こんにちは。
ぶどうさんです。
今日は七夕ですね。
集会所前に七夕飾りがありました。
どんなお願いをされたのでしょうね。
今晩お素麵はいかがですか。
素敵な夜をお過ごしくださいませ。
初めてリブログ機能を使ってみました。
なるほどー、こう入るのですね。
本日、ギロックのお話です。
7月に入ったばかりのある日。
アメブロにログインしたところ、フォロー記事のタイトルを見て驚いた。
並んだ二つの記事のどちらにも、ギロックの名前がある。
ギロック。
懐かしい名前だなあと思いながら記事を開くと、取り上げられている理由が分かった。
7月1日は、ウィリアムギロックの生誕日らしい。
この方、ピアノを弾いている方はご存じと思うが、アメリカのピアノの先生であり作曲家らしい。
らしい、というのは、あんまり詳しくないから。
主に子供向けのピアノ作品集を作ったかただ。
1917年生まれで今年生誕105年、1993年になくなっているので、来年が没後30年。
ぶどうさんが子供の頃は、この方の曲集なんてなかった。たぶん。
1991年に抒情小曲集の改訂版が日本で出版されたので、全くかすっていない。
大人になってから再開したときには、普通にツェルニー、ソナチネなんてやっていたので弾くことはなかった。
ギロックを知ったのは、数年後にたまたま知り合った、大人になってからピアノを始めた方が弾いていたから。
その時初めてギロックを知り、ピアノが楽しく続けられそうな曲集を最初からもらえるなんて羨ましいと思った。
当時普通にピアノを弾けるようになりたい(実は別の思惑があったのだが、それはまた今度)と再開したピアノだったので、何の迷いもなくザ・教材を選んでいたからだ。
ツェルニーやソナタ、インベンションはさほど楽しくなかった。
ただ、当時のその選択は間違いではなかったと思う。
ぶどうさんは、ただ進みたい、前進したい!派であり、有名大曲をいつか弾こうという気持ちはなかったからである。
そのせいで、後々自分を見失うことにもなるのだが。
話をギロックに戻そう。
ギロックを知ったはいいが、しかし弾くことはなかった。
なぜなら、ギロックを得意にしている人を目の前に、同じ曲を弾く度胸はなかったからである。
ギロックは、あの方の十八番。そう決めて、封印。
それからすっかりギロックのことは忘れていた。
時は流れ、去年からピアノを再々開しピアノ関係のブログをフォローするようになったおかげか再びギロックの名を目にすることになった。
そういえば、楽譜はあったような・・・???と、本棚に行くと、断捨離を逃れひっそりと残されていた。
全く記憶にないのだが、抒情小曲集だけは手に入れており、何曲か弾いていたようだった。
弾いてみると、なるほど、素敵な曲だ。
それから興味が沸き、ギロックについて調べてみた。
そして、ほとんどがよい評価ではあるが、一部賛否両論的なものも見受けられた。
言い方は悪いがパクりだ、という人がいる一方、ピアノの導入のためにフレーズを用いているという人もいるようだ。
また、聞きごたえがあり、楽しく練習できるが、初心者や子供のレッスン継続への逃げ道的な使い方をされているという指摘も。
ぶどうさんは音楽教育はわからないし、音楽のことも詳しくないから意見を言うのはおこがましが。
楽しく学べかつ弾けて、音楽を続けようという気持ちになることは大事なことだと思う。
2度もピアノをやめたからこそ言えることだ。(やめた理由は楽しくないから、ではないが)
また、ぶどうさんは人にピアノが弾けますなんて言えない。
弾ける曲がないからだ。
すぐに弾けるのは、今やっているツェルニーくらいだ。(しかも出来栄えが怪しい)
ツェルニーを弾いて、聞いてる方が楽しいと感じるとは思えない。
でも。
ギロックの抒情小曲集をさらっと弾いたら、自分も相手も楽しめるんではないかと思う。
ピアノって、今は演奏することが目的になっているけれど、最終的にはピアノの音を味わい、楽しめるようになれればと思うのだ。
今の子供は、身の回りに上質の音楽があふれていて、いい時代に生まれているなあと思う。
ピアノだけが音楽ではないし、演奏できるということだけが音楽をしていることではないけれど。
楽しく学べる動機を持ち続け、誰かと喜びを分かち合えるものを持っているなんて、素敵な人生だと思う。
よって。ギロック賛成。
ギロックの抒情小曲集が出てきたので、たまには弾いてみようかな。
人前でさらっと弾ける曲がみつかるといいな。
再再開してそろそろ1年近くなるのに、まだ周囲の知人にはピアノを始めたことを言っていない。
ピアノならっているのよ、って言える日が来るといいなと思うぶどうであった。