程なくして、俺は4週間前にあの娘と訪れた喫茶店に到着した。ここへ来る途中何度も携帯で日付を確認した。間違いなく今日で合っているはず。時間も、あの日とちょうど同じ時刻だった。日時は問題なし。場所もここで間違いない。何も問題はないはずだった。だが、どうしても拭いきれない不安がある。今日ここに来るまでも、もっといえば何日も前から不安だった。果たして、吉川さんが来てくれるのかどうか。
来てくれと言ったのは確かに向こうだ。けど、だからといってそれは口約束だ。俺が約束を守ったとしても、相手が守ってくれるとは限らない。そんなことはこれまでの人生で嫌になるほど思い知っている。口約束なんて、相手の気が変わればすぐにでも反故にされるものだ。無論、彼女がそんな人間じゃないと信じたい。これまで接してきた中で見てきた彼女の性格、人柄からしても、人を裏切るような子には見えない。だから大丈夫なはずだった。それでも不安が消えない理由は、彼女ではなくむしろ俺の方に原因がある。俺は不安だった。彼女ともう会えなくなるのが怖い。そう感じる。たった数回会って話をしただけで、別にこれといって深い関係でもない彼女に会えなくなるのがどうして怖いかといえば、それは彼女とのつながりがなくなればもう俺の周りにまともな人間は一人も残らないからだ。残るのは、喪蛾のような醜悪で低俗で、いい歳してエロゲをやってるような最低の人間だけ。まともな人間とのつながりがなくなれば、俺もそれと同列になる。つまりはそいつの仲間入り。それだけは嫌だ。地獄行きを宣告されたに等しい絶望だ。だから俺は彼女に見捨てられたくないのだ。頼む、俺をそんなクズどもと同じゴミ溜めに送らないでくれ…そばにいてくれ吉川さん…そう祈りながら、俺は汗ばむ手で扉を開けた。
入ってすぐ、店内に彼女の姿を探す。…いた!一番奥の、窓際の席。そこにいたのは間違いなく彼女だった。ああよかった…ちゃんと来てくれていた。当然と言えば当然のことだが、それだけで俺はほっと胸を撫でおろす。来てくれたということは、まだ俺のことを少なくとも友人か知人の一人ぐらいには思ってくれているということだから。とりあえずそれだけでも安心した。ほっとしたところで改めてよく見ると、雑誌か何かだろうか、吉川さんは何か本を読んでいるようだった。俺は歩み寄って声をかける。
「お待たせしました、吉川さん」
「あ、櫻井さん」
彼女は本を閉じ、俺に笑顔を向ける。
「お久しぶりです、櫻井さん。あ、どうぞ掛けてください」
「あ、はい」
促されて俺は彼女の向かいに腰掛ける。そして適当に注文を済ませたところで、先に吉川さんが口を開いた。
「いつの間にか2月も終わって3月に入りましたが、まだまだ寒い日が続きますね」
「あ、はい、そうですね。早く暖かくなればいいんですが、ははは」
俺はひとまず無難な形で返した。またこうして彼女と会って話せたことはいい。しかし少し困ったことがあった。俺は今日、彼女に自分の今の現状について打ち明けようと思っていた。しかし、いざ本人を目の前にすると、どうやって話せばいいものかわからない。どうしたものか…
「ところで櫻井さん」
「は、はい」
まずい…考え込んで会話が途切れないようにしないと。
「失礼ですが、櫻井さんって大学は行かれてましたよね?」
大学…?もちろん通っていた。何を隠そう、俺は大学四年生を二回やったクチだった。つまりは留年だ。麻雀に打ち込みすぎて勉強なんてそっちのけだった…とは言えないが。
「はい、一応通っていました」
「つかぬ事をお聞きしますが、大学生の頃の春休みって何されていたか覚えてます?」
大学生の頃の春休み…?改めて聞かれると記憶が曖昧だった。というか、正直言うと何もしていなかったように思う。昼間はゲームをやって、夜は麻雀をやる。それもやらない日は何もやらずに寝ているだけの日も多かった。むしろそっちのほうが圧倒的多数だった気がする。
「ええと、家で過ごすことが多かったです。あんまりやることがなくて…」
「そうですよね。私も今春休みでやることがないからとりあえず家で勉強したり読書をしたり楽器に触ったりしています。友達は旅行に行ったりバイトをしたりしてますけど、それもなんだか気が進まなくて」
困ったように笑う吉川さん。まぁ、そんなもんだよな…学生のうちに旅行やバイトしとけって言われるけどあんまり気が向かなくて結局やらずじまいになることが多い。正直、そういうのめんどくさいんだよな…
「あ、私が楽器やってるって話しましたたっけ?」
「え?いえ、初めて聞きました」
「トランペット、って知ってます?金管楽器で、ラッパに似た形をしてて、大きさは手で運べるくらい。一応、楽譜なしで何曲か演奏できるんですよ。今日は持ってきてませんけど、いつか聞かせて差し上げますね」
「え、ええ楽しみにしてます」
彼女に合わせて、俺は愛想笑いを返す。正直なところ、音楽のことなんて何もわからない。ネットじゃフォークシンガーなんて名乗ってるが、実際は無職。人前で歌うことさえ苦手だ。それなのにブログで歌手だとかコンサートをやってるとか言って…なんだか後ろめたくて顔を伏せた。
「それで、櫻井さんは最近どうですか?」
「えっ…」
俺はビクッとして思わず顔を上げる。そこで俺の話題になるのか…
「ええと、そうですね…」
待て、ここは落ち着くんだ…向こうからこう聞いてくれたということは、良く考えれば今の俺の現状を話すチャンスでもある。けど、一体何から話そう…
「やっぱり、お仕事は決まりそうにない、といった感じですよね」
うっ…!あまりにストレートな言葉が胸に突き刺さる。女性に、しかも年下にこう言われると男として一層惨めになる。俺は何も言えず、ただ黙ってうなずくしかなかった。
「すいません、失礼なことを聞いてしまいましたね。櫻井さんは悪くないです。こういう時世ですから、それも致し方ないことです。私の先輩も、思うように就職活動が進まない方も少なくありませんし」
そこで俺は意を決して、本当のことを話すことに決めた。
「…実は今、生活保護を受けて暮らしているんです」
「生活保護、ですか」
吉川さんは少しはっとしたような表情を見せる。だが俺は構わずに続けた。
「…はい、生活保護を受けて、家で寝てばかりいます。酒を飲んで、たまに出かけるところはパチンコ店か雀荘です。そこでの勝ち負けに一喜一憂するだけの毎日。もう、今更普通の会社に戻るなんて無理なんです。俺はもう、頑張れない人間になってしまったんですよ…」
「そう、だったんですか…」
彼女は哀れむような顔で俺を見つめる。これでよかったんだろうか?今の現状を話すと決めてここへきて、実際に今話した。しかし話したところで何もなりはしなかった。かえって辛いだけ。やっぱり話すべきじゃなかったのか?余計なことは話さず、何か聞かれてもごまかしておけばよかったのだろうか?そうしようと思えばできたのかもしれない。けど俺は嫌だった。嘘をついて、ごまかして、本当の今の現状さえ話すことができない。それじゃ俺と彼女は友達ですらない、赤の他人同然じゃないか。
「でも」
少しの沈黙の後、吉川さんが言った。
「それでいいとは、思ってらっしゃらないんですよね?」
…思ってるわけない。俺は喪蛾とは違う。ギャンブルに明け暮れてのその日暮らし、毎月の支給日を待つだけの生活なんていいわけがない。それが一生続くとなればなおさらだった。
「でも、これ以外にどうしようもないんです。もう普通の会社に戻るなんて無理なんです」
「ええわかっています。私は櫻井さんに、普通の会社に戻れなんて言いませんから安心してください」
もちろん戻れと言われても戻る気はなかった。けど、じゃあどうすればいいのだろう?普通の会社に戻らないということであれば、結局今の生活を続ける以外にない。八方ふさがりじゃないか。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、彼女は黙り込んで何か考える仕草をする。一分、二分、三分、どのくらい経っただろう。どうせ考えたところでどうにもなるわけない、そんな無力感を感じてため息が出そうになったときだった。
「もし、頑張らなくても今の状況を変えられるとしたら、変えたいですか?」
そう、俺に聞いた。変えたいですかって、そりゃ変えられるもんならそうしたい。けど、それができないんだ。できることは全てした。けどどうしようもなかったんだ。変えられるとしたら、なんて意味のない仮定にすぎない。
「櫻井さんはもしかして、救いを必要としてるんじゃないですか?」
「救い…?」
彼女の言葉に俺ははっと息をのむ。救いを必要としている…?俺が?生まれてこの方、救いなど考えもしなかった俺が…?
「もし、櫻井さんが救いを必要としているなら」
そこで吉川さんは、何を思ったかおもむろに俺に向かって手を差し出す。
「私に、ついてきてくれませんか?」
…彼女が俺を救ってくれるというのか?こんな俺を?できるのか?そんなこと。彼女の目を見る。その目はどこまでも澄んで、とても嘘をついているようのは見えなかった。本当に彼女が救ってくれるとしたら、俺は救われてもいいのか…?俺は自らに問いかけた。ここまで俺はずっと頑張ってきた。けど自分ではどうしようもなかった。試行錯誤の末にここまできたが結局駄目だった。それなら…それならいいんじゃないのか?ここで救われても…
俺は、差し出された手を取ろうとした。しかし、その刹那、彼女の顔を見て思いとどまる。まだあどけなさの残る大学生の女の子…俺はこんな年下に助けを求めていいのか…?それは、自分がこの子よりも下だと認めることになる。そんなのは男としてのプライドが許さない。
「…少し、考えさせてください」
俺は出そうとした手を引っ込めた。落ちぶれたアウトローの俺に残された最後のプライドだった。
「わかりました」
そこで吉川さんは何か考える仕草をし、それから何やら鞄を漁り始めた。そしてメモ用紙のようなものを一枚ちぎって、筆記用具を持って何かを書き始める。
「これ、私の連絡先です。気が変わったら連絡ください」
そういって差し出した紙には、携帯の電話番号とメールアドレスが書かれていた。彼女の連絡先…俺は少し迷ったが受け取った。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ、今日はお付き合いいただいてありがとうございました。そろそろ暗くなりますし、これで失礼しますね」
それだけ言うと立ち上がって一礼し、吉川さんは去っていった。俺は黙ってその姿を見送る。本当にこれでよかったのだろうか…俺にだってプライドはある。いくら今の状況が望むものではないといっても、あんな年下の子の手助けは借りられない。だが、他に現状を打破できる方法がないことぐらい自分でわかっていた。自力ではどうにもできないからこんなことになってるのだ。ふと、俺は彼女に渡されたメモを見る。もし自分でなんとかできるというなら、この紙はいらない。今すぐ破り捨ててしまえばいい。だがそれはできなかった。ただ、物も言わずにメモを握りしめていることしかできなかった。