わるときの立ち位置の感覚です。


縦に立つ。

横に並ぶ。

構造を渡す。

感覚を共有する。

必要なときに前に出る。

必要なときに引く。

相手を尊重したまま近づく。

近づいたあとも、相手の領域を侵さない。


そういう細かな切り替えが、

職場でも、コミュニティでも、

人間関係をかなり円滑にするのだと思います。


円滑な関係性とは、

上下をなくすことではない。


上下に固定されないこと。


親しい関係とは、

雑に扱える関係ではない。


尊重を保ったまま、安心して近づける関係。


そして成熟したコミュニケーションとは、

正しいことを言えることだけではない。


今どの立ち位置で関わるべきかを感じ取り、

必要に応じて切り替え、

終わったらまた戻れること。


そこに、Natural Communication の大事な要点があるのではと思っています。







AIやロボットなどのテクノロジーの実用がさらに進み、 

生活に必要なものの多くが、ほとんど人の労力を必要とせずに生産され、届けられ、維持されるようになったとする。 


食べ物、日用品、移動、物流、修理、情報処理、各種システム。 


そうしたものが、ほとんど自動的に供給されるようになったとき、 

人は、お金を稼がなくても生活できるようになるかもしれない。 


では、そのとき人は何で生きるのか。 


余暇だろうか。 


もちろん、余暇のようなものは増えるのかもしれない。 

けれど、単に「暇になる」という話ではないと思う。 


むしろ、そこで浮かび上がってくるのは、 

人が、人として何を提供するのか 

ということだと思う。 


物やシステムを得るために、金銭を支払う必要は薄れていく。 


なぜなら、そこに人の労力がほとんどかからなくなるからだ。 


自動で生産され、 

自動で運ばれ、 

自動で整備され、 

自動で修理される。 


たとえば、何か食べ物が欲しいと思ったら、機械が数秒で用意してくれる。 


システムが故障したら、 

スマホで操作するだけで、ドローンのようなものが飛んできて、 

光を当てるようにして、すぐに修復してくれる。 


そういう世界では、 

物資やシステムの流通に、金銭はほとんど関与しなくなるかもしれない。 


必要なものは、ただ流れる。 


水道の水のように。 

空気のように。 

あるいは、社会の基礎インフラのように。 


では、そのとき金銭は完全になくなるのか。 


私は、そう単純ではないと思う。 


金銭は消えるというより、 

意味が変わるのだと思う。 


これまでの金銭は、 

生活するために必要なものを得る手段だった。 


労働の対価であり、 

生活の維持であり、 

企業の存続であり、 

所有や蓄積や競争のための道具でもあった。 


けれど、生活に必要なものがほとんど自動的に供給されるようになったとき、 

金銭の中心的な役割は変わる。 


生きるために稼ぐものではなく、 

人の固有性に流れるものになる。 


その人がやるから意味がある。 

その人から受け取りたい。 

その人の活動を続けてほしい。 

その人の場に行きたい。 

その人の手を通したものに触れたい。 


そういうところに、金銭、あるいは金銭に似た電子ポイントのようなものが流れていく。 


たとえば、未来のある街で、 

機械が完全なラーメンを数秒で作ってくれるとする。 


栄養も完璧。 

味も安定している。 

価格も、もはやほとんど意味を持たない。 

生活インフラの一部として、誰でも得られる。 


けれどその街の片隅に、 

あえてロボットを使わず、 

人が汗をかきながらラーメンを作っている店があるとする。 


そのラーメンは、効率では機械に勝てない。 


けれど、そこには別の価値がある。 


あの人が作っている。 

あの手つきがある。 

あの空気がある。 

あの店に行く時間がある。 

今日のあの人の一杯を食べたい、という感覚がある。 


そのとき人は、 

「あそこの、あの人が作るラーメンを食べに行こう」 

と思うかもしれない。 


そして、食べたあとに、 

スマホの電子ポイントのようなものを送る。 


それは今のお金の支払いというより、 

どこか、推しに投票する感覚に近いかもしれない。


もちろん、単なる応援だけではない。 


そこには、 

受け取った価値への反応がある。 

その活動が続いてほしいという意思がある。 

その人とのやりとりを大切にしたいという感覚がある。 


つまり、未来の金銭は、 

生活必需品を得るためのものではなく、 

人とのやりとりに価値を流すためのものになる可能性がある。 


このとき価値が生じるのは、 

きらびやかで洗練されたサービスだけではないと思う。 


むしろ、 

「え、まだ人がやっているの?」 

「汗をかきながら?」 

「そんなに手間をかけて?」 

というような、泥くさい提供にも、

大きな価値が生じるかもしれない。 


なぜなら、人が関与すること自体が、

だんだん希少になるからだ。 


効率化された世界では、 

非効率に見える人間の手間が、かえって価値になる。 


便利さではなく、 

存在感。 


速さではなく、 

関与。 


正確さではなく、 

その人の気配。 


そういうものが価値として残る。 


だから未来では、 

人が提供する独自サービスは、むしろ今よりも明確に価値を持つ可能性がある。 


個人事業主が提供するサービスはもちろんそうだ。 

美容院を経営している人。 

飲食店を営んでいる人。 

小さな工房を持っている人。 

地域で修理や整備をしている人。 

農業、建築、施工、運送、販売、教育、介護、医療周辺、デザイン、企画、制作、接客、施術、相談、案内、場づくりなど、 

自分の責任と判断でサービスを提供している人。 


あるいは、複数店舗を展開していたとしても、 

そこにその人自身の方針、感性、品質管理、関係性のつくり方が強く反映されているなら、 

そこにも固有の価値がある。 


その人がやるから意味があるもの。 

その人の視点、手触り、空気、経験、感性、判断が含まれているもの。 


そういうものには価値が残る。 


そしてこれは、個人事業主だけの話ではない。 


会社に勤めている人であっても、 

AIやロボットで代替できないもの、 

あるいは、代替はできるけれど、その人がやるから意味があるものには、価値が残る。 


人が関わることがレアになる世界では、 

人の関与そのものが価値になる。 


では、その価値はすべて無償で提供されるのか。


それも、社会の文化によって変わると思う。 


もし、個人が提供するものもすべて無償で受け取り合う、 

という感覚が社会全体に行き届けば、また違う形になるだろう。 


けれど現実的には、 

人の固有性に対して何かを渡す仕組みは残ると思う。 


それは、今の意味での貨幣かもしれないし、 

電子ポイントのようなものかもしれない。 


誰もが潤沢に持っている、 

社会から定期的に配られる、 

推し投票のためのポイントのようなものかもしれない。 


ポーカーゲームを始めるとき、 

全員にチップが配られるように。 


そのポイントを、人は自分が価値を感じた相手に送る。 


あの人のラーメンがよかった。 

あの人の店がよかった。 

あの人の美容院がよかった。 

あの人の施工がよかった。 

あの人の接客がよかった。 

あの人の判断が助けになった。 

あの人の活動を続けてほしい。 


そうして、ポイントが流れる。 


このような経済を、仮に 

推しポイント経済 

あるいは 

チップメイン経済 

と呼んでもいいかもしれない。 


ただし、ここで大事なのは、 

この世界に一気に移行するわけではない、ということだ。 


完全に生活必需品が無償化され、 

誰もが生活に困らず、 

金銭がほとんど推しや応援のためだけに使われる。 


そうなるまでには、かなりの移行期間がある。 


その移行期間では、 

まだ生活するためにお金が必要になる。 


食べるため。 

住むため。 

移動するため。 

医療やサービスを受けるため。 

現実の生活を維持するため。 


つまり、生活必需の領域にも、まだ人が多く関与している。 


その段階では、 

「好きだから送る」だけでは不十分になる。 


推し度だけではなく、 

貢献度に応じて渡す 

という感覚も、まだ必要になる。 


なぜなら、誰かが具体的に働き、支え、時間を使い、責任を負っているからだ。 


だから、未来の経済は、いきなりすべてが推しやチップになるのではなく、 

しばらくは混在すると思う。 


生活のための対価。 

貢献に応じた分配。

固有価値への投票。 

応援としてのポイント。 

関係性の中での循環。 


これらが重なりながら、少しずつ意味が変わっていく。 


そしてもうひとつ、重要な点がある。 


それは、個人ではなく、 

人と人がタッグを組んだり、チームを組んだり、法人として活動したりする場合だ。 


完全に推しポイント経済のようなものになったとしても、 

法人やチームの内部では、単純な推しだけでは回らない。 


たとえば、ある法人が多くのポイントを受け取ったとする。 


そのポイントは、 

代表者だけのものではない。 


企画した人。 

制作した人。 

現場を支えた人。 

裏方として整えた人。  

協力した個人。 

連携した別法人。 


そうした人たちへ、どう回すのか。 


ここでは、やはり 

貢献度 

が残る。 


外から法人へ流れるものは、推しや支持に近いかもしれない。 

けれど法人の内側や協力関係では、 

誰が何を担い、どれだけ価値を生み、どのように支えたのかを見ていく必要がある。 


つまり、協力体の中では、貢献の分析が残る。 


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なお、ここでいう推しポイントのようなものは、

SNSの「いいね」と似ている部分もあります。


ただし、大きく違うのは、

すべての流れを公開ランキングのように見せるものではない、

という点です。


もし誰が誰にどれだけ送ったのか、

どの人がどれだけ集めているのかが常に丸見えになれば、

それは価値循環というより、

SNSのいいね競争に近づいてしまう。


人気、承認、比較、見栄、アルゴリズム攻略。


そうした方向へ流れやすくなる。


だから本来は、

価値の流れは記録されるとしても、

公開範囲は目的に応じて設計される必要があるのだと思います。


個人同士の流れは、基本的には静かに扱われる。


一方で、法人やチームやプロジェクトについては、

従来の決算書のように、

外部に示すべき範囲を整理して公開する。


ただしそこで示されるのは、

単なる利益ではなく、

どんな価値が流入し、

どのように協力者へ循環し、

どんな活動が継続的に支持されているのか、

という見取り図になる。


つまり、推しポイント金融経済は、

SNSのいいねシステムと似ているようで、

そのまま同じではありません。


重要なのは、

数を見せびらかすことではなく、

価値の流れを適切に記録し、

必要な範囲で信頼に変えていくことなのだと思います。


----


そう考えると、 

財務や会計の役割も、完全になくなるわけではない。 


ただし、その意味は大きく変わる。 


今の財務会計は、多くの場合、 

利益が出ているか。 

資金繰りは大丈夫か。 

倒産しないか。 

投資対象として優れているか。 

税務上どう処理するか。 

どれだけ儲かっているか。 


そういう視点が中心になっている。 


もちろん、今の段階ではそれは重要だ。 


しかし、推しポイント経済や価値循環の経済に近づいていくと、 

財務会計が見るべきものは変わっていく。 


どれだけ推されているのか。 

誰から支持されているのか。 

どの活動に価値が流れているのか。 

一時的な人気なのか、継続的な支持なのか。 

チーム内で適切に分配されているのか。 

協力者にちゃんと回っているのか。 

次の活動を広げるだけの循環があるのか。 

その法人は、どんな価値を生み、どんな関係性の中で支えられているのか。 


こうしたものを可視化する必要が出てくる。 


その意味で、未来の決算書は、

単なる損益計算書や貸借対照表ではなく、 

価値循環の見取り図 

のようなものになるかもしれない。 


もちろん、ブロックチェーンのような改ざんしにくい仕組みや、 

自動集計アプリによって、 

多くの数字は一瞬で見られるようになるだろう。


月次推移も、 

ポイントの流れも、 

誰からどこへ価値が流れたかも、 

スマホで簡単に確認できるようになるかもしれない。 


けれど、それで分析が不要になるわけではない。


むしろ、数字が自動で見えるようになるほど、その意味を読む力が重要になる。 


なぜこの活動には支持が集まっているのか。 

なぜこの協力関係では流れが滞っているのか。 

このポイントの増加は一時的なものなのか、深い支持なのか。

 次に誰と組むべきなのか。 

どの活動を広げるべきなのか。 

どこに過剰な負担がかかっているのか。 

どこにまだ見えていない価値があるのか。 


こうしたことは、 

単純な自動分析だけでは捉えきれない場合がある。 


業種ごとの違いというより、 

もっと細かな経験則や、 

現場感覚や、 

人と人の関係性を読む力が必要になる。 


つまり、財務会計分析も、 

生き残りのための管理から、 

活動価値と協力関係を読むための仕事 

へ変わっていく。 


これは、先ほどのラーメン屋の話と同じだ。 


AIが数字を出せる。 

アプリが集計できる。 

ブロックチェーンが改ざんを防ぐ。 

グラフも自動で表示される。 


それでも、 

「この法人は、どう推されているのか」 

「この活動は、どんな価値を生んでいるのか」 

「この協力体制は、次にどう組み替えるべきなのか」 

を、人が読んでくれる。


そこには、価値がある。 


特に、法人やチームが新しい事業展開をするとき、


協力体制を変えるとき、 

関係先を増やすとき、 

活動の流れを立て直すとき。 


そのときに、数字だけではなく、 

数字の奥にある価値の流れを読める人がいることには、 

大きな意味がある。 


だから、財務や会計は消えるのではない。 


変わる。 


お金そのものが変わるように、 

財務や会計の意味も変わる。


儲けを測るものから、 

価値の流れを読むものへ。 


生存のための管理から、 

協力と循環のための羅針盤へ。 


そう考えると、AI時代の先にある世界は、 

人間の仕事がなくなる世界ではない。 


むしろ、 

人間がやるから意味があるものが、 

よりはっきりと浮かび上がる世界なのだと思う。


物やシステムは、自動で流れる。 

生活に必要なものは、無償に近づく。 

便利さは、社会の基礎になる。 


そのうえで、 

人は人に会いに行く。 

人の手を通したものを受け取る。 

人の判断を求める。 

人の表現に触れる。 

人の店に通う。 

人の場に参加する。 

人の活動を支える。 


 そして、そこに価値が流れる。 


 金銭は、消えるのではない。 


 その意味が変わる。 


労働の対価としてのお金から、 

人の固有性に流れるお金へ。 


所有や競争のためのお金から、 

応援と貢献と循環のためのお金へ。 


生活を守るためのお金から、 

人と人の価値を通わせるためのお金へ。 


そういう変化が起きていくのだと思う。 


そしてそのとき、 

問われるのは、

単に「何で稼ぐか」 

ではなくなる。 


むしろ、 


自分は何を提供するのか。 

自分がやるから意味があるものは何か。 

誰と組み、どんな価値を生み、どんな循環をつくるのか。 

そして、自分は誰に、何を流したいのか。 


そこが、これからの時代の大きな問いになるのだと思う。



追記

単純な整理として、追記しておきます。

もし本記事に書いたような方向へ社会が推移していくなら、
お金の存在意義、つまり意味そのものが変わっていくのだと思います。

まず、
生存のためにお金を使う、という比重はかなり薄れていく。

生活に必要な物資や基礎的なサービスが、
AIやロボット、各種システムによってほとんど自動的に供給されるようになれば、
お金は「生きるために必要なものを得る手段」ではなくなっていくからです。

その代わりに、
お金、あるいは電子ポイントのようなものは、
人や活動の固有の価値に流れるものになっていくのかもしれません。

それは、単に高いか安いかを示すものではない。

どれだけ独自な価値があるのか。
どれだけ人が受け取りたいと感じているのか。
どれだけその活動を続けてほしいと思われているのか。
どれだけ協力関係の中で、価値が循環しているのか。

そうしたものを示す、
ひとつの流れの痕跡になるのだと思います。

つまり、お金は、
生存のための交換手段から、
価値の流れを可視化するものへ変わっていく。

どれだけ筋が通っているか。
どれだけ実際に流れが生まれているか。
どれだけ人や場や活動の間で、価値が循環しているか。

そうしたものを測る、
あるいは映し出すものとして、
お金の意味が変わっていくのではないかと思います。


そして、そうなっていくなら、
お金を溜め込む意味も薄れていくはずです。


なぜなら、それは生存を守るために抱え込むものではなく、
価値を感じたところへ流すものになっていくからです。


支払う、というより、
送る。
渡す。
流す。
贈る。


そんな感覚に近づいていく。


そうなると、
お金は奪い合う対象ではなくなっていくのかもしれません。


もちろん、現実の社会が完全にそこまで移行するには、
かなり大きな変化が必要です。


けれど、お金が
「生きるために必要なもの」
ではなく、
「価値を感じたところへ流すもの」
になっていくなら、
盗む、不当に得る、ただ抱え込んで満足する、
といった感覚そのものも、今とはかなり違うものになるはずです。


少なくとも、
お金を抱え込むことよりも、
どこへ流すかの方が重要になる。


そこに、お金のない社会、
あるいはお金の意味が変わった社会の、
ひとつの手触りがあるのだと思います。



※書き下ろした時の流れに近い文章は、コメント欄に置いておきます。



やりたいことのほうへ進む

— 構造と感覚、センスのその先へ —




センスのあるテーマというものがある。


あるテーマに触れたとき、

まだ構造をきちんと理解していなくても、

なぜか勘所がわかる。


言葉にする前に、

なんとなく通り道が見える。


細かい理屈を学ぶ前から、

「たぶん、こういうことだろうな」

という感覚が働く。


そういうテーマは、

やはりスムーズに進みやすい。


感覚が先に触れているから、

あとから構造を学んでも入りやすい。


違和感にも気づきやすい。

修正も早い。

伸び方も、どこか自然になる。


だから、

センスのあるテーマに注力したほうが、

スムーズかつ伸びやすい。


それは、たぶん本当だと思う。


⭐️


ただ、だからといって、


「では、センスのあるテーマを選ぶべきだ」


と一概に言えるかというと、

そこは少し違う気がしている。


センスがあるかどうか。

スムーズに伸びるかどうか。


もちろん、それは大事な判断材料にはなる。


でも、それだけで、

自分が向かうテーマを決めてしまっていいのか。


そこには、少し違和感がある。


うさぎとカメの話もある。


最初から速く進めることと、

最後まで歩き続けられることは違う。


感覚の入口が開いていることと、

本当にその道を生きたいかどうかも違う。


センスがあるから進む。

センスがないからやめる。


それだけで決めるには、

人の歩みは、もう少し複雑な気がする。


⭐️


結局、いちばん大事なのは、


やりたいことを、ちゃんとやれているか。


なのだと思う。


センスがあるかよりも。

スムーズかどうかよりも。


本当にやりたいことに向かっているか。


そこが、かなり大事だと痛感する。


もちろん、人は皆、

基本的にはやりたいことをやっているのかもしれない。


たとえ本人がそう思っていなくても、

深いところでは、

何かしら自分が選んでいる方向に進んでいるのかもしれない。


それでも、やはり、

表層の都合や、効率や、損得や、

「こっちのほうが向いているはず」

という判断だけで進むと、

どこかで、自分の中心から少しズレることがある。


センスがあるかどうかは、

進み方を知るための手がかりにはなる。


でも、人生のテーマを選ぶ絶対基準ではない。


やりたいことをやる。


その途中で、

構造理解が起きる。


その途中で、

感覚もアップデートされる。


最初からうまくできるから進むのではなく、

進みたいから、構造を学ぶ。


進みたいから、感覚が磨かれる。


そういうこともあるのだと思う。


⭐️


構造アプローチと、感覚アプローチ。


構造から入る人がいる。


原理を理解し、

全体像を掴み、

手順を確認し、

ひとつずつ積み上げていく。


感覚から入る人もいる。


なんとなく触れてしまう。

理由は説明できないけれど、

先に空気や流れを掴んでしまう。


どちらが上という話ではない。


構造があるから、

感覚が迷子にならないこともある。


感覚があるから、

構造がただの枠組みで終わらないこともある。


構造と感覚は、

本来、対立するものではない。


二本の柱のようなものかもしれない。


そのあいだを、

人は進んでいく。


ただ、その柱のあいだを、

向こう側に抜けて進むには、

やはり、やりたいことが必要なのだと思う。


構造があるから進める。

感覚があるから進める。


それもある。


でも、もっと奥には、


「そっちへ行きたい」


というものがある。


それがあるから、

構造も必要になる。

感覚も更新される。


⭐️


そして、その

「やりたいこと」について、

最近少し考えている。


やりたいことには、

いくつかの立ち上がり方があるのかもしれない。


ひとつは、

何もないところから、

ふっと立ち上がってくるもの。


あえて言えば、

自己ベースで立ち上がるもの。


もうひとつは、

誰かの存在に触れることで、

ある方向へ動き出すもの。


あえて言えば、

他者ベースで立ち上がるもの。


ただし、これはよく言われるような、


自分軸か、他人軸か。

自分のためか、人のためか。

自己満足か、他者貢献か。


そういう話とは少し違う。


もっと奥の話。


自己ベースといっても、

小さな自我が、

自分だけのために何かをしたい、

という感じではない。


他者ベースといっても、

誰かに認められたいとか、

誰かの期待に応えたいとか、

そういうことだけではない。


どちらも、

もっと深い場所から立ち上がる。


自分と他者の境目が、

少しほどけているような場所。


そこから、

何かが生まれてくる。


⭐️


たとえば、私にとっての自然体動は、

誰かの存在があるから生まれる、

という感じではない。


音楽も、そうかもしれない。


何もないところから生まれる。


どこからかと言えば、

自分から生まれる。


ただ、そのときの「自分」は、

普段考えているような、

他人と切り離された個人としての自分とは少し違う。


自他の区別が、

あまりはっきりしていない場所。


誰かのためでもなく、

誰かに向けてでもなく、


かといって、

自分だけで閉じているわけでもない。


何かが、ただ立ち上がってくる。


身体が動き出す。

音が出てくる。

空間に、流れが生まれる。


そこに、特定の誰かはいない。


でも、完全に孤立した自分だけがいるわけでもない。


自分という場所から立ち上がっているのに、

その自分は、自他の境目がかなり薄い。


そういう自己ベースがある。


⭐️


一方で、

誰かの存在に触れることで、

立ち上がるやりたいこともある。


過去の誰かかもしれない。

今、身近にいる誰かかもしれない。


まだ知らない、

ぼんやりした未来の誰かかもしれない。


会える人かもしれない。

もう会えない人かもしれない。


手の届く人かもしれない。

手の届かない人かもしれない。


仲間かもしれない。

好きな人かもしれない。


同性かもしれない。

異性かもしれない。


世代も関係ない。


特定の人であることもあれば、

そうでないこともある。


ただ、どこかに、

誰かの存在の気配がある。


⭐️


誰かに会いたい。

誰かに届きたい。

誰かと分かち合いたい。

誰かに見てほしい。

誰かの前で、自分がちゃんと立ち上がりたい。


そういうものも、

もちろんあるのかもしれない。


でも、それよりも、

もっと素朴なところで、


誰かを元気にしたい。

誰かの笑顔を見たい。

誰かを緩ませたい。


そうやって、

誰かと同じ空気を吸いたい。

誰かと、どこかで分かり合いたい。


言葉にすると、

少し限定されてしまうけれど、


たぶん、

やりたいことの奥には、

そういう誰かの存在との関係があることもある。


これは、

自分を捨てて他人に尽くす、

ということではない。


誰かのために、

自分を消すということでもない。


むしろ、

誰かが緩むとき、

誰かが少し元気になるとき、

誰かの笑顔がふっと見えたとき、


こちらの中にも、

何かが通る。


同じ空気を吸っている感じがする。


自分と他者が、

はっきり分かれたままではなく、

どこかで同じ場にいる。


そういう他者ベースがある。


⭐️


その誰かは、

今、目の前にいる人とは限らない。


過去の偉人かもしれない。

すでにこの世にいない人かもしれない。

まだ出会っていない未来の誰かかもしれない。


直接会える人ではなくても、

その人の残したもの、

その人の姿勢、

その人がまとっていた空気に触れて、


自分も、その空気をまといたい。

その人が見ていた世界の手触りに、

少し近づきたい。


そういう憧れや共鳴が、

やりたいことの原動力になることもある。


誰かを目指すというより、

その人がまとっていた空気を、

こちらの身体で少し通してみる。


過去の誰かがまとっていた空気を、

今の自分の身体を通して、

少しだけこの世界に通してみる。


そういうことも、

あるのかもしれない。


⭐️


自己ベース。

他者ベース。


こう書くと、

少しきれいに分かれたもののように見えるけれど、

実際には、たぶんそんなに単純ではない。


何もないところから立ち上がった自然体動が、結果的に誰かを緩ませることもある。


自分から生まれた音楽が、

誰かの身体や心に届くこともある。


逆に、

誰かを元気にしたいという思いから始まったことが、

気づけば自分自身の深いところを通していることもある。


だから、

自己ベースと他者ベースは、

完全に別物ではない。


入口が違うだけなのかもしれない。


どちらも、深く入っていくと、

自分と他者の境目が少し薄くなる。


ただ、最初の立ち上がり方として、


何もないところから、

自分という場から生まれるものがある。


誰かの存在に触れて、

関係の中から生まれるものがある。


その両方がある。


そう感じている。


⭐️


だから、

センスがあるテーマを選べばいい、

という話ではない。


センスがないから諦めればいい、

という話でもない。


スムーズに伸びることは、たしかにある。

向いているテーマも、たしかにある。


でも、

それ以上に大事なのは、


本当にやりたいことをやれているか。


そして、そのやりたいことが、

どこから立ち上がっているのか。


何もないところから、

自他の区別が薄い場所から、

ふっと立ち上がってくるのか。


あるいは、

誰かの存在の気配に触れて、

ある方向へ動き出しているのか。


そのどちらも、

たぶん大事なのだと思う。


構造アプローチ。

感覚アプローチ。

センスのあるなし。


それらは全部、

進むための手がかりではある。


でも、

進む理由そのものではない。


進む理由は、

もっと深いところにある。


自分だけで閉じてもいないし、

誰かのためだけでもない。


その境目がほどけるような場所から、

人は何かをやりたくなるのかもしれない。


だからこそ人は、

構造と感覚の柱のあいだを抜けて、

向こう側へ進んでいくのだと思う。


⭐️


追記:存在のアロマ


同じ香りを味わおうとして、

その人がまとっていた空気に、

少し近づこうとして、


それで結局、

その人にしかないアロマがあることを、

残り香のような、微妙なものとして感じ入る。


そういうのは、

なんだか、幸せなことだと思う。


分かりきらなくていい。


どうしても理解できないと、

憤慨したことさえあるかもしれない。


それでも、

そういうものも含めて、


その残り香の中には、

言葉では説明しきれないものが、

いろいろと含まれている。


それは、存在の微妙な味わい。


苦いとも言い切れない。

ほのかに甘いようにも感じられる。


存在のアロマ。

存在の味わい。


目には見えないけれど、

たぶんそれは、

プラチナ色の光のようなもので、


心のどこにでも到達する。

防ぎようのない、存在の輝き。


それは、

意識を向けさえすれば、

きっと認識できる。


はず。w


そして、

その光を見ているとき、


自分とか、他者とか、

そういう境目を少し超えて、


宇宙全体に通っている光が、

ほんの少しだけ、

輝きを増しているように見えることがある。


……かもしれない。w