こんにちは。
ぶどうさんです。
ご訪問ありがとうございます。
おなか痛いから、回復‼したと思ったら。
パソコンの不調によりアクセスできず。
50台、いろんなところでいつも通りにはいかないものです。
といったところで。
今日も元気に参りましょう。
本日ご近所付き合いのお話です。
田舎の集合住宅に住むぶどうさん。
田舎ではあるが、郷里ではない。
現在は時間的余裕がないため、積極的な地域活動には参加していない。
よそ者の多い集合住宅住まいということもあり、田舎の排他的慣習にあまり関係がないのは幸いである。
ぶどうさんの実家は、かなりの田舎であった。
土地の古株が住むところであり、関係が特殊で、かつ地域活動がかなりあった。
両親が病に倒れ、家を去り、実家を処分するとき。
ご近所や町内会って、何の意味があるのかかなり疑問を持った。
確かに良くしてくれた人もいたが、大半が無関心か、迷惑に思われたかであった。
積極的に来た用事というのが、町内会費をくれというものであった。
・・・・。
長く住んでお世話になった土地ではあったが、最後は寂しいなあと思わずにはいられなかった。
もう実家はないし、そこに住むことも、ご近所の人に会うこともない。
縁が切れたなあと思った瞬間であった。
亡き父は頑固であり物事の筋を通す人ではあったが、戦前戦後の動乱のときに処世術を身に着けていたので、目をつぶることができる人であった。
その父が言うには。
ご近所とは仲良く。
確かにその通りだと思った。今でもその通りと思う。
基本的には誰に対しても親切にするというのが、美徳だと信じているから。
一方、自分が思うようには相手がそういう意識に無いということを知ってもいる。
とある人が言うには、目の前の人は自分の深層心理の表れであり、自分自身だということらしい。
起こった出来事や、自分で見聞きしたことも自分に関わると。
そうかなあ?と、その話を聞いたときは思ったが、面白いことにその通りだと思うことが多い。
大半はそうだけど、中には反面教師的な、自分にはない考えにびっくり仰天させられることもある。
検証は、だから、まだまだ。
自分が思うようには相手がその意識に無いということは、自分のどこかが「誰かに敵意を持っている」ということなのかもしれない。
100%みんなを信じられる世の中ならハッピーだが、世界はまだまだそれには達していないから、それくらいはないといけないとは思う。
ここまで何の話をしているかというと、数ヶ月前に非常に失礼な話を聞いたことから、ご近所づきあいについて考えさせられたということ。
ぶどうさんは、基本的には、父の教えを守っている。
関わってほしくないとサインを出す人には遠慮するし、関わらないほうがいい人には自分からはかかわらないようにはしているが、問われれば知っていることなどを伝えたりしている。
おせっかいでもあるので、その方の助けになるようなことがあれば情報として伝えたりもする。
ご近所さんとは仲良く、を守っているつもりだったのだが。
自分とは直接関係のないトラブルがあり、そのとき、とある方の身内が、この集合住宅の人は信用できないふうな発言をしたのを聞いたのである。
あれ?
それって、ずいぶんじゃない?
ぶどうさん以外で親切にしている人、いるよね?
と思ったとき、ああ、その身内の人には、他の人に良くしてもらっていることを感謝するどころか愚痴を言っているのかと気が付いたのである。
それ以来、ご近所づきあいなんて、挨拶程度で、深入りするもんじゃないと悟ったのである。
なんとも寂しい世の中であるが、この頃は深入りすることでトラブルに発展する可能性がある。
わざわざ火中の栗を拾いに行くことはない。
というので、ご近所つきあいはほどほどに、距離感を保つことを念頭にし、ご近所づきあいの難しさを痛感している。
集合住宅は、色んな人が住んでいる。
今まで出会ったことがないような人がいたりする。
関係は希薄だが、それでも建物内でだれかと顔を合わせる。
ご近所とは仲良く。
昭和までのいい言葉だが、現代には少々通用しづらい部分がある。
ほどよい距離感を保ち、心の線引きを意識して、つかず離れずな関係を保つスキルを身に着けないと。
ご近所は、大切ではある。
だからこそ良いところに終の棲家がみつかるよう、そして住み続けられるように今から己の準備をするぶどうであった。