プラチナ スター MuJackie Toshi のブログ

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【Platina Star】✨
判断と感覚を、静かに整える

 

 

ファンタジー論、を限りなく従来の定義とかをほったらかしにしてまとめたくなった。

 

感覚世界には、深度がある。まずね。

 

深い深度方向は、自分自身の内面方向の感覚を探っていく方向。

 

浅い深度は、あくまで浅いのであって、方向としてはそちらだが、焦点は自分の外がかなりを占める。

 

外を意識したところで、それを認識したときの認知は自分の内面そのものでしかない。
というか、よりリアルに書くなら、認識できるすべては自分の内面だよ。

 

だって、目に映るものは自分の網膜スクリーンに映っているんだし、それをどう認知するかは、自分の趣向に最適化された脳みそでしょ?

 

興味ないものは映っていても見えないとか、普通にあるじゃん、人間。

 

だから、結局、自分の外を、そのものの感覚として感じることは無理。

 

食事をとる、Hで交わる、衣をまとう、住まいに住む、寝るときの空気、などなどは、実際、その行為に関わる対象を感じることになるが、厳密に言えば、自分の内でその感覚は生じている。

 

ていうか、もっと厳密にいうなら、自分の外なんてない。

 

全部自分の中。

 

ていうか、全部自分。

 

こう表現すると、あぶないように聞こえるふしあると思うが、正直に精査してみるだけでわかる。
外を感じるなんてできないよ。

 

で、外と感じるものが刺激となって、自分の内にあるものに気付く。

 

ときおり、それは痛みとして感じられ、
それを、そこにそのままあるものとして感じられると、最適化する。
逆説的に、痛みはなくなる。

 

それを排除しようとしたり、切ったり貼ったり的に動かそうとすると、痛みは続く。

 

で、痛みがなくなれば、それは自分の中のそこの部分が稼働状態に入ったということで、それは本来の状態に戻るということ。

 

別に、外からのアプローチによって刷新された変化をしたわけでもない。
あ、これは、そういうことがありえないっていうことね。
そもそも。

 

つまり、横道それるが激しくなったが、
深度には、浅い・深いがある。

 

浅い深度は、日常の意識状態というか、左脳を使う仕事などで具体的なことに集中している状態のときが多い。

 

深い深度は、自分の内面の感覚。
それは体感でよい。
心理とかでないほうが、深くいけるはず。

 

その感覚を探っていっているところが、深い深度感覚。

 

で、その深いところと浅いところを、ただよう香りのように、風のように通るものがある。

 

また、深い深度に行くにも、ちゃんと変な方向へいかないためには、この香りのような風のようなものに意識を向ける。

 

それは、ファンタジー感覚と呼んでもよいと思う。

 

赤色を呼び起こそう、内面にある赤色に焦点をあてようと思ったら、赤いものを見てもよい。

 

が、見ずにそれをやる。
つまり、深い深度の赤色に意識を向けたくなったら、リアルな赤色を視覚的にイメージするだけだと、変なところに行く。

 

だから、赤、チューリップの赤い花の色を思い出して、その匂い的なものを感じて、脳みそがジーンとなつかしいような振動を起こす、みたいな。

 

もしくは、真っ赤な夕焼けを思い出して、
一日遊んだあとにそれを見たときの、ホタルノヒカリの音とともに、
なんともいえず脳みそが鎮まる感じと、遊んだ満足を覚えながら見ていた、あったかい感覚。

 

もしかしたら、そのあと家に帰って、用意してあるクリームシチューの匂いとかも結びついているかもしれない。

 

そういうのこそ、
つまり、そういうファンタジー的感覚と呼んだらよさそうなものこそが、

 

本当に全うな深い深度にいける要素として使えるし、
深い・浅いに関係なく、自由にただようように行き来できる乗り物だ。

 

ファンタジー感覚とは、

 

ときに、音楽になるし、
ときに、存在感になるし、
ときに、なんだろ、ただ生きている歓びになる。

 

感覚から始めることは、なぜ「核心」なのか

—— 子供・踊り・言葉、そして経営へ

 

 

 


感覚で自由にやりはじめるのは、
社会の規範や常識を理解してからですね。

——本当に、そうだろうか。

この言葉に、どこかで息苦しさを感じたことがある人は、
きっと少なくないと思う。

今日は、
「感覚から始める」という、ごく自然で、
しかし現代社会ではなぜか軽く扱われがちなやり方について、
少し丁寧に書いてみたい。


子供は、文法を知らずに言葉を話し始める

人は、生まれた瞬間から言葉を知っているわけではない。

意味も、文法も、正解も知らないまま、

  • リズム

  • 空気

  • 相手の反応

そういったものを感覚的に丸ごと受け取り
「何かを伝えたい」という衝動から、
声を出し始める。

最初は、ただの真似ごとだ。
でも、そこからぐいぐいと、
社会的に“通じる言葉”を獲得していく。

これは偶然ではない。

人間の学習は、もともと

感覚 → 生成 → 社会的フィードバック → 構造化

という順序で進むようにできている。

「理解してから話す」のではなく、
話そうとする感覚が先にある


北風小僧のかんたろうは、座標で踊っていなかった

ふと、幼稚園の頃の記憶を思い出した。

「北風小僧のかんたろう」の踊り。
大きな和傘のようなものをかぶり、
最後にピタッと決めて、拍手をもらう。

あのとき、誰も、

  • 腕の角度は何度か

  • 足さばきの正解ルートはどこか

  • 重心はどの座標に置くのか

なんて教えていない。

あるのは、

  • かんたろうって、こんな感じ

  • なりきってみよう

  • 最後、気持ちよく決めてみな

それだけ。

在り方を先に渡し、形は後から自然に立ち上がる。

舞踊も、演劇も、武道も、
本来はこの順番だったはずだ。


「理解してからやれ」は、社会のための応急処置

ここで誤解してほしくないのは、
マニュアルや画一性を否定したいわけではない、ということ。

  • 安全が最優先される現場

  • 品質を均一に保つ必要がある工程

  • 信頼を担保するためのルール

そういった場面では、
画一的な手順は、確かに必要だ。

ただし、それは――

人生全体のベースではなく、
一部のシーンで機能する方法

にすぎない。

部分の正義を、
全体に拡張してしまうと、
人は感覚を閉じてしまう。


感覚ベースが、なぜなめられるのか

感覚ベースのやり方は、

  • 言語化しにくい

  • 数値化しにくい

  • 権威で縛りにくい

だから、

「それ、感覚でしょ?」
「ちゃんと考えてるの?」
「根拠は?」

と、簡単に切り捨てられる。

でも本当は逆だ。

感覚ベースとは、
世界との整合がいちばん深い回路
でもある。

軽く見えるのは、
表層だけを見ているから。


経営も、実は同じ構造をしている

経営の世界でも、同じことが起きる。

  • 数字

  • KPI

  • フレームワーク

  • 正解事例

これらは確かに重要だ。

しかし、強い経営の多くは、

  • 「この事業、通るな」

  • 「この人、信頼できるな」

  • 「このタイミング、来てるな」

という感覚的な判断が、
最初にある。

構造は、その感覚を
再現可能にするために後から整えられる

順序が逆になると、
どこかで無理が出る。


感覚を信じる、という「普通」を回復する

感覚でやる、というと、
無責任・非論理・気分屋、
そんなレッテルを貼られがちだ。

でも実際は、

感覚 → 構造 → 洗練

この流れを自然に使えているだけ。

子供の頃、誰もが持っていた回路を、
大人の意識で、もう一度使い直しているだけだ。


おわりに

人生は、画一的ではない。

だからこそ、

  • まず感覚を信じる

  • その上で、必要な構造を使う

この順序を取り違えないことが、
実はとても大切なのだと思う。

感覚から始めることは、
逃げでも、甘えでもない。

一番核心を突いた、
人間らしいやり方
なのだから。
 

※このテーマは、経営や教育の話にもつながっていくので、また書きます。

 


【ディープディシューのしこりを晴らして、清々しさを通す方法】
※起き抜けメモ

 

 

 

以下、手順

 

⓪ 事前準備

指で骨をこすり、痛いところを探す。
見つかったら、ある程度の時間こすり続け、
痛みが引いていくところまで持っていけるか試してみる。

 

① 本題に入る

 

姿勢を正し、精神を静める。
方法は任意でよい。

 

② 不快感に意識を向ける

 

晴らしたい体の不快感に意識を向ける。
場所はなんとなくでよい。

 

※ さっき骨をこすっていた場所とは
別の不快感を選ぶこと。

 

すると次第に、
あまりに不快で普段は目をそむけていた、
鈍痛そのものに意識が向けられるようになる。

 

③ 認知の切り替え

 

その鈍痛は、
その部分の流れが止まっていることによるものだと
認知しなおす。
(逆説的だが)

 

④ 意識の振り切り

 

痛む部分とは別に、
再び「骨を指でこすったときの感覚」を思い出す。

 

冒頭ですでに一度体験しているので、
その感覚は再現できるはず。

 

今認知しなおした鈍痛とは関係なく

 

骨をこする感覚だけに意識を合わせ続ける

 

途中で、
鈍痛のほうが流れ始めて
そちらに意識が向きそうになるが、
ここは意図的に振り切る。

 

⑤ 鈍痛が晴れる

 

しばらくすると、
鈍痛のほうが自然に晴れる。

 

それで満足する。

 

⑥ さらに奥を見る

 

次に、
「本当はもっと清々しいはずだ」という意識を
同じ場所に向けてみる。

 

すると、
鈍痛の原因になっていた
薄くて気づきにくい膜のような違和感に
気づくことがある。

 

それに対して、
③④⑤と同じ手順を行う。

 

⑦ もう一段階(任意)

 

薄い膜のような違和感が晴れたら、
さらにもう一段階、
「もっと清々しいはずだ」と
意識を向けてみてもよい。

 

やることは⑥と同じ。

 

⑧ 余韻

 

終わると、
清々しい感覚が、

 

もともと鈍痛のあった場所

 

薄い膜を感じた層

 

肉体のわかりやすい感覚の層

 

そのすべてを行き交っているのが確認できる。

 

その状態で、
清々しさの匂い・アロマを味わう。

 

※ 体のしこりだけでなく、
心理的に流れが止まり、
執着や意志薄弱になっている部分にも
応用できるかもしれない。
まだ未検証。

 

🔹 締め

今日は、ここまでの記録。

 

 

今日は、
考えをまとめるより、
鉱山から割り出したままの原石をそのまま置くことにした。

いま大事なのは、
きれいに整った説明より、
実際に通った瞬間の感触を残すことだと思ったから。

 

●水・川の例え

用水路の水を流すとか、その前にさ、
まず水面のほうから、少しずつ手で動かしてやると、
滞っていた部分がかくはんされて、
そこが少し澄むやろ。

 

そうやって表面のほうが落ち着いてきたら、
今度は、深いところに
どよーんとした、ヘドロっぽい
動かない黒いエリアが見えてくる。

 

そこは、まだ底が見えん状態。

 

そしたら、その深いところを、
ゆっくり手でかきまぜるように、
少しずつ動かしてやる。

 

すると、
ヘドロみたいな部分が散っていって、
今まで見えなかった底が、
だんだん見えるようになる。

 

流れを「つくる」というより、
ずっと動いてなくて、
底が見えんかったものが、
動いたことで見えるようになるだけ。

 

それが、「通す」ということや。

 

底にある何かと、
こちら側をトンネルでつなぐ、
みたいな話じゃない。

 

ただ、
底が見えるくらいまで澄んだ状態に、
戻すだけ。

 

本来、川って、
常に流れていて、
動いて、活性化し続けている状態やろ。

 

動かさないでいる時間が長すぎただけで、
少し手を入れて、動きが戻ると、

 

「ああ、川底、見え始めたな。
 もう分かったわ」

 

ってなる。

 

本来、ここは
川として流れているのが
当たり前の状態やったんや、って。

 

そこが分かったら、
あとはもう、
「川としてどう流れるか」なんて、
考えなくてもいい。

 

勝手に、
いろいろ浮かんでくる。

 

透明な水になって、
川底が見える。

 

それが普通や、って感覚になる。
ここがいちばん大事や。

 

●指差しの話

続けて、もうひとつ。

 

これは、たとえ話やけど、
イメージの話ちゃう

 

「イメージだね」って受け取って、
頭の中で頑張って想像しても、
正直、あんまり意味ない。

 

実際は、
もうそうなってる。

 

ただ、
目を覚ましてないだけ。

 

その「実際」を忘れてるから、
どうやって思い出してもらおうか、
ってときに使うのが、
たとえ話なだけ。

 

たとえは、
指差しにすぎん。

 

大事なのは、
たとえそのものじゃなくて、
指が指している先

 

だから、
ひとつの例えを
金科玉条みたいに扱う必要はない。

 

むしろ、
いろんな角度から指差したほうがいい。

 

そうすると、
「ああ、これ、
 自分のことやったんや」
って、
体まるごとで腑に落ちる。

 

今の社会とか、教育の場って、
この取り違え、
わりと多い気がする。

 

指じゃなくて、
指差されてるもののほうを、
ちゃんと見る。

 

今日は、その備忘。


通った感触だけ、残しておく。

以前のブログ記事に書いた内容を、改めて思想エッセンスとして、整理して書き直します。

 

※本記事は、特定の個人・組織・出来事への評価を目的としたものではなく、
これまでの経験から見えてきた「構造的な共通項」を整理した思想ノートである。

 

ここで述べている内容は、

私自身が経営の第一線で大きな成功を収めてきた、

という前提から語るものではない。

 

ただ、複数の組織や事業に関わる中で、

“何が構造として機能し、何が破綻しやすいのか” を

長く観察してきた立場から、

そのパターンや共通項を整理したものになる。

 

実務の大小ではなく、

「構造を見るというレイヤー」 から得られた考察なので、

ここではその“構造レベルの気づき”だけを扱っている。

 

その意味で以下の内容は、

経験の成否や個別事情ではなく、

抽象度の高い“原理解釈”として読んでもらえれば十分。

 

私はあくまで、

特定の立場の主張をしているのではなく、

組織やプロジェクトの動き方を

抽象レベルで観察した時に見えてくる構造 を

そのまま言語化している。

 

実務の大小は関係なく、

構造認識には一定の普遍性があるため、

あえて断定的な言い回しを使っている部分がある。

 

実際の事例に当てはめるかどうかは

読まれる方の自由に委ねたい。

 

 

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【経営思想:全体性経営の原理】

 


序章:経営は「視点の体系」であり、技術ではない

 

経営には多くの方法論が語られるが、
最も誤解されやすいのは

「経営は技術や経験の集合だ」

という前提である。

実際には、
技術も経験も「視点の階層構造の上に乗る副産物」であり、
経営の根幹は “どのレイヤーで世界を見ているか” にある。

事業が前に進むか停滞するかは、
構造をどう“認識”しているかによって決まる。

 


第1章:事業は「全体性」と「部分性」の二重螺旋で動く

 

法人とは、単なる部門の集合ではない。

事業は常に、

全体(存在理由・価値創造・長期性)

部分(運営・収支・実務)

という二重螺旋の構造を持つ。

部分だけを見ても機能せず、
全体だけを見ても運営できない。

両者を往復できる視点こそ、経営の核である。

 


第2章:部門収支と報酬は“同列の概念ではない”

 

多くの誤解は、
「収支と報酬は連動する」という単純化された認知から始まる。

収支は運営の健全性を示す“点検項目”。
報酬は組織への貢献と役割を認定する“価値評価”。

両者は同じ軸上には存在しない。

初年度から黒字化が難しい部門は数多く存在するが、
その部門が法人にとって無価値とは限らない。

逆に黒字でも、
法人全体の未来に寄与しない部門は“重荷”になる。

つまり、

事業の価値は、時系列と連関性を含んだ“全体の中”で決まる。

 


 

第3章:経営の仕事は“整合性の生成”である

 

経営者が行うべきは、
各部門を最適化することではなく、

 

全体の方向性

部門間の連携

資金と労力の流れ

組織の役割設計

これらの 整合性を作ること である。

整合性のない組織は、
どれだけ努力しても前に進まない。

整合性は、知識よりも
視座・認知・姿勢 によって決まる。

 


第4章:パートナーシップとは“階層の共有”である

 

パートナーシップを阻害する最大の要因は、
価値観の違いではなく、
見ている階層の違い” である。

全体の構造を語っても、
部分視点の人には「個人的な話」に聞こえる。

組織設計の話をしても、
待遇の話に変換される人もいる。

これは能力不足ではなく、
認知構造の差異によって起こる。

だからこそ、

全体 → 部分 → 全体
という往復運動が自然にできる相手とは、
事業は驚くほど速く展開する。

逆に、この構造が共有できない人とは、
努力と誤解が積み重なり、
やがて関係は停止する。

 


終章:革新は「全体の意識」が生まれた時に始まる

 

革新とは、新しい技術や発想ではなく、

全体を理解する意志

部分を軽視しない態度

 

部分に飲まれない軸

全体と部分の整合性の中で動く勇気

これらが揃ったときに生まれる。

経営とは、
数字を動かす作業ではなく、
“視点と構造”のマネジメントである。