こんにちは。

 

ぶどうさんです。

 

ご訪問ありがとうございます。

 

室温が上がってきていますね。

 

28℃の危険恐怖域、突入しそうです。

 

チョコレートが溶ける~~~。

 

チョコレートは冷蔵庫へ避難させましょう!

 

おやつの買いすぎも、注意しましょう!

 

今日もお元気にお過ごしくださいませ。

 

 

本日、文化、のお話です。

 

何気なくYoutubeを見ていたぶどうさん。

 

そこで面白いことを聞いたので、ここでシェアしようと思う。

 

ぶどうさんのことだもの、小難しい話は理解できない。

 

わかるというか、食いつけたところだけである。

 

メインのお話はまったく違うことだったのだが、関連して「文化」のお話であった。

 

文化といえば、芸術的なこと、社会的なこと、教養や一般に慣習的なことを言う。

 

芸術的なことを頂点とすれば最底辺というか、基礎は「暮らし」であるとのことだった。

 

たしかに暮らしは、民族、時代、場所により全く異なる。

 

しかも突然生まれたものではなく、今に至るまでに営まれた時間的な積み上げがある。

 

現地点で考えれば平面的に思えるありふれた日常は、立体的な歴史的たまものでさえある。

 

伝統芸能だとかのような高尚なものではないけれど、「暮らし」はやはり文化だと、50半ばで初めて気が付いた。

 

その暮らしは昨今、時代どころか数年単位で変遷し、よくもわるくも消えていっている。

 

消えるのは仕方がない。

 

それは時代の点に表れ一時代を飾ったけれど、文化となりえなかっただけだ。

 

もし小さな何かを残していれば、いずれ花咲くかもしれないし、それが昇華される時がくるかもしれない。

 

暮らしの中で残ったよきものが、じゃあ文化かというと、しかしどうやら違うらしい。

 

そこでは暮らしそのものが、文化といっていた。

 

今の暮らし、それが、文化の礎だと。

 

なるほど~。

 

だとすれば、ありふれた日々の営みや生業、所業がベースとなり、その上に積みあがる何かがあって暮らし=文化の基ができあがるのかもしれない。

 

何かとは‥人の思いや行為の継続性だろうか。

 

「暮らし」とは、それほど大切なものなのか。

 

とすれば、日々をもっと大事に、ありふれた日常を慈しみ、当たり前を当たり前とせず感謝して丁寧に生きていかねばなるまい。

 

最近は挨拶や食前後の合掌などを、不要と唱える人もいるとか。

 

暮らしの一コマであり、成り立ちもわからないけれど続けてきた慣習は、文化であったのだ。

 

日本人の日本人たる所以というか。

 

不要どころか、日本人の根源的なものだ。捨て去ってはいけない。

 

文化のない人間は、社会的に一人前とは言えないから。

 

特定の○○人とは、なりえないから。

 

そういえば丁寧な暮らしという言葉が巷で聞かれるようになったのは、いつからだろうか。

 

丁寧な暮らし教が流布され、それに憧れ、縛られ苦しむ人もいるかもしれない。

 

でも、暮らしが文化なら。

 

先人の智慧を学び守るべきことは守り、自分らしい暮らしを作ればいいのではないだろうか。

 

それが、あなたの文化であり、丁寧な暮らし、だ。

 

暮らしがこんなに奥が深かったとは、まったく知らなかったぶどうさん。

 

これからは、自分が文化を作り上げているつもりで日々「暮らし」ていこう。

 

日本文化とまではいかなくても、100歳までにはぶどう文化(笑)くらいは作り上げられるに違いない。

 

気の長い話である。

 

今後とも、みなさまどうぞ、ぶどう文化(笑)にお付き合いください。