こんにちは。
ぶどうさんです。
ご訪問ありがとうございます。
今朝、目覚まし時計を無意識に止めたようで。
寝坊しました。
1回どころか2回もとめてしまったとは。
久しぶりの大失敗でした。とほほ。
少し涼しくなりましたね。お元気にお過ごしくださいませ。
本日、ともだちのお話です。
ママ友ってなんだろう。
現在世間で騒がれている事件や、ネットのゴシップ系の漫画や記事で「ママ友」という文字を見ない日はないくらいだ。
ママ友の定義なんてあるんだろうか。
調べてみたら、ママ友とは、「子供の友達のママ」らしい。
さらに言うと。
ママ自身の友達ではなく、関係の中心にあるのは子供であるらしい。
らしいばっかりだが、仕方がない。
ぶどうさんは子供がいないからママじゃないし、ママ友なんていないからだ。
よってママ友の関係に悩むことなどなかったし、これからも必要がない。
とはいえ、野次馬根性は強いぶどうさんのこと、ママ友がらみの記事があれば食いついてしまう。
非日常を覗き見ている感じでちょっと面白くもあるし、めんどくさい関係だなあと思えないでもないその関係性。
それらを見て気が付いたのは、これって、昔からあったことでもあるということだ。
子供を持つ母親同士の付き合いは、ご近所付き合いの一環として存在していた。
昭和の頃は子供の数が多かったし、学校や町内会での子供がらみの行事があり、親が一緒になって頑張っていた。
また近所同士で子育てを手伝っていたので、そういう場合その家の中に他人の手が入ってくることもあった。
でも、あくまでもご近所さんだった。
○○君のお母さんと△△さんのお母さん同士は、知り合いだけど、ご近所だけど、しかし今言うママ友的な感じではなかった。
あくまで、子供の親同士。
関係の中心は、子供だった。
そう思うと、ママ友ではあるけど、昭和の頃は本来のママ友関係であったと言える。
どうして意味合いが違ってきたのだろう。
核家族化がよりすすみ、個々の生活の境界線がよりはっきりしてきたからだろうか。
それとも。昔の人の方が今の人より大人だったのだろうか。
つまり精神年齢が上だった?
今は大半の人が20歳過ぎまで教育を受け、社会に出るのも結婚するのも遅くなったが、それでも親は健在だしまだまだ元気で現役世代。
この国で長生きは当たり前になったせいか、親となる人は誰かの子供のまま親になれるようになった。
すべての人がそうとは言えないが、その違いだろうか。
昭和の頃は子供の数が2人以上は当たり前、3~4人くらいはおり、そうなると子供の年が違うせいで特定の人ばかりと付き合うことがなかったというのはあるかもしれない。
また意外に家庭同士の境界線があいまいであり、色んな人とお付き合いせざるをえなかったせいもあるかもしれない。
なんにせよ、このところトラブルの目立つママ友という言葉が、プラスの意味合いで使われていないなあと感じるのはぶどうさんだけであろうか。
また、友だちとママ友は違うと認識されているのも気になる。
確かに、違うものだ。それで正解!
違うほうがいいのだけど、子供同士が友だちだからママ友で、嫌だけど付き合わなきゃという義務感しかないのが気になる。
だったらただの知り合い、じゃ、だめなのだろうか。
ただの知り合いだったら、ドライでいられるし。
なかには、ママ友として知り合って本当の友達になる人もいるだろうし、ママ友の存在がありがたいという人だっているだろう。
それならそれでいいと思うし、もうそれは、ママ友ではなくて、友達だ。
ママ友のいないぶどうさんがあれこれ言うことじゃないけど、なんにでも「友」をつけると友達だという勘違いマジックにつかまっているのではないだろか。
友達って、いると嬉しいし誇らしい。
いないと、寂しいし、哀れと感じている人もいるだろう。
でも、友達は、子供の頃には簡単にできたけど大人になっては難しい。
難しいけど、気が付いたらいるかもしれない。
だから、焦らず、本当の友達を持てる自分自身になり、その友を待ってみてはいかがだろう。
友達に選ばれるのを待つのではなく、友達を選ぶことも大切だ。
これは傲慢な意味ではない。
お互い精神的に、経済的に自立した個人であることは大前提であるし、互いにその関係を保てないと、依存と支配関係になってしまう。
気持ちのいい関係とは程遠く、友と言えるのかわからなくなっては意味がない。
ここ数年、今で言うママ友という言葉を聞かない日はない。
この言葉、いつまで続くことだろう。
こんなにマイナスに傾いた言葉そろそろいらないのでは。
ともだちというタイトルで、書くことにしたとき、ふと以前も書いたなあと思い出したので、自身のブログを検索してみた。
数年あけて書いた文だが、基本あんまり変わっていないのだなあと気が付いた。
これって、成長してないってことだろうか。
微妙な気持ちになったぶどうであった。