列伝~人類の歴史を彩る儚い軌跡~

列伝~人類の歴史を彩る儚い軌跡~

様々な理由から歴史に名を残した人物を、主観を交えながらご紹介します。簡単な紹介程度ですので、詳しく知りたい方はご自分でお調べ下さい。
歴史に興味を抱くことは、人間に興味を抱くことと同意語である。

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閔妃(ミンビ)1851年10月19日~1895年10月8日)
李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。韓国では明成皇后。

当時は「悪女」 現在は「聖人」と評される人物。

非常に頭がよいと評判だった閔妃は、15歳の時に王の実父である興宣大院君(以下、大院君)の夫人閔氏の推挙で王宮に入る。
閔妃は数年の後宮暮らしで、夫や大院君への様々な恨みを積み重ね、それらを排除し自らが実権を握るための地盤作りに力を注ぐ。
政治に深く介入するようになった閔妃は、1873年遂に大院君を王宮から追い出すことに成功する。
夫である高宗はもともと、愚昧な人物で酒と女に溺れる生活を続け政治には無関心。
そこで閔妃は、彼女の一族を積極的に登用し、実質的に王朝は閔妃が握ることとなった。
当時の朝鮮はといえば、世界的に帝国主義が席捲している時代。
朝鮮は、世界的にも独立国家とは認知されておらず、抵抗することも出来ずに飲み込まれてしまう程の儚い存在であった。
そこで、閔妃は日本に擦り寄り、ロシアに寄りかかり、清国に阿る多方面外交を展開し、朝鮮と自己の命脈を保つため様々な策謀を巡らす。
閔妃は、反対勢力により政権を奪われるが、更に奪い返すなど幾度かの大きな政変を繰り返すこととなる。
結局は、大院君を中心とした開化派武装組織が、王妃である閔妃の寝室に乱入し、侍女も含めた3人の女性を手あたり次第に斬殺した。
死体は王宮外の前庭に運び出し、積み上げた薪の上で石油をかけて焼き捨てられるという無残な最後だった。
朝鮮が親露に傾くことに危機感を持った日本の公使・三浦梧楼も閔妃暗殺事件への嫌疑がかけれ、日本は国際的に非難されるが、首謀と殺害に関しては証拠不十分し免訴・釈放となった。

2001年から韓国で放送されたドラマ「明成皇后」は、もちろんこの閔妃は主人公。
ドラマも話題を集め、聖人君子である閔妃の人気も更に高まったようである。

しかし、この閔妃の評価はどうも怪しそうだ。
李氏朝鮮時代の知識人も、この閔妃を挙って「悪女」と評していたようなのである。

というのも当時、世界最貧国クラスの朝鮮において、民衆の暮らしを顧みない散財で庶民を苦しめ、
美女がいると聞けば殺したり二目と見れない顔にしたりと悪逆非道な行いを繰り返し、
儒教文化圏である朝鮮で、義父を追放し、夫を蔑ろにしていたのだから、それも頷けるところだ。

まぁ、今更驚く程のことでもないのだが
このドラマ「明成皇后」の中で、閔妃を殺害したのは日本人と言うことになっているらしい。

つまり、恐らく閔妃の人気の高さとは反日思想のプロパガンダによるところが大きいのではないだろうか。

列伝~人類の歴史を彩る儚い軌跡~-嫌韓 李氏朝鮮

閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母
ジャネット・ランキン(1880年6月11日~1973年5月18日)/アメリカ
2度の世界大戦に毅然と“NO”を訴えた女傑

アメリカ合衆国、モンタナ州ミズーラの牧場主と教師の子として生まれジャネット。
モンタナ州立大学を卒業後、ニューヨークに移住。
その後シアトルのワシントン大学に入学し、初期の選挙権運動に参加。
1916年下院議員に共和党から出馬し、モンタナ州選出議員として当選。
しかし1年もしないうちにアメリカは第一次世界大戦へ。
参戦を決める議決において、彼女は他の55名とともに反対し、新聞等で非難された。
1918年には無所属候補として立候補したが落選。
その後約20年間、ワシントンD.C.でロビイスト(圧力団体の利益を政治に反映させるために、政党・議員・官僚などに働きかけることを専門とする人々)として活動。
そして1940年、ジャネットは再び政治の舞台を目指す。
反戦を政策に掲げ、再び下院議員に当選。
日本がアメリカに行った真珠湾攻撃の後に開かれた日本への宣戦布告を採決。
上院 賛成82、反対0、欠席15(採決に間に合わなかった為)
下院 賛成388、反対1、欠席41
アメリカの参戦が決まった。
上院・下院を通じてただ一人反対票を投じたジャネットは
「私は女なので戦争には行けません。ですから他人を戦場に送ることは拒否します。」
と発言した。
囂々たる非難の中、ボディーガードに守られたジャネットは議会を後にした。
もちろん、戦争に向かっている最中のアメリカ国中から起こるジャネットへの非難は大変なものであった。
またジェネットは、対ドイツ・イタリア宣戦布告の採決の際に
「インディアンの選抜徴兵反対法案」を提出し全米を敵に回した。
彼女はマハトマ・ガンジーの無抵抗主義に共鳴したアメリカ下院初の女性議員であり、
国政レベルにおいて投票で選ばれた世界初の女性議員である。
第二次世界大戦時の反対票を投じたジェネットを、カンザス州の地方紙「エンポリア・ガゼット」はこう評している。
「何という勇気ある行為であろうか。
今から100年後のこの国で、道徳的義憤に基づく勇気が、真の勇気が称えられる時、信念のために愚かしくも堂々と立ち上がったジャネット・ランキンの名前が、その業績の故ではなく、その行為故に記念の銅像に刻まれるであろう」
今ジャネット・ランキンはアメリカの良心として、モンタナ州州政庁の前に銅像と碑文が建てられている。
その碑文には
「私は戦争に行くことが出来ません」
そう刻まれている。

こんな話を考えるたびに思うことがある。
心ふるわせる美談と、実際の行動は直結しないのだと。

世界中で未だ戦争は無くなっていない。

反対票
アパッチ族の戦士ジェロニモ/ 本名:ゴヤスレイ
(1825年前後頃~1909年)/現アリゾナ州南部

アパッチ族の勇敢な戦士ジェロニモといえばインディアン(ネイティブアメリカン)の代名詞的な人物ではないだろうか。
本名はゴヤスレイ「あくびをする者」という意味であった。
彼が30歳の時にメキシコに暮していた彼等の集落をメキシコ軍軍隊が襲い、彼の母親と妻、3人の子供を虐殺。
怒りと復讐に燃えたジェロニモは数ヶ月後、大勢の仲間と共にメキシコ人の町を襲い、一躍勇名を馳せた。
猛り狂うジェロニモの勇猛果敢な戦い振りに恐れをなし たメキシコ人達が
「うわ~ジェロニモだ~!!」
と叫び、それ以来 彼は仲間内でも「ジェロニモ」と呼ばれるようになったとされている。
何故、メキシコ人が彼を見て「ジェロニモ」と叫んだのかは、はっきりしない。
一説によると聖ジェロームの加護を求めて「ジェローム」と避けんだ
のが、ジェロニモに聞こえたのだといういい伝えがある。

1848年、それまでメキシコの領土だった南西部は、アメリカ合衆国の支配する地となった。
やがて、合衆国政府は、アパッチ族をインディアン居留地に押し込めようとしたが、ジェロニモは仲間と共に自由を求めて居留地からの脱走を繰り返した。
ジェロニモと仲間達は旅人や、開拓者たちから、食料や毛布、馬、武器などを略奪しながら逃亡生活をつづけた。
その様子を新聞や雑誌が誇大に伝えた結果、アメリカ中に彼の名を知らしめる結果となった。
アメリカ兵はこの40人足らずのジェロニモ達に対して苦戦を強いられる。
そして3度の失敗を繰り返したあげく、4度目の追撃線では約5000人の兵士を動員したのである。
当時の新聞には「残忍で血に飢えたインデアン、ジェロニモがアメリカ軍に降伏」と大きく報じた。
収容所に移送されたジェロニモの元にシカゴの博物館から派遣された画家がやってきた。
アメリカ中の感心を集めた、野獣のような戦士ジェロニモの肖像を描くためである。
しかし画家はジェロニモに接し、イメージと大きく違うジェロニモの本性にとまどう。
画家は
「わたしには彼が野蛮なアパッチのリーダーにはとても見えなかった。
非常に気持ちのやさしい男だったからだ」と語ったという。
居留地でも冗談を言ってはまわりをなごませるジェロニモは
白人たちにも人気があったようでオクラホマ州フォート・シルにある彼の墓はアメリカ兵士たちの募金によってつくられたもので、どの部族の酋長の墓よりも大きかったという。

勇敢な戦士ジェロニモ。もし白人達の迫害がなければ、この世に名前を残す事も無かったかもしれない。少なくても勇敢な戦士としては…。

ジェロニモ
オーパーツとは『場ちがいの加工品』という意味を持つ過去の遺産。
オーパーツが作られたその時代の知識や技術レベルでは到底生み出すことの出来ないモノ、また作られた目的が不明とされるモノを指す言葉である。

有名なオーパーツといえば
■ピラミッド
■ナスカの地上絵
■水晶ドクロ
■黄金ジェット
■モアイ像
■ストーンヘンジ
などが分かりやすいだろう。

ロマンを掻き立てられる存在である。
しかし、そのオーパーツは多くの捏造品や神秘主義者らによる歪曲された解釈などによって、その価値をひどくおとしめられてもいる。
下記は捏造品(解釈の歪曲)とされるオーパーツ
■水晶ドクロ
■聖徳太子の地球儀
■ピリ・レイスの地図
■パレンケの石棺
■カブレラストーン
■アカンバロの恐竜土偶
などがある。というよりも偽物が大量にある。

神秘主義者や商売目的の捏造品によって、歴史の真実がねじ曲げられ、オーパーツ自体もオカルト的な扱いを受けている。
オーパーツだけでなく心霊現象・UFO・UMAなど全ての物事に対し私は思う。

神秘主義に陥ることなく、多くの偽物を排除し、その結果として見える真実こそがロマンなのだと。

最近はスピリチュアルなどが話題になっているが、個人的意見を言わせてもらえば
“かなり怪しい”
と感じる。
この世界に科学で説明できないことはない。などとは思わないが、
神霊を信じたい者と信じ込ませようとする者の会話はなんと滑稽なのだろうか。
精神の安定を図るためのカウンセリングと考えるならば、これ以上ない程の効果も期待できるだろうが、本物のロマンは感じない。

科学だけでは証明できない様々な問題に興味があるのなら、
神秘主義に陥ることなく、懐疑主義の姿勢こそが正しいのではないだろうか。

モアイ
雷電 爲右エ門(1767年~1825年)/日本

史上最強とよばれる怪物力士
現在の長野県に生まれ、少年期から巨体、怪力にまつわるさまざまな伝説が残る。やがて地元に巡業に来ていた江戸相撲の浦風林右衛門の目にとまり、彼とともに江戸へのぼる。
現在では考えられないが、雷電の初土俵はいきなりの関脇としてだった。期待度が相当大きかったのだろう。
そしてこの場所で8勝2預と現在でいう幕内最高優勝を果たす。
優勝に相当する成績を残すこと27回(異説もあり)、年2場所制の時代にこれを上回るものはついにあらわれず、現行の年6場所制となって以降でも大鵬(32回)と、千代の富士(31回)のわずか二人がいるのみである。
一場所で2敗することもなく、同じ相手に2度負けることも一人を除いてなかった。
しかし無類の強さを誇った雷電だが、番付は大関止まり。
ここまで強かった雷電が横綱になれなかったのは不思議でならない。
このミステリーに対して、いくつかの説もあるが有力な証拠もない事から答えは得られていない。
引退後は、1814年の大火で焼失した報土寺の鐘楼と釣鐘の再現に尽力するが、この鐘の形状などが幕府上役の不興を買い、江戸払いに処せられる。1819年には藩財政緊縮の流れの中で相撲頭取職を解任。
晩年は現在の千葉県佐倉市でながく暮らし、ここで亡くなった。
生涯勝率は驚異の9割6分2厘。
通算で喫した黒星がわずかに10コ。
横綱免許は受けなかったが富岡八幡宮の横綱力士碑に「無類力士」として顕彰されており、横綱と同列に扱われる場合もある。
永い相撲史の中でも一際輝く四股名「雷電」は、偉大すぎるが故に二度と使われる事はないかもしれない。

雷電
池田 亀太郎 (犯行日1908年3月22日)/日本

のぞき行為の代名詞になった悲運の男
出歯亀とは「のぞき」など、変態的なことをする男の蔑称である。
明治時代、植木職人をしていた亀太郎が
女湯をのぞいたうえ、入浴帰りの女性を襲った強姦致死事件の犯人」として無期刑を受けた。
この亀太郎、植木職人の仲間から「出っ歯の亀」と呼ばれていたのが語源となっている。
なぜこの「出歯亀」という言葉が、後世にまで残っているかというと、実は裁判で池田亀太郎は一貫して無実を訴え、弁護団も冤罪を主張して争ってい、
「出歯亀現象」と呼ばれるほどの話題となったからだという。
1908年(明治41年)3月22日夜。
現在の東京都新宿区大久保の空き地で、27歳の女性が口に手ぬぐいを押し込まれて窒息死しているのが発見された。
警察は性犯罪の前歴者などを次々に拘引して取り調べ。
事件発生後に取り調べを受けた嫌疑者は20人以上。
事件発生から15日目。
新宿署で取り調べを受けていた植木職の亀太郎が「惨殺の事実を自白」。
しかし裁判で亀太郎が「全く存じない事です。私は警視庁で刑事の圧制を蒙ったんで心にも無い事を云ったんです」と全面否認。
しかし渡された判決は再び無期徒刑。
亀太郎は再度上告したが、大審院は上告を棄却。
判決はそのまま確定し、亀太郎は服役した。
冤罪の可能性が有りながら、現在まで「のぞき」行為の代名詞として伝わる出歯亀。
この事実を知ると簡単使える言葉ではないと感じます。覗き
覗きの裏ワザ・禁ワザ (河出文庫)
クロード・モネ (1840~1926年)/フランス
「光の画家」と呼ばれた印象派の巨匠。
印象派とは自らが感じた印象を絵画に投影した画家達の総称。
モネは少年の頃から絵画に輝く才能を発揮していた。
しかしまだ無名のモネは、自分の作品を地元の文具店の店先に置いてもらっていた。
その作品が風景画家ウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、彼らは知り合うことになる。
ブーダンと出会ったことが、後の「光の画家」モネの生涯の方向を決定づけたと言われている。
モネは20歳頃、パリに出て、アカデミー・シュイスに学び、ここでピサロらと知り合う。2年間の兵役を経て1862年、グレールのアトリエに入り、ここではシスレー、バジール、ルノワールらと知り合っている。
1870年には普仏戦争を避けてロンドンへ赴くが、ここではイギリス風景画の第一人者ターナーを研究した。
1874年、パリで開催された第1回印象派展には『印象、日の出』を出品。
この作品が「印象派」という名称の由来となる。
モネといえば日本。
当時流行していたジャポネスクによって、モネは日本的な美に深く興味を抱く事になる。
着物を着た金髪の美女「ラ・ジャポネーズ」や「睡蓮」の連作は特に有名である。
ソフトな筆遣いと題材によって、優しいヒゲのおじさんというイメージだが、この人は意外と頑固者。
国に自分の「睡蓮」を寄贈したのだが、その時につけた条件は
1.展示室には「睡蓮」いがいの作品を展示しない
2.作品と観客との間に仕切りを設けない
3.作品の展示は自分(モネ)の死後に行う
など
しかも、作品の出来に納得できないモネは寄贈を取り止めようともしている。
が、すでにフランス政府が展示用に国家予算を割り当てていた事もあり、時の首相に窘められている。
印象派の巨匠モネは晩年、白内障を患い失明に近い状態にまでなってしまった。
その結果、写実主義から派生した印象主義のなかでも、さらに印象を重視せざるを得ない作品へとなっていった。
今でも彼が感じた様々な印象を我々は感じる事が出来る。

モネ
都井睦雄(1917~1938年)/日本
病気と偏見に悩まされた結果、1人の成年がおこした30人殺し。
時代は日中戦争。
惨劇の舞台はは岡山県との県境。
全戸数20戸、人口94人という小さな村であった。
当時は「夜這い」など性的に放縦な旧習が色濃く残る地域でもあった。
幼い頃かあら睦雄は病弱で家からあまり出ない子供であった。
病弱が原因で小学校入学も1年延期。
本人も入学を嫌がったが、1年遅れて入学すると、皆が驚くほどの成績を修めた。
両親を肺結核で早くに亡くし、祖母と姉との3人暮らしであった睦雄は、おばあちゃん子であり、お姉ちゃん子であった。
学校の出席日数も悪く、担任が心配になり家に行ってみると祖母と元気に遊んでいたという。祖母もそれを許していた。
卒業も間近、成績が良かった睦雄は祖母に進学の意思を伝えたが、姉も嫁に行ってしまう事もあり、反対され断念。
このことから睦雄は無気力な人間へと変貌していった。
1936年、この年に有名な「阿部定事件」があった。
睦雄はこの事件に大変興味を示したという。
肺病を患っていた睦雄は兵役を志願したもの、あえなく不合格。
しかも肺結核と宣告されてしまう。
幾人かと夜這いによって関係を持っていた睦雄だが、肺結核などの理由に関係を絶たれてしまう。
また素行の悪さから、疎まれる存在になっていった。
※当時、肺結核に対する特効薬なども発見されておらず、偏見や差別が強かった。
この頃から、狩猟目的で銃の所持免許をとり、他者を威圧する行為を取り始める。
また「みそ汁に毒を入れられた」との、祖母の訴えから警察の手入れに合う。
睦雄の部屋からは日本刀や銃弾等、大量な武器が発見され全て没収されてしまう。
この事で村の住人は安堵したが、睦雄は密かに新たな凶器を収集していた。
都井は親しい友人に、
「どうせ肺病で死ぬんじゃから、阿部定以上のどえらいことをやってやる」と漏らしていた。
睦雄は自分を邪魔者扱いする部落民を殺害しようと綿密な襲撃計画を立てていた。
1938年5月21日、午前1時40分。惨劇開演。
詰襟の学生服、頭には鉢巻きに巻き付けた懐中電灯、左腰には日本刀1振りと匕首2口、手には猛獣狩り用口径12番9連発に改造したブローニング猟銃を持ち、ポケットには実弾100発を入れ、弾薬、実弾100発を入れた雑嚢を左肩から右脇にかけた。
事前に電柱の送電線を切断し、村中から光を奪っていた。
最初の犠牲者は祖母の首を薪割り用の斧で切断した。
2人目は肉体関係を絶たれた女性。日本刀で胸と口内を突き刺した。
3.4人目はその隣で寝ていた子供2人。同じく日本刀でメッタ刺し。
その家の住人を皆殺しにすると、次の4人暮らしの家へ。
猟銃にて一家全滅。
4軒目4人家族。全滅。妊娠6ヶ月の女性の腹部を猟銃で撃ち抜くという凄惨。
この後も次々家を廻って、住人を殺し歩いた。
最後は肉体関係を持っていた女性とその夫。
猟銃を7発撃って夫婦もろとも殺している。
被害者は、死亡者30人(即死28人、重傷を負い、のちに死亡した者2人)、重傷者1人、軽傷者2人の計33人。
役1時間半の地獄。
この後、睦雄は猟銃を手に取ると自らの心臓部を打ち抜いた。
側には犯行に使われた凶器と遺書が置かれていた。
自宅からも2通の遺書が見つかっている。
内容は家族への想いと、社会・村人への恨み。
また、殺さなければならない人間を殺せず、殺さなくてもよい人間を殺してしまったと嘆いている。
こうして、戦後日本史に残る凄惨な事件は幕を閉じた。
この事件をモデルに横溝正史が『八つ墓村』を書いている。

八つ墓村
津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇 (新潮OH!文庫)
サラ・ウィンチェスター(1840年~1922年)/アメリカ
アメリカのコネチカット州ニューヘブンで生まれ育ったサラ・パーディは成長するにつれて、町でも評判の美女と呼ばれるようになった。
そしてライフル銃メーカーの御曹司ウィリアム・ウィンチェスターと知り合うことになり、1862年に結婚。
4年後には娘のアニーが生まれた。
だがその子は生後6週間にして奇病で亡くなる。
さらに1881年には夫のウィリアムも結核で他界してしまった。
意気消沈したサラが、ボストンの霊媒師を訪ねていくと、
霊媒師は夫と娘が亡くなったのは、ウィンチェスター・ライフルによって殺された人々の霊が取りついたからだと告げられる。
さらにつづけて霊媒師は次のように言った
「あなたが生きつづけるにはこの屋敷の増築をつづけていかなければならない」
ウィンチェスター家はオリバー・ウィンチェスターが、南北戦争で使われていたライフル銃を改良して特許を取得、それまで一発ずつ込めていた弾丸を13連発にした。
そのライフル銃を全米に売り込んだのが息子のウィリアムだったのだ。
当然、殺傷力の上がった銃でより多くの人が傷つき死んでいった。
このような事情からかサラはそのお告げを真に受けてしまう。
1884年から1922年、82歳で亡くなるまでの38年間。
1日も休むことなく家の増築がつづけられることになる。
部屋数は160部屋。
窓の数10,000。
ドアの数は2,000。
天窓数 52。
暖炉数47。
寝室数40。
階段数42。
浴室数13。
台所数6。
地下室2つ。
シャワー1つ。
という巨大な屋敷が出来上がった。
開けると壁になっているドア、
どこにつづいているか分からない階段、
天井につづく階段、
交霊を行なったといわれる部屋など、
実に奇妙な構造が連なっている。
どうやら怨霊たちを迷わせるための迷路を意識した造りになっているようだ。
その甲斐あってかサラは長寿を全うした。
端から見れば馬鹿らしいとも思えるこの行為。
しかしこの増改築だけが、サラの恐怖と不安を和らげる唯一の方法だったのだろう。
恐怖とは凄まじい原動力となり得るのだ。

幽霊屋敷
戦慄!世界の心霊・恐怖画像 (晋遊舎ムック) (晋遊舎ムック)
ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフ(1859年~1917年)/ポーランド
一人で世界語「エスペラント」を作り出した理想高き言語学者。
ユダヤ人の眼科医・言語学者で、現在のところ最も広く使われている人工言語、エスペラントの創案者。
ザメンホフは1859年当時、帝政ロシアの一部であったポーランドのビャウィストクで生まれた。
彼の母語はロシア語だが、ポーランド語、ドイツ語も流暢に話し、後にはフランス語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語も学んだ。さらに彼はイディッシュ語、イタリア語、スペイン語、リトアニア語にも興味を持っていた。
ザメンホフが暮らした町では、それぞれの言語によるいくつかのコミュニティーができあがっており、トラブルが絶えない状況であった。
ザメンホフは憎しみや偏見の主な原因が、民族的・言語的な問題から起こっていると考え、それらを解決するには、民族や言語に依存しない新たな言語が必要であると考えた。
ワルシャワの中等学校に通いながら、彼はある種の国際語を作ろうと試み、28歳で「エスペラント(希望する人)博士. 国際語. 序文と完全なテキスト」)と題された著書を発表する。ザメンホフにとってこの言語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、異なる人々や文化の平和的な共存という彼の理念を広げる手段でもあった。
ザメンホフは当初、ラテン語の復権こそが平和的言語の近道と考えていたが、ラテン語は難解であり、簡単な英語的文法こそが最良と考えた。
彼は1917年にワルシャワで亡くなったが、エスペラント語は生きていた。
1905年には最初の世界大会の開催。
このときは33の国から688人が参加した。
ひとつの調査では現在世界中で160万人の人がエスペラントを使いこなすことが出来るという。
ザメンホフはそれぞれの国の母国語に替わってエスペラントの使用を推奨したわけではなく、他言語者同士の対話で、どの国の言語にも依存しないエスペラントを使用することで、公平で平和的な人間関係を築こうと考えた。
世界中の人がエスペラントで対話することの出来る時がくれば、もしかしたら差別や戦争は根絶されるのかもしれない。
平和な世界は遙か彼方に。

エスペラント