こんにちは。

 

ぶどうさんです。

 

ご訪問ありがとうございます。

 

今夏初スイカを買いました。

 

期待してはいなかったのですが、意外や甘い。

 

元気になるたべものを食べて、夏を乗り切りましょう!

 

本日老後の準備のお話です。

 

 

50台半ば夫婦二人暮らしのぶどうさんち。

 

子供はいない。

 

若い頃からぼんやりと老い先のことを考えてはいたが、50を過ぎてからより切実に考えるようになってきた。

 

夫婦二人、年取ったらどうしようか。

 

その前に年をとるまでどうしようかの問題がくるんだけど、そこはひっくるめて。

 

夫は、どちらが先に逝くかなあと口にするようにもなった。

 

いや、まだ死なないから!

 

100歳まで生きるんだし。まだ40年以上残っているぞ。

 

と茶化すものの、ある程度の決め事を70歳までにはしておかないといけない。

 

ぶどうさんちは簡単だ。

 

子供がいないから、誰にも頼れない。

 

誰かをアテにすることができないから、ギリギリまで自宅で自立して生活をし、介護が必要になったとき施設にお世話になるしかない。

 

だからこそ、終の棲家探しは真剣で、かつ家の作りやコスト(購入や維持費)を慎重に見定めているのである。

 

もちろん、死後にもお金はかかる。

 

だから死後の契約もいろいろと考えないといけない。

 

最後に頼れるのはお金だけだから、お金はとても大事だ。

 

以上、とてもよく考えられているようだけど、漠然としているのは否めない。

 

アウトラインしか考えていないと言ってもいい。

 

実はぶどうさんには祖父母がいない。

 

だから、老人になるということがよくわからない部分がある。

 

身近に年寄りを経験したのは、自分の両親くらいだ。

 

両親は長生きで(母はまだ生きている)結構な年齢まで活動したが、ある時からパタッと身動きが取れなくなった。

 

寿命と健康寿命の違いとでもいうのか、寿命まで元気はつらピンピンコロリではなかった。

 

両親はそんなつもりはなかろうが、年をとったらどうなるかを良きにつけ悪しきにつけ教えてもらった気がする。

 

親ってありがたい。

 

ぶどうさんの親は晩婚で、かつ長生きであったので、父親が亡くなったとき子供はみな50を過ぎていた。

 

子供たちは遠方に住んでいたので、結局故郷の病院や施設に親をお願いした。

 

お見舞いには行ったけれど、そして各種手続きやお金管理や支払はやったが、介護らしいことは全くしていない。

 

つまり介護は、誰もしていないのである。

 

父は昔から子供の世話にはならないと言っていたが、まあその通りになったのである。

 

親が晩婚で長生きだったため、だれも介護離職などの危機にさらされることはなかった。

 

親って本当にありがたい。

 

ところで。最近よんだウェブコミックや、コラムで気になることがあった。

 

ヤングケアラーのことである。

 

70台の祖父母(まだ70台ですよ。若すぎる・・・)の面倒を親は仕事で見れないから孫がするというもの。

 

祖父母は施設は絶対に嫌だから家にいたいという。

 

家で暮らすには、誰かの助けが必要というので、孫が駆り出される‥そんな感じ。

 

設定から考えるに、祖父母70台なら親は50前後。

 

すると、孫にあたるのは10台か20~30歳くらい。

 

親は仕事をやめられないから、時間に融通の利く学生か就職していない孫にさせるのだろうか?

 

介護離職は、当人や家庭にとって損失が大きく、かつ社会的損失である。

 

介護のためだけに介護離職すべきではないと思う。

 

もっと他の方法がないか、一人で抱え込まず他者のアドバイスを受けながら熟考してほしい。

 

でも、それだったら、孫にさせていいものかというと、かなり疑問だ。

 

若い彼らが祖父母のくらしを補助するくらいはいいかもしれない。

 

家族として当然だ。

 

でも未来に向かっている若者の、大切な時期を摘み取るようなことになることは、絶対に避けなければならない。

 

老親の面倒や介護は、やさしい人、責任感のある人、押し付けられていやと言えない人がやることになる。

 

こう書くと介護って面倒くさいことのような、家族や社会悪のように聞こえるが、そういう意味ではない。

 

誰しも年をとるし、他人の助けが必要になる。

 

当たり前だ。恥じることではないし、家族か、誰かが助けるのも当然。

 

それなのに、家族の、立場の弱い誰か一人だけ抱え込むのはおかしい。

 

そもそも。

 

年をとるとどうなっていくのかわかり切ったことなのに、なぜ祖父母は自分の未来の準備を怠っていたのだろう。

 

それなのに、施設に行くのは嫌という。

 

気持ちはわかる。

 

それなら自宅で暮らすための工夫や知恵を自分たちでやって、誰かの負担を減らす努力をしているのだろうか。

 

自分の未来を決める決定権も責任も自分にあるのに、現実をみずただ放り出して甘えているだけと言われても仕方がない。

 

他方、祖父母である親を説得をするのが面倒だから、孫にあたる子供に介護を押し付けてその子の未来を奪う親ってなんだろう。

 

結局親の方も、その親(祖父母)や自分たち(親)の未来への準備を怠っているということになる。

 

未来のことは、誰にも分らない。

 

分からないけど、年をとること、死ぬことは必ず訪れる人間の定めだ。

 

周到過ぎる準備は無駄だが、ある程度の心づもりを皆がするべきと思う。

 

老後どうするか、健康を損なったときどうするか。

 

それ以上に大事なのことがある。

 

さいごまで自立して自力で生きるために日々を健康に過ごし、情報を集めて吟味し対応力をつけていくこと。

 

思うようにはいかない人生だが、より良い方向へ行くための努力はできる。

 

それが老後の準備となり、自分も他者も助けることになるのではないかと思う。

 

老後の準備となるとやれ公の機関がたりないのどうのとなるが、まずは自分づくり。

 

心と体、脳みその健康を保つ自助努力をすることは不可欠である。

 

人生100年時代。

 

みんなが自分らしく生きられるよう、幸せを感じながら暮らせるように。

 

今からでも遅くはない。

 

しっかりと老後の準備とやらをしておきましょう!