やりたいことのほうへ進む
— 構造と感覚、センスのその先へ —
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センスのあるテーマというものがある。
あるテーマに触れたとき、
まだ構造をきちんと理解していなくても、
なぜか勘所がわかる。
言葉にする前に、
なんとなく通り道が見える。
細かい理屈を学ぶ前から、
「たぶん、こういうことだろうな」
という感覚が働く。
そういうテーマは、
やはりスムーズに進みやすい。
感覚が先に触れているから、
あとから構造を学んでも入りやすい。
違和感にも気づきやすい。
修正も早い。
伸び方も、どこか自然になる。
だから、
センスのあるテーマに注力したほうが、
スムーズかつ伸びやすい。
それは、たぶん本当だと思う。
⭐️
ただ、だからといって、
「では、センスのあるテーマを選ぶべきだ」
と一概に言えるかというと、
そこは少し違う気がしている。
センスがあるかどうか。
スムーズに伸びるかどうか。
もちろん、それは大事な判断材料にはなる。
でも、それだけで、
自分が向かうテーマを決めてしまっていいのか。
そこには、少し違和感がある。
うさぎとカメの話もある。
最初から速く進めることと、
最後まで歩き続けられることは違う。
感覚の入口が開いていることと、
本当にその道を生きたいかどうかも違う。
センスがあるから進む。
センスがないからやめる。
それだけで決めるには、
人の歩みは、もう少し複雑な気がする。
⭐️
結局、いちばん大事なのは、
やりたいことを、ちゃんとやれているか。
なのだと思う。
センスがあるかよりも。
スムーズかどうかよりも。
本当にやりたいことに向かっているか。
そこが、かなり大事だと痛感する。
もちろん、人は皆、
基本的にはやりたいことをやっているのかもしれない。
たとえ本人がそう思っていなくても、
深いところでは、
何かしら自分が選んでいる方向に進んでいるのかもしれない。
それでも、やはり、
表層の都合や、効率や、損得や、
「こっちのほうが向いているはず」
という判断だけで進むと、
どこかで、自分の中心から少しズレることがある。
センスがあるかどうかは、
進み方を知るための手がかりにはなる。
でも、人生のテーマを選ぶ絶対基準ではない。
やりたいことをやる。
その途中で、
構造理解が起きる。
その途中で、
感覚もアップデートされる。
最初からうまくできるから進むのではなく、
進みたいから、構造を学ぶ。
進みたいから、感覚が磨かれる。
そういうこともあるのだと思う。
⭐️
構造アプローチと、感覚アプローチ。
構造から入る人がいる。
原理を理解し、
全体像を掴み、
手順を確認し、
ひとつずつ積み上げていく。
感覚から入る人もいる。
なんとなく触れてしまう。
理由は説明できないけれど、
先に空気や流れを掴んでしまう。
どちらが上という話ではない。
構造があるから、
感覚が迷子にならないこともある。
感覚があるから、
構造がただの枠組みで終わらないこともある。
構造と感覚は、
本来、対立するものではない。
二本の柱のようなものかもしれない。
そのあいだを、
人は進んでいく。
ただ、その柱のあいだを、
向こう側に抜けて進むには、
やはり、やりたいことが必要なのだと思う。
構造があるから進める。
感覚があるから進める。
それもある。
でも、もっと奥には、
「そっちへ行きたい」
というものがある。
それがあるから、
構造も必要になる。
感覚も更新される。
⭐️
そして、その
「やりたいこと」について、
最近少し考えている。
やりたいことには、
いくつかの立ち上がり方があるのかもしれない。
ひとつは、
何もないところから、
ふっと立ち上がってくるもの。
あえて言えば、
自己ベースで立ち上がるもの。
もうひとつは、
誰かの存在に触れることで、
ある方向へ動き出すもの。
あえて言えば、
他者ベースで立ち上がるもの。
ただし、これはよく言われるような、
自分軸か、他人軸か。
自分のためか、人のためか。
自己満足か、他者貢献か。
そういう話とは少し違う。
もっと奥の話。
自己ベースといっても、
小さな自我が、
自分だけのために何かをしたい、
という感じではない。
他者ベースといっても、
誰かに認められたいとか、
誰かの期待に応えたいとか、
そういうことだけではない。
どちらも、
もっと深い場所から立ち上がる。
自分と他者の境目が、
少しほどけているような場所。
そこから、
何かが生まれてくる。
⭐️
たとえば、私にとっての自然体動は、
誰かの存在があるから生まれる、
という感じではない。
音楽も、そうかもしれない。
何もないところから生まれる。
どこからかと言えば、
自分から生まれる。
ただ、そのときの「自分」は、
普段考えているような、
他人と切り離された個人としての自分とは少し違う。
自他の区別が、
あまりはっきりしていない場所。
誰かのためでもなく、
誰かに向けてでもなく、
かといって、
自分だけで閉じているわけでもない。
何かが、ただ立ち上がってくる。
身体が動き出す。
音が出てくる。
空間に、流れが生まれる。
そこに、特定の誰かはいない。
でも、完全に孤立した自分だけがいるわけでもない。
自分という場所から立ち上がっているのに、
その自分は、自他の境目がかなり薄い。
そういう自己ベースがある。
⭐️
一方で、
誰かの存在に触れることで、
立ち上がるやりたいこともある。
過去の誰かかもしれない。
今、身近にいる誰かかもしれない。
まだ知らない、
ぼんやりした未来の誰かかもしれない。
会える人かもしれない。
もう会えない人かもしれない。
手の届く人かもしれない。
手の届かない人かもしれない。
仲間かもしれない。
好きな人かもしれない。
同性かもしれない。
異性かもしれない。
世代も関係ない。
特定の人であることもあれば、
そうでないこともある。
ただ、どこかに、
誰かの存在の気配がある。
⭐️
誰かに会いたい。
誰かに届きたい。
誰かと分かち合いたい。
誰かに見てほしい。
誰かの前で、自分がちゃんと立ち上がりたい。
そういうものも、
もちろんあるのかもしれない。
でも、それよりも、
もっと素朴なところで、
誰かを元気にしたい。
誰かの笑顔を見たい。
誰かを緩ませたい。
そうやって、
誰かと同じ空気を吸いたい。
誰かと、どこかで分かり合いたい。
言葉にすると、
少し限定されてしまうけれど、
たぶん、
やりたいことの奥には、
そういう誰かの存在との関係があることもある。
これは、
自分を捨てて他人に尽くす、
ということではない。
誰かのために、
自分を消すということでもない。
むしろ、
誰かが緩むとき、
誰かが少し元気になるとき、
誰かの笑顔がふっと見えたとき、
こちらの中にも、
何かが通る。
同じ空気を吸っている感じがする。
自分と他者が、
はっきり分かれたままではなく、
どこかで同じ場にいる。
そういう他者ベースがある。
⭐️
その誰かは、
今、目の前にいる人とは限らない。
過去の偉人かもしれない。
すでにこの世にいない人かもしれない。
まだ出会っていない未来の誰かかもしれない。
直接会える人ではなくても、
その人の残したもの、
その人の姿勢、
その人がまとっていた空気に触れて、
自分も、その空気をまといたい。
その人が見ていた世界の手触りに、
少し近づきたい。
そういう憧れや共鳴が、
やりたいことの原動力になることもある。
誰かを目指すというより、
その人がまとっていた空気を、
こちらの身体で少し通してみる。
過去の誰かがまとっていた空気を、
今の自分の身体を通して、
少しだけこの世界に通してみる。
そういうことも、
あるのかもしれない。
⭐️
自己ベース。
他者ベース。
こう書くと、
少しきれいに分かれたもののように見えるけれど、
実際には、たぶんそんなに単純ではない。
何もないところから立ち上がった自然体動が、結果的に誰かを緩ませることもある。
自分から生まれた音楽が、
誰かの身体や心に届くこともある。
逆に、
誰かを元気にしたいという思いから始まったことが、
気づけば自分自身の深いところを通していることもある。
だから、
自己ベースと他者ベースは、
完全に別物ではない。
入口が違うだけなのかもしれない。
どちらも、深く入っていくと、
自分と他者の境目が少し薄くなる。
ただ、最初の立ち上がり方として、
何もないところから、
自分という場から生まれるものがある。
誰かの存在に触れて、
関係の中から生まれるものがある。
その両方がある。
そう感じている。
⭐️
だから、
センスがあるテーマを選べばいい、
という話ではない。
センスがないから諦めればいい、
という話でもない。
スムーズに伸びることは、たしかにある。
向いているテーマも、たしかにある。
でも、
それ以上に大事なのは、
本当にやりたいことをやれているか。
そして、そのやりたいことが、
どこから立ち上がっているのか。
何もないところから、
自他の区別が薄い場所から、
ふっと立ち上がってくるのか。
あるいは、
誰かの存在の気配に触れて、
ある方向へ動き出しているのか。
そのどちらも、
たぶん大事なのだと思う。
構造アプローチ。
感覚アプローチ。
センスのあるなし。
それらは全部、
進むための手がかりではある。
でも、
進む理由そのものではない。
進む理由は、
もっと深いところにある。
自分だけで閉じてもいないし、
誰かのためだけでもない。
その境目がほどけるような場所から、
人は何かをやりたくなるのかもしれない。
だからこそ人は、
構造と感覚の柱のあいだを抜けて、
向こう側へ進んでいくのだと思う。
⭐️
追記:存在のアロマ
同じ香りを味わおうとして、
その人がまとっていた空気に、
少し近づこうとして、
それで結局、
その人にしかないアロマがあることを、
残り香のような、微妙なものとして感じ入る。
そういうのは、
なんだか、幸せなことだと思う。
分かりきらなくていい。
どうしても理解できないと、
憤慨したことさえあるかもしれない。
それでも、
そういうものも含めて、
その残り香の中には、
言葉では説明しきれないものが、
いろいろと含まれている。
それは、存在の微妙な味わい。
苦いとも言い切れない。
ほのかに甘いようにも感じられる。
存在のアロマ。
存在の味わい。
目には見えないけれど、
たぶんそれは、
プラチナ色の光のようなもので、
心のどこにでも到達する。
防ぎようのない、存在の輝き。
それは、
意識を向けさえすれば、
きっと認識できる。
はず。w
そして、
その光を見ているとき、
自分とか、他者とか、
そういう境目を少し超えて、
宇宙全体に通っている光が、
ほんの少しだけ、
輝きを増しているように見えることがある。
……かもしれない。w






