小学校に入ったときから、私は理科という科目が大嫌いだった。国語は読み書き、算数は計算、社会は社会の仕組み(特に税金とか)、大人になってからの生活に直結するものばかりだ。理科は?何が大人になってから大事なのだろう?生物だけは日常的に接するものという意味で、まだ許せる範囲だったが、化学、物理は本当に嫌だった。大人になってから、いつ鉄球を投げてその飛距離を測るのだろう?いつ、塩酸に鉄なんて入れるのだろう?私には、意味のないことにしか見えなかった。だから、理科だけは嫌いだったし、どうも得意になれなかった。

 それは中学校に入ってからも一緒だった。さっき言ったように生物は許せる範囲だったので、理科の第2分野は得意だが、相変わらず第1分野は私の苦手科目だ。

 だから、放課後に自分でこの校舎に行く日が来るとは思わなかった。目の前にそびえ立つ白い校舎は、理科棟と言われている。その名の通り、物理、生物、化学、地学の教室を集めた4階建ての棟だ。校舎の横にある階段を私は上る。よりによって、目指す教室は4階なのだから、なおさら恨めしい。1月の北風が私の体温を奪っていく。どうして、こんなしんどい思いをしてまで階段を上らなくてはいけないのだろう。そう思いながら、息を切らして上るうちに、階段が途切れた。やっと最上階に着いたようだ。他の階の汚い理科教室と不釣合いにきれいな教室だった。ドアはピカピカに磨きあげられて1つのへこみもない。ドアにはめられたすりガラスに、よごれは一点もない。そして、ドアには毛筆で文字が書かれた木札がかかっていた。木札には「化学部」と書かれていた。


 そもそも、なぜ私がこんなことをしているのか。その発端は先月のことである。

 先月、つまり12月の下旬、冬休みのことである。うちの学校では冬休み恒例の二者面談があり、当然私もそれに行くことになった。

 担任の大野先生から、成績について話された。

「え~と、瀧川さんの成績は、学年順位も上の方で、おおむねいいと思うんだ。ただ、やっぱり理科の第1分野がずば抜けて悪いね。これが最下位を取っちゃってるでしょ。そのせいで順位が大きく下げられてるんだ。」

ここまではいつも言われていることだ。もう言われ過ぎて耳にタコができるくらいだ。

「瀧川は○○大学に行きたいんだよね。」

「はい。」

「君ももうすぐ高校生だし、それにここ中高一貫だから、そろそろ大学受験についても考えていかなくちゃいけないなと思うんだ。」

「はい、それなりに考えているつもりですが。文系に行きたいんだし、文系科目は全部○○大学に届くよう努力してますし、実際そうなってると思うんですけど。」

「それはいい心がけだと思うよ。でもね、この成績だと、いくら文系を取ったとしてもセンターで大きく足を引っ張ることになるから、○○大学はきついと思うんだよね。」

先生は軽く流すように言ったが、私にとってはかなりショックな一言だった。そもそも、同級生たちが遊んでいる間に受験勉強をしてまでこの中学校に入ったのは、そこへ行くためだったのだから。

「先生!どうにかなりませんか?私、○○大学に絶対行きたいんです。それが昔からの目標なんです!」

どこかの大学に行きたいからこの中学校に入りました、という人はこの学校ではそこまで珍しいものでもなく、だから、私もそのことを普通に言ったつもりだった。だが、半ば話し方が食い気味だったのだろうか、先生は引いていた。

「すみません。」

「いや、いいんだ。君のそういう気持ちは当然だと思うし。その気持ちはくんであげたいと思うよ。」

「本当ですか?」

「ああ。だけど、君の場合、状況はかなり深刻だからね。普通のやり方じゃきついかもね。」

普通、うちの学校では希望者に補習を用意している場合が多い。ただし、補習は朝か放課後にやるので、時間はとれて1時間である。

「先生の補習を受けるだけでは、もう追いつけないということですか?」

言い忘れたが、大野先生は物理の先生だ。

「まあ、物理は俺がどうにかできるだろうけど、化学はなあ…」

先生はとても言いづらそうに言った。うちには化学専門の先生がいないのだから仕方ない。だから、私もこれ以上何も言えなかった。正直、泣きそうだった。先生が次の一言を言わなかったら本当に泣いていたかも知れない。

「ただ、君が本気で変わりたいなら、1つ、方法があるよ。」

「何ですか!教えてください!」

ラッキー。心の中でそう叫んだ。出そうだった涙が一気に引っ込んだ。ここで墓穴を掘ったことも知らずに。

「ちょっと荒療治だけど構わない?」

「全然です。お願いですから教えてください!」

「化学部に入ってみない?」

先生がそう言ったあと、私は開いた口がふさがらなかった。期待した自分が馬鹿だった。ここに来て自分の部の勧誘をしだしたのだから。

「先生、いくら私にやりようがないからってからかうことないでしょう?」

「いや、化学部で君は変わる。それは断言してもいい。」

「何でですか?」

「影山と伊達は知ってるだろ?」

先生が出した二人の生徒は、影山 修と、伊達 陽斗(だて はると)。どちらも同級生の化学部員である。

「知ってますけど。それで?」

「なら、2人の力は分かっているはずだ。」

そう言われると、私は納得せざるを得なかった。それくらい2人の存在は説得力となった。

「ですが、私、もうダンス部に入ってるんです。今更抜けるなんて言えません。」

「その辺は俺が処理しとくから、安心して行ってこい!」

先生はそう笑顔で言った。ただ、先生が処理するって解決になってないんですけど…。

 でも、結局先生の勢いで、私は進学を人質に化学部に半強制的に入れられることになったわけだ。所属していたダンス部は一時的に休むという扱いで、1年間化学部に入ることとなった。


 今日はその部活の初日だ。これから年末までずっと放課後、嫌いな化学をやり続けないといけないんだと想像しただけで憂鬱になった。だけど、私は変わらなくちゃいけない。それは確かだった。意を決して金属でできたその扉を引く。きれいな外見に反して油を満足に差していないのだろうか、大きく軋んでドアは開いた。これが、1年に及ぶ私の化学部員としての生活の始まりだった。


第2話 に続く)


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