プラチナ スター MuJackie Toshi のブログ

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【Platina Star】✨
判断と感覚を、静かに整える


今、ホームページを作成している途中で、

少しおもしろいことに気づいたから、メモしておく。





今やろうとしていることは、

昔で言えば「アセンションサポート」に近い意味合いでもあり、

同時に、ぶれない軸づくりにも関わっている。


ただ、

今のHP上では、その言葉は使っていない。


で、整理してみると、

結局のところ、


我=空間そのもの


という立ち位置に行き着く。


最近、23Dを扱うとき、

ここがかなり要になっている。


正直、

これさえできていればいい、

というレベルのものだ。



もう一つ、留意点がある。


「自分が光である」と言うことと、

ちゃんと味わい深い光として在ることは、

少し違う。


そしてさらに、

内面世界だけでなく、

外側の世界にも光を照らす感覚。


自然でもいいし、

人に対してでもいい。


相手を「23Dにする」というより、

空間を共有する、という感覚に近い。


他を23Dにする作業を通して、

結果的に、

自分の23Dも偏りなく安定する。



結局、やっぱり要は、


我こそが空間そのもの


というところに戻る。


最初はチャクラの空間として扱うけれど、

本質は、

空間そのものだと思った。


通す、という表現を使っているけれど、

実際は、


空間として在る方が、

いちばん簡単で、一発


なのかもしれない。


意識って、

点じゃない。


空間そのものだから。

風邪気味で横になっていたら、

水平方向と垂直方向が、勝手につながり始めた。

 

脈絡ないところからはじまったものだから、徒然で書く。


 

 

 

平面が我々としよう。

 

我々は、個人でもあるし、その総体の人類でもあるし、それが存在する、またはそれが認識できるところであるこの世界だと仮定しよう。

まずね。

 

で、ピラミッドを想像してほしい。

これは、平面の上に立っている。

いわばクフ王のピラミッドのイメージである。

 

そして、実際にクフ王のピラミッドはそうなっているという説というか論文のようなものを垣間見たことがあるが、

 

ピラミッドの下方にも逆向きのピラミッドが埋まっていると想像してみてほしい。


 

つまり、正四角錐が上下逆に、底面を合わせて正四角双錐になっているのが見て取れるはずである。

 

底面部分を永遠に伸ばせば、先ほど定義した我らが平面である。

 

(正四角錐が上下逆向きに、底面を合わせて結合した

正四角双錐 を想像してほしい)

 

そして、次に底面より上、つまり地上にそびえるピラミッドについて書こう。

 

これは、イメージそのままのものとして記述することにする。

 

ピラミッドの頂点に向かって登れる山である。

 

頂点に向かうには、そこまで行きやすいルートがあるかもしれない。

 

そのルートとは、頂点方向から俯瞰したとしたら、ピラミッドの下の地上部分から頂上までいくのに、平面のいわば水平方向の広がりのなかで、どちらの方角から登り始めて、どの方角へ迂回しながら登るかなどの、つまり水平方向の座標が肝である。

 

 

そして、頂点にいけば、平面を見渡せる。

 

平面世界の表、つまり地上部分であるが、これについて、見下ろしてすべて見ることができる。把握できる。それを元に精査もできるし、管理すら出来る。

 

トップダウン構造のピラミッドである。

 

 

一方で、下方に向かうピラミッドについて見てみることにしよう。

 

これは、地上に埋まっている方向のものと先ほどイメージ化したが、ここで、いきなりではあるが、意識の深部方向へ沈む方向と設定する。

 

意識を探るという表現について抵抗のある人がいるのを以前知ったので、言い換えると、心の奥底方向に沈むというのでも良い。

 

内面世界の深くへ入っていく方向である。

 

つまり、先ほどの、地上部分が外界であるならば、こちらは内界である。

 

----

 

そして、重要なことを言い忘れたので書き記す。

 

地上のピラミッドでは、頂点まで行くのに、登らなければならない。

 

つまり、頑張る必要あるし、ルートを水平方向のどこから行くかが重要であるから、いろいろ効率を考えなければならないし、過去の経験者の言うことをよく聞いて、間違えないようにすることなどが助けとなる。

 

水平方向の知識、が結構重要なのが、この地上のピラミッドである。

 

そして、頂点に行けば、すべてが見渡せる。

 

この世界の。そして、われわれの。

 

トップダウンで君臨できるし、立場上必然的にマウントポジションである。

 

---

 

話しを戻そう。

 

 

下方のピラミッドは、これとは違う。

 

心理的なというか、内面世界、それはもちろん個人個人のということで、主観的なエリアであるし、まず、頂点に行くのに必要なのは、頑張ることではない。

 

頂点は、下方ピラミッドの場合は、最深部の点である。

 

そこに達するのには、まず垂直方向への線を下方に伸ばす。

 

言い換えると、心もしくは意識、の深部に降りていくのである。

 

そして、それが出来さえすれば、あとは、平面の我々は、いや少なくとも平面の我はといったほうが無難か、我は、転がるように、その最深部の頂点まで行く。

 

水平方向のルートなど考えるまでもなく。

 

じょうごを思い浮かべて欲しい。

 

じょうごの上のほうに石を一つおいたら、どの方向から最深部に行こうかなど考えなくても、最深部が石のある位置よりも下方、つまり深ければ、勝手に、そこまで行くであろう。

 

水平方向がほぼ関与しないで、頂点まで行く。

 

そしてこの下方頂点から我々の平面世界を眺めてみると、それは我々の裏面を見ることになる。

そして、その裏面を通して、そのままそこを通って、地上のピラミッドの頂上方向の空間まで見通すことが出来る。

 

 

地上のピラミッドの頂点からは、トップダウンのすべて見下ろして我々の表面を管理できる視点を得るが、深部のピラミッド頂点からは、すべてを裏から見通せる視点を得る。

 

そして、地上のピラミッドで見下ろせる情報は、客観的にこれがこの座標にあると、言い切ることが出来る類のものである。

 

一方、深部のピラミッド頂点からの視点により見えるものは、個人の心もしくは意識の中の深部頂点から平面へ上がってきて、まず個人の平面つまり現実世界を裏面から見通していき、平面において我々を把握し、地上の空へ向かって世界全体の空間、空気を、把握していく。

 

そこには、基本、我の視点しか存在しないため、そもそもマウント概念が存在しえない。

完全に自己に責任を持った視点であるとも言えよう。

 

 

また、地上世界において、ピラミッド、つまり山が違えば、登る水平方向の座標はまた違ってくる。

 

同じ山であれば、確実に言えることも、違う山ならまた別の水平方向を考慮する必要が生じる。

 

この山の違いには、高さの違い、つまり垂直方向のベクトル加味も生じるから、トップダウンによる完全把握とは言っても、それが言えるのは、その山の裾野に限る。

 

深部方向のピラミッドの場合、深度の違いは、個人に影響するだけである。つまり、個人は分裂して存在しえないから、深度の違いが生じても、そこから接続する平面世界、つまり地面部分は、変わりえない。

 

深度が深くなれば、接続する平面部分が広くなることはありえても、違う平面部分と接続することはあり得ない。

 

よって、そこからの視点は、降りていくピラミッドによって全く違うなんていうことはない。

 

個人の意識は分裂できないのだから。

 

我は我である。

 

我は彼、と想像してみることはできても、実際には我は我でしかありえない。


⭐️   ⭐️     ✨


ここまで書いてきた「二つのピラミッド」は、

ある世界観や思想を説明するための比喩ではあるが、

同時に、私が実際に行っているセッションの構造そのものでもある。


多くの人が慣れ親しんでいるのは、

地上にそびえるピラミッドのほうだろう。


つまり、

何を学ぶべきか

どの順番で進むべきか

どうすれば効率が良いか

失敗を避けるにはどうすればよいか


といった、水平方向の座標を整理しながら、

努力と工夫によって「上を目指す」アプローチである。


この方法は、社会や組織の中では非常に有効だ。

ただし同時に、

常に比較・評価・最適化がつきまとう世界でもある。



私のセッションが扱うのは、

もう一つのピラミッド、

すなわち下方に向かう垂直方向である。


ここでは、

何をすべきか

どう変わるべきか

正解はどれか


といった問いは、ほとんど意味を持たない。


必要なのは、

「頑張ること」でも

「理解すること」でもなく、

ただ、垂直方向に降りていくことだけだ。


意識や心の深部に、

まっすぐ線を下ろす。


それが起きた瞬間、

水平方向の迷いや選択は、

自然と力を失っていく。


じょうごに石を置いたとき、

どの方向から落ちるかを考えなくてよいのと同じように、

深度が十分であれば、

人は勝手に「最深部」に至る。



このセッションでは、

アドバイスやノウハウの提供は行っていない。


その代わり、

自分で正確に判断できる状態をつくる。


深部の頂点に触れた視点から世界を見るとき、

何をするか、何をしないかは、

外から決められるものではなく、

内側から自然に立ち上がってくる。


そこには、

マウントも、優劣も、正解競争も存在しない。


あるのは、

「我は我である」という、

完全に自己責任で、同時に静かな確かさを持った視点だけだ。



このセッションは、

人生を“上へ導く”ものではない。


また、

何かを“変える”ためのものでもない。


ただ、

通す。


垂直方向に、

余計な力をかけずに、

自分自身を通す。


その結果として、

現実世界の見え方や、

選択の質や、

身体の在り方が、

静かに、しかし確実に変わっていく。


それは、

登ったから得られる視界ではなく、

沈んだから見える景色である。


https://plat-in-a-star.jimdofree.com/


https://platina-star-alignment.jimdofree.com/


 

痛み?

 

いや、空間がかゆくなってきているだけじゃない?

 

気持ちよくかいてごらん。

 

脱皮するみたいに、

 

奥の空間、出てきたっしょ?

 

ほら、

 

ちゃんと通った。

 

僕も君も、空間そのものだよね。

 

気持ちよくかいて通していこう!

 

 


 

Pain?

Nah.

Isn’t it just the space getting itchy?

Go on, scratch it gently.

See?
Like shedding a skin,
the deeper space comes through.

There. It passed.

You and I—
we’re the space itself.

So let’s keep scratching gently,
and let it pass.

 


 

感覚が通過したあとの、静かな空間を示唆する抽象的なイメージ
 


 

坐骨神経痛について、少し書いておく。

 

僕は、青年期までの「机に座って勉強する日々」と、
その後の長年のデスクワークによって、
かなり重い坐骨神経痛を抱えることになった。

 

ただ、その痛みを
「ただの不具合」や「排除すべきもの」として扱うのではなく、
ひとつの原資として使い始めた。

 

意識を使って、
その痛みを入口に、
内側で起きている感覚や空間を、
かなり自由に探検するようになった。

 

その中で確認できたこと、
ある程度の確信をもって言えそうな
“その瞬間のエッセンス”を、
ときどきポエムの形にして残している。

 

今回のものも、
一応は坐骨神経痛にまつわる感覚ポエムではある。

 

ただ、これまであまり明言してこなかったけれど、
エッセンスだけを取り出してみると、
身体の痛みに限らず、
他のテーマにも当てはめられそうだな、
という感覚もある。

 

だからといって、
それを精査して追いかけるつもりは、今のところない。

 

以前、こうしたポエムを読んだ方とのやりとりの中で、
「誰か他人に向けられた言葉なのでは」と
受け取られているように感じたこともあった。

 

けれど、
少なくとも僕の中では、
まったくそういう類のものではない。

 

これは、
自分の身体と意識の内部で起きていることを、
そのままメモしているに近い。

 

英語に書き直しているのも、
そうした誤解を薄められるかもしれない、
という感覚から始まっている。

 

少し調べてみたら、
「日本語は虫視点、英語は神視点」
といった話を見かけた。

 

なるほど、
日本語だと強く響いてしまう断定表現も、
英語だと不思議と馴染むのは、
視点の高さの違いなのかもしれないな、
などと納得したりもした。

 

これは備忘録のようなポエムだけれど、
エッセンスだけを残しているからこそ、
読む人によっては、
何かが響くこともあるのかもしれない。

 

 

 


 

 

 

ファンタジー論、を限りなく従来の定義とかをほったらかしにしてまとめたくなった。

 

感覚世界には、深度がある。まずね。

 

深い深度方向は、自分自身の内面方向の感覚を探っていく方向。

 

浅い深度は、あくまで浅いのであって、方向としてはそちらだが、焦点は自分の外がかなりを占める。

 

外を意識したところで、それを認識したときの認知は自分の内面そのものでしかない。
というか、よりリアルに書くなら、認識できるすべては自分の内面だよ。

 

だって、目に映るものは自分の網膜スクリーンに映っているんだし、それをどう認知するかは、自分の趣向に最適化された脳みそでしょ?

 

興味ないものは映っていても見えないとか、普通にあるじゃん、人間。

 

だから、結局、自分の外を、そのものの感覚として感じることは無理。

 

食事をとる、Hで交わる、衣をまとう、住まいに住む、寝るときの空気、などなどは、実際、その行為に関わる対象を感じることになるが、厳密に言えば、自分の内でその感覚は生じている。

 

ていうか、もっと厳密にいうなら、自分の外なんてない。

 

全部自分の中。

 

ていうか、全部自分。

 

こう表現すると、あぶないように聞こえるふしあると思うが、正直に精査してみるだけでわかる。
外を感じるなんてできないよ。

 

で、外と感じるものが刺激となって、自分の内にあるものに気付く。

 

ときおり、それは痛みとして感じられ、
それを、そこにそのままあるものとして感じられると、最適化する。
逆説的に、痛みはなくなる。

 

それを排除しようとしたり、切ったり貼ったり的に動かそうとすると、痛みは続く。

 

で、痛みがなくなれば、それは自分の中のそこの部分が稼働状態に入ったということで、それは本来の状態に戻るということ。

 

別に、外からのアプローチによって刷新された変化をしたわけでもない。
あ、これは、そういうことがありえないっていうことね。
そもそも。

 

つまり、横道それるが激しくなったが、
深度には、浅い・深いがある。

 

浅い深度は、日常の意識状態というか、左脳を使う仕事などで具体的なことに集中している状態のときが多い。

 

深い深度は、自分の内面の感覚。
それは体感でよい。
心理とかでないほうが、深くいけるはず。

 

その感覚を探っていっているところが、深い深度感覚。

 

で、その深いところと浅いところを、ただよう香りのように、風のように通るものがある。

 

また、深い深度に行くにも、ちゃんと変な方向へいかないためには、この香りのような風のようなものに意識を向ける。

 

それは、ファンタジー感覚と呼んでもよいと思う。

 

赤色を呼び起こそう、内面にある赤色に焦点をあてようと思ったら、赤いものを見てもよい。

 

が、見ずにそれをやる。
つまり、深い深度の赤色に意識を向けたくなったら、リアルな赤色を視覚的にイメージするだけだと、変なところに行く。

 

だから、赤、チューリップの赤い花の色を思い出して、その匂い的なものを感じて、脳みそがジーンとなつかしいような振動を起こす、みたいな。

 

もしくは、真っ赤な夕焼けを思い出して、
一日遊んだあとにそれを見たときの、ホタルノヒカリの音とともに、
なんともいえず脳みそが鎮まる感じと、遊んだ満足を覚えながら見ていた、あったかい感覚。

 

もしかしたら、そのあと家に帰って、用意してあるクリームシチューの匂いとかも結びついているかもしれない。

 

そういうのこそ、
つまり、そういうファンタジー的感覚と呼んだらよさそうなものこそが、

 

本当に全うな深い深度にいける要素として使えるし、
深い・浅いに関係なく、自由にただようように行き来できる乗り物だ。

 

ファンタジー感覚とは、

 

ときに、音楽になるし、
ときに、存在感になるし、
ときに、なんだろ、ただ生きている歓びになる。

 

感覚から始めることは、なぜ「核心」なのか

—— 子供・踊り・言葉、そして経営へ

 

 

 


感覚で自由にやりはじめるのは、
社会の規範や常識を理解してからですね。

——本当に、そうだろうか。

この言葉に、どこかで息苦しさを感じたことがある人は、
きっと少なくないと思う。

今日は、
「感覚から始める」という、ごく自然で、
しかし現代社会ではなぜか軽く扱われがちなやり方について、
少し丁寧に書いてみたい。


子供は、文法を知らずに言葉を話し始める

人は、生まれた瞬間から言葉を知っているわけではない。

意味も、文法も、正解も知らないまま、

  • リズム

  • 空気

  • 相手の反応

そういったものを感覚的に丸ごと受け取り
「何かを伝えたい」という衝動から、
声を出し始める。

最初は、ただの真似ごとだ。
でも、そこからぐいぐいと、
社会的に“通じる言葉”を獲得していく。

これは偶然ではない。

人間の学習は、もともと

感覚 → 生成 → 社会的フィードバック → 構造化

という順序で進むようにできている。

「理解してから話す」のではなく、
話そうとする感覚が先にある


北風小僧のかんたろうは、座標で踊っていなかった

ふと、幼稚園の頃の記憶を思い出した。

「北風小僧のかんたろう」の踊り。
大きな和傘のようなものをかぶり、
最後にピタッと決めて、拍手をもらう。

あのとき、誰も、

  • 腕の角度は何度か

  • 足さばきの正解ルートはどこか

  • 重心はどの座標に置くのか

なんて教えていない。

あるのは、

  • かんたろうって、こんな感じ

  • なりきってみよう

  • 最後、気持ちよく決めてみな

それだけ。

在り方を先に渡し、形は後から自然に立ち上がる。

舞踊も、演劇も、武道も、
本来はこの順番だったはずだ。


「理解してからやれ」は、社会のための応急処置

ここで誤解してほしくないのは、
マニュアルや画一性を否定したいわけではない、ということ。

  • 安全が最優先される現場

  • 品質を均一に保つ必要がある工程

  • 信頼を担保するためのルール

そういった場面では、
画一的な手順は、確かに必要だ。

ただし、それは――

人生全体のベースではなく、
一部のシーンで機能する方法

にすぎない。

部分の正義を、
全体に拡張してしまうと、
人は感覚を閉じてしまう。


感覚ベースが、なぜなめられるのか

感覚ベースのやり方は、

  • 言語化しにくい

  • 数値化しにくい

  • 権威で縛りにくい

だから、

「それ、感覚でしょ?」
「ちゃんと考えてるの?」
「根拠は?」

と、簡単に切り捨てられる。

でも本当は逆だ。

感覚ベースとは、
世界との整合がいちばん深い回路
でもある。

軽く見えるのは、
表層だけを見ているから。


経営も、実は同じ構造をしている

経営の世界でも、同じことが起きる。

  • 数字

  • KPI

  • フレームワーク

  • 正解事例

これらは確かに重要だ。

しかし、強い経営の多くは、

  • 「この事業、通るな」

  • 「この人、信頼できるな」

  • 「このタイミング、来てるな」

という感覚的な判断が、
最初にある。

構造は、その感覚を
再現可能にするために後から整えられる

順序が逆になると、
どこかで無理が出る。


感覚を信じる、という「普通」を回復する

感覚でやる、というと、
無責任・非論理・気分屋、
そんなレッテルを貼られがちだ。

でも実際は、

感覚 → 構造 → 洗練

この流れを自然に使えているだけ。

子供の頃、誰もが持っていた回路を、
大人の意識で、もう一度使い直しているだけだ。


おわりに

人生は、画一的ではない。

だからこそ、

  • まず感覚を信じる

  • その上で、必要な構造を使う

この順序を取り違えないことが、
実はとても大切なのだと思う。

感覚から始めることは、
逃げでも、甘えでもない。

一番核心を突いた、
人間らしいやり方
なのだから。
 

※このテーマは、経営や教育の話にもつながっていくので、また書きます。