AIやロボットなどのテクノロジーの実用がさらに進み、
生活に必要なものの多くが、ほとんど人の労力を必要とせずに生産され、届けられ、維持されるようになったとする。
食べ物、日用品、移動、物流、修理、情報処理、各種システム。
そうしたものが、ほとんど自動的に供給されるようになったとき、
人は、お金を稼がなくても生活できるようになるかもしれない。
では、そのとき人は何で生きるのか。
余暇だろうか。
もちろん、余暇のようなものは増えるのかもしれない。
けれど、単に「暇になる」という話ではないと思う。
むしろ、そこで浮かび上がってくるのは、
人が、人として何を提供するのか
ということだと思う。
物やシステムを得るために、金銭を支払う必要は薄れていく。
なぜなら、そこに人の労力がほとんどかからなくなるからだ。
自動で生産され、
自動で運ばれ、
自動で整備され、
自動で修理される。
たとえば、何か食べ物が欲しいと思ったら、機械が数秒で用意してくれる。
システムが故障したら、
スマホで操作するだけで、ドローンのようなものが飛んできて、
光を当てるようにして、すぐに修復してくれる。
そういう世界では、
物資やシステムの流通に、金銭はほとんど関与しなくなるかもしれない。
必要なものは、ただ流れる。
水道の水のように。
空気のように。
あるいは、社会の基礎インフラのように。
では、そのとき金銭は完全になくなるのか。
私は、そう単純ではないと思う。
金銭は消えるというより、
意味が変わるのだと思う。
これまでの金銭は、
生活するために必要なものを得る手段だった。
労働の対価であり、
生活の維持であり、
企業の存続であり、
所有や蓄積や競争のための道具でもあった。
けれど、生活に必要なものがほとんど自動的に供給されるようになったとき、
金銭の中心的な役割は変わる。
生きるために稼ぐものではなく、
人の固有性に流れるものになる。
その人がやるから意味がある。
その人から受け取りたい。
その人の活動を続けてほしい。
その人の場に行きたい。
その人の手を通したものに触れたい。
そういうところに、金銭、あるいは金銭に似た電子ポイントのようなものが流れていく。
たとえば、未来のある街で、
機械が完全なラーメンを数秒で作ってくれるとする。
栄養も完璧。
味も安定している。
価格も、もはやほとんど意味を持たない。
生活インフラの一部として、誰でも得られる。
けれどその街の片隅に、
あえてロボットを使わず、
人が汗をかきながらラーメンを作っている店があるとする。
そのラーメンは、効率では機械に勝てない。
けれど、そこには別の価値がある。
あの人が作っている。
あの手つきがある。
あの空気がある。
あの店に行く時間がある。
今日のあの人の一杯を食べたい、という感覚がある。
そのとき人は、
「あそこの、あの人が作るラーメンを食べに行こう」
と思うかもしれない。
そして、食べたあとに、
スマホの電子ポイントのようなものを送る。
それは今のお金の支払いというより、
どこか、推しに投票する感覚に近いかもしれない。
もちろん、単なる応援だけではない。
そこには、
受け取った価値への反応がある。
その活動が続いてほしいという意思がある。
その人とのやりとりを大切にしたいという感覚がある。
つまり、未来の金銭は、
生活必需品を得るためのものではなく、
人とのやりとりに価値を流すためのものになる可能性がある。
このとき価値が生じるのは、
きらびやかで洗練されたサービスだけではないと思う。
むしろ、
「え、まだ人がやっているの?」
「汗をかきながら?」
「そんなに手間をかけて?」
というような、泥くさい提供にも、
大きな価値が生じるかもしれない。
なぜなら、人が関与すること自体が、
だんだん希少になるからだ。
効率化された世界では、
非効率に見える人間の手間が、かえって価値になる。
便利さではなく、
存在感。
速さではなく、
関与。
正確さではなく、
その人の気配。
そういうものが価値として残る。
だから未来では、
人が提供する独自サービスは、むしろ今よりも明確に価値を持つ可能性がある。
個人事業主が提供するサービスはもちろんそうだ。
美容院を経営している人。
飲食店を営んでいる人。
小さな工房を持っている人。
地域で修理や整備をしている人。
農業、建築、施工、運送、販売、教育、介護、医療周辺、デザイン、企画、制作、接客、施術、相談、案内、場づくりなど、
自分の責任と判断でサービスを提供している人。
あるいは、複数店舗を展開していたとしても、
そこにその人自身の方針、感性、品質管理、関係性のつくり方が強く反映されているなら、
そこにも固有の価値がある。
その人がやるから意味があるもの。
その人の視点、手触り、空気、経験、感性、判断が含まれているもの。
そういうものには価値が残る。
そしてこれは、個人事業主だけの話ではない。
会社に勤めている人であっても、
AIやロボットで代替できないもの、
あるいは、代替はできるけれど、その人がやるから意味があるものには、価値が残る。
人が関わることがレアになる世界では、
人の関与そのものが価値になる。
では、その価値はすべて無償で提供されるのか。
それも、社会の文化によって変わると思う。
もし、個人が提供するものもすべて無償で受け取り合う、
という感覚が社会全体に行き届けば、また違う形になるだろう。
けれど現実的には、
人の固有性に対して何かを渡す仕組みは残ると思う。
それは、今の意味での貨幣かもしれないし、
電子ポイントのようなものかもしれない。
誰もが潤沢に持っている、
社会から定期的に配られる、
推し投票のためのポイントのようなものかもしれない。
ポーカーゲームを始めるとき、
全員にチップが配られるように。
そのポイントを、人は自分が価値を感じた相手に送る。
あの人のラーメンがよかった。
あの人の店がよかった。
あの人の美容院がよかった。
あの人の施工がよかった。
あの人の接客がよかった。
あの人の判断が助けになった。
あの人の活動を続けてほしい。
そうして、ポイントが流れる。
このような経済を、仮に
推しポイント経済
あるいは
チップメイン経済
と呼んでもいいかもしれない。
ただし、ここで大事なのは、
この世界に一気に移行するわけではない、ということだ。
完全に生活必需品が無償化され、
誰もが生活に困らず、
金銭がほとんど推しや応援のためだけに使われる。
そうなるまでには、かなりの移行期間がある。
その移行期間では、
まだ生活するためにお金が必要になる。
食べるため。
住むため。
移動するため。
医療やサービスを受けるため。
現実の生活を維持するため。
つまり、生活必需の領域にも、まだ人が多く関与している。
その段階では、
「好きだから送る」だけでは不十分になる。
推し度だけではなく、
貢献度に応じて渡す
という感覚も、まだ必要になる。
なぜなら、誰かが具体的に働き、支え、時間を使い、責任を負っているからだ。
だから、未来の経済は、いきなりすべてが推しやチップになるのではなく、
しばらくは混在すると思う。
生活のための対価。
貢献に応じた分配。
固有価値への投票。
応援としてのポイント。
関係性の中での循環。
これらが重なりながら、少しずつ意味が変わっていく。
そしてもうひとつ、重要な点がある。
それは、個人ではなく、
人と人がタッグを組んだり、チームを組んだり、法人として活動したりする場合だ。
完全に推しポイント経済のようなものになったとしても、
法人やチームの内部では、単純な推しだけでは回らない。
たとえば、ある法人が多くのポイントを受け取ったとする。
そのポイントは、
代表者だけのものではない。
企画した人。
制作した人。
現場を支えた人。
裏方として整えた人。
協力した個人。
連携した別法人。
そうした人たちへ、どう回すのか。
ここでは、やはり
貢献度
が残る。
外から法人へ流れるものは、推しや支持に近いかもしれない。
けれど法人の内側や協力関係では、
誰が何を担い、どれだけ価値を生み、どのように支えたのかを見ていく必要がある。
つまり、協力体の中では、貢献の分析が残る。
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なお、ここでいう推しポイントのようなものは、
SNSの「いいね」と似ている部分もあります。
ただし、大きく違うのは、
すべての流れを公開ランキングのように見せるものではない、
という点です。
もし誰が誰にどれだけ送ったのか、
どの人がどれだけ集めているのかが常に丸見えになれば、
それは価値循環というより、
SNSのいいね競争に近づいてしまう。
人気、承認、比較、見栄、アルゴリズム攻略。
そうした方向へ流れやすくなる。
だから本来は、
価値の流れは記録されるとしても、
公開範囲は目的に応じて設計される必要があるのだと思います。
個人同士の流れは、基本的には静かに扱われる。
一方で、法人やチームやプロジェクトについては、
従来の決算書のように、
外部に示すべき範囲を整理して公開する。
ただしそこで示されるのは、
単なる利益ではなく、
どんな価値が流入し、
どのように協力者へ循環し、
どんな活動が継続的に支持されているのか、
という見取り図になる。
つまり、推しポイント金融経済は、
SNSのいいねシステムと似ているようで、
そのまま同じではありません。
重要なのは、
数を見せびらかすことではなく、
価値の流れを適切に記録し、
必要な範囲で信頼に変えていくことなのだと思います。
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そう考えると、
財務や会計の役割も、完全になくなるわけではない。
ただし、その意味は大きく変わる。
今の財務会計は、多くの場合、
利益が出ているか。
資金繰りは大丈夫か。
倒産しないか。
投資対象として優れているか。
税務上どう処理するか。
どれだけ儲かっているか。
そういう視点が中心になっている。
もちろん、今の段階ではそれは重要だ。
しかし、推しポイント経済や価値循環の経済に近づいていくと、
財務会計が見るべきものは変わっていく。
どれだけ推されているのか。
誰から支持されているのか。
どの活動に価値が流れているのか。
一時的な人気なのか、継続的な支持なのか。
チーム内で適切に分配されているのか。
協力者にちゃんと回っているのか。
次の活動を広げるだけの循環があるのか。
その法人は、どんな価値を生み、どんな関係性の中で支えられているのか。
こうしたものを可視化する必要が出てくる。
その意味で、未来の決算書は、
単なる損益計算書や貸借対照表ではなく、
価値循環の見取り図
のようなものになるかもしれない。
もちろん、ブロックチェーンのような改ざんしにくい仕組みや、
自動集計アプリによって、
多くの数字は一瞬で見られるようになるだろう。
月次推移も、
ポイントの流れも、
誰からどこへ価値が流れたかも、
スマホで簡単に確認できるようになるかもしれない。
けれど、それで分析が不要になるわけではない。
むしろ、数字が自動で見えるようになるほど、その意味を読む力が重要になる。
なぜこの活動には支持が集まっているのか。
なぜこの協力関係では流れが滞っているのか。
このポイントの増加は一時的なものなのか、深い支持なのか。
次に誰と組むべきなのか。
どの活動を広げるべきなのか。
どこに過剰な負担がかかっているのか。
どこにまだ見えていない価値があるのか。
こうしたことは、
単純な自動分析だけでは捉えきれない場合がある。
業種ごとの違いというより、
もっと細かな経験則や、
現場感覚や、
人と人の関係性を読む力が必要になる。
つまり、財務会計分析も、
生き残りのための管理から、
活動価値と協力関係を読むための仕事
へ変わっていく。
これは、先ほどのラーメン屋の話と同じだ。
AIが数字を出せる。
アプリが集計できる。
ブロックチェーンが改ざんを防ぐ。
グラフも自動で表示される。
それでも、
「この法人は、どう推されているのか」
「この活動は、どんな価値を生んでいるのか」
「この協力体制は、次にどう組み替えるべきなのか」
を、人が読んでくれる。
そこには、価値がある。
特に、法人やチームが新しい事業展開をするとき、
協力体制を変えるとき、
関係先を増やすとき、
活動の流れを立て直すとき。
そのときに、数字だけではなく、
数字の奥にある価値の流れを読める人がいることには、
大きな意味がある。
だから、財務や会計は消えるのではない。
変わる。
お金そのものが変わるように、
財務や会計の意味も変わる。
儲けを測るものから、
価値の流れを読むものへ。
生存のための管理から、
協力と循環のための羅針盤へ。
そう考えると、AI時代の先にある世界は、
人間の仕事がなくなる世界ではない。
むしろ、
人間がやるから意味があるものが、
よりはっきりと浮かび上がる世界なのだと思う。
物やシステムは、自動で流れる。
生活に必要なものは、無償に近づく。
便利さは、社会の基礎になる。
そのうえで、
人は人に会いに行く。
人の手を通したものを受け取る。
人の判断を求める。
人の表現に触れる。
人の店に通う。
人の場に参加する。
人の活動を支える。
そして、そこに価値が流れる。
金銭は、消えるのではない。
その意味が変わる。
労働の対価としてのお金から、
人の固有性に流れるお金へ。
所有や競争のためのお金から、
応援と貢献と循環のためのお金へ。
生活を守るためのお金から、
人と人の価値を通わせるためのお金へ。
そういう変化が起きていくのだと思う。
そしてそのとき、
問われるのは、
単に「何で稼ぐか」
ではなくなる。
むしろ、
自分は何を提供するのか。
自分がやるから意味があるものは何か。
誰と組み、どんな価値を生み、どんな循環をつくるのか。
そして、自分は誰に、何を流したいのか。
そこが、これからの時代の大きな問いになるのだと思う。
追記
単純な整理として、追記しておきます。
もし本記事に書いたような方向へ社会が推移していくなら、
お金の存在意義、つまり意味そのものが変わっていくのだと思います。
まず、
生存のためにお金を使う、という比重はかなり薄れていく。
生活に必要な物資や基礎的なサービスが、
AIやロボット、各種システムによってほとんど自動的に供給されるようになれば、
お金は「生きるために必要なものを得る手段」ではなくなっていくからです。
その代わりに、
お金、あるいは電子ポイントのようなものは、
人や活動の固有の価値に流れるものになっていくのかもしれません。
それは、単に高いか安いかを示すものではない。
どれだけ独自な価値があるのか。
どれだけ人が受け取りたいと感じているのか。
どれだけその活動を続けてほしいと思われているのか。
どれだけ協力関係の中で、価値が循環しているのか。
そうしたものを示す、
ひとつの流れの痕跡になるのだと思います。
つまり、お金は、
生存のための交換手段から、
価値の流れを可視化するものへ変わっていく。
どれだけ筋が通っているか。
どれだけ実際に流れが生まれているか。
どれだけ人や場や活動の間で、価値が循環しているか。
そうしたものを測る、
あるいは映し出すものとして、
お金の意味が変わっていくのではないかと思います。
そして、そうなっていくなら、
お金を溜め込む意味も薄れていくはずです。
なぜなら、それは生存を守るために抱え込むものではなく、
価値を感じたところへ流すものになっていくからです。
支払う、というより、
送る。
渡す。
流す。
贈る。
そんな感覚に近づいていく。
そうなると、
お金は奪い合う対象ではなくなっていくのかもしれません。
もちろん、現実の社会が完全にそこまで移行するには、
かなり大きな変化が必要です。
けれど、お金が
「生きるために必要なもの」
ではなく、
「価値を感じたところへ流すもの」
になっていくなら、
盗む、不当に得る、ただ抱え込んで満足する、
といった感覚そのものも、今とはかなり違うものになるはずです。
少なくとも、
お金を抱え込むことよりも、
どこへ流すかの方が重要になる。
そこに、お金のない社会、
あるいはお金の意味が変わった社会の、
ひとつの手触りがあるのだと思います。
※書き下ろした時の流れに近い文章は、コメント欄に置いておきます。