大野先生が事前に伝えてくれているため、私の入部は化学部の全員が知っている。だから、部外者を見る目で見られることはないのだが、それでも、化学室に入るのは緊張した。ドアを開けて化学室に入ってからも体のあちこちが凝り固まっている感じがした。
目の前の風景で、私はなおさら憂鬱になった。何しろ、部員が部員に授業をしていたからだ。黒板に書かれた内容は、私の知っている範囲では到底追いつけるはずがなく、同じ日本語を呼んでいるようには思えなかった。それだけで、もうくじけそうだった。いつも部活は運動で汗を流す場所だと思い、そこが好きだった私にとって、部活で勉強、それも嫌いなところをやるなんて、考えられなかった。
でも、半強制的だったとはいえ、こうしたのは私の意志だ。やるしかない、そう思った。まずは、誰かに声を書けなくちゃと思い、私は誰か知っている人がいないか探した。化學部には、中3の部員が3人いたはずだ。
まず、生徒側の席で熱心にノートを取っている1人に目が行った。彼女は、日下 奈美(くさか なみ)だ。うちの学年の女子では最も成績がよく、勉強も大好きという、典型的な優等生タイプだ。とても落ち着いており、言葉も常に人への配慮を忘れない、とてもいい人なのだが、それに甘えてせっかくの勉強の邪魔をするのは申し訳ないと思った。
また、教壇の上、普段の授業では先生のポジションになっているところでは、伊達 陽斗が授業を進めていた。彼もまた成績優秀で学年1位の常連、クラスの委員長も毎年務めるような人だ。化学部の副部長もやっており、部活内の授業計画は彼によって練られているらしい。この前聞いた話では、部員に3時間のテスト問題をぶっ通しで解かせたらしい。それくらい授業にこだわっているということなのだろう。授業を邪魔したら怒りそうだと思ったので、彼に声をかけるのもやめた。
他に、声をかけられそうな人はいないだろうか?私は入口の近くで途方に暮れていた。すると、部屋の奥にある扉を開けて出てきた部員がいた。
「誰か来た?あっ、瀧川じゃん!いらっしゃい!」
彼が中3の部員のもう1人、影山 修だ。彼は、伊達と学年1位を取り合っている成績で、その上、伊達と同様クラスの委員長も務めている。さらに、通常高1で就任する化學部の部長に中3でなり、その後崩壊寸前だった化学部を改変して、現在の整然とした部に変えたと聞いたことがある。ところが、彼の話し方からも分かりように、そのような評判と裏腹に実際の性格はかなりくだけているのだ。
ここまで聞けばわかるように、化学部という部活は、少なくとも中3に関しては、この学年のトップの集まるオソロシイ部であるというわけだ。その上、影山と伊達は、交代でこの学校に不在の化学教師の代わりに生徒に授業をしているのだから、なおすごい。本来おかしいことで、なぜこれがまかり通っているのかよくわからないが、それで今まで成り立たせている彼らの手腕には化学嫌いの私さえ感服する。むしろ、学年の化学の成績は先生が教えていたときよりもいいらしい。大野先生に彼らの名前を出されて、何も言えなくなってしまったのは、彼らのそういうところを知っていたからだ。もしかしたら、この人たちの近くにいたら変われるかも、そう思ったのも事実なのだ。
影山は話を続けた。
「大野先生から話は聞いてたけど、来てくれたんだ。」
「まあ、私が決めたことだしね。」
「うちみたいな部にそう言ってくれるなんてうれしいな。だったら話は早いね。いきなりだけど、化学部について説明していこうか。」
そう言って彼は化学部に関する様々な事を教えてくれた。薬品・器具の場所、活動日、挙句の果てには顧問の大野先生の機嫌の見分け方まで教えてくれた。
「あっ、忘れてた。」
最後に、影山は付け足すように言った。
「授業はしばらくの間受けないでいいよ。というか、受けない方がいいと思う。」
意外だった。今まで、化学部といえばガリガリ勉強させられる部というイメージを持っていた。だから、部長が授業を受けない方がいいなんてことを言うとは夢にも思わなかった。だから、
「なんで?化学部の目的って、化学を勉強することじゃないの?」
と思わず聞き返してしまった。
「授業みたいなことはどこでも出来るじゃん。それ以外にも勉強の方法ってのはあるもんだよ。まあ、今日は1日目だし、まだ慣れてないだろうから、ゆっくりしていって。何かわからないことあったらいつでも聞いてね。今授業中で他の人には聞きづらいでしょ?」
彼は見惚れるような屈託のない笑みを浮かべてこう言ってから、奥の部屋に引っ込んでいった。それに惚れてる人がいるってこと、気づいてないんだろうな。
影山にはゆっくりしていいと言われたものの、部活の時間はまだ1時間ほどあって、何もしないのでは暇だった。そういえば、影山が、最初のうちは実験ばっかりやって勉強なんかしてなかったなんて言ってたっけ。正直、普段なら面倒臭いと思うのだが、暇つぶしがてらに実験でもしようと思った。影山に実験がしたいと言うと、実験ばかり書かれた本を数冊渡されて、
「好きなのを選んでやったらいいよ。薬品は薬品庫から自分で持ち出していいから。手伝ってほしいことがあったらいつでも言ってね。」
と言われた。手伝ってほしいことがあったら言ってねとは言うけど、私は初心者なのに一緒にやろうとは言わなかった。単に気が利かないのか、その辺は厳しいのか、とりあえず一人でやるほかなさそうだった。
(第3話 に続く)
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