こんにちは。
ぶどうさんです。
日差しが強くなりました。
そろそろ日傘が必要かもしれません。
適度に日の光は浴びながらも、過度に日焼けしないようご用心くださいませ。
本日未来のかたち、のお話です。
ぶどうさんちには子供がいない。
子供がいないから、躾やら教育なんて語れない。
実績ゼロだからだ。
でもとても気になることがあった。
先日お話した、ヤングケアラーのことに絡んで調べているうちにふと疑問が沸いたのだ。
厚生労働省のHPによれば、ヤングケアラーとは、
法令上の定義はないが、一般に本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っている18歳未満の子ども。
ということらしい。
ぶどうさんが言った意味は、若い(子供から~若い労働世代)人が親、祖父母などの生活や介護等を行うということなので、厚生労働省の定義とは違う。
調べてみると、お役所と民間では少し定義が異なる。
よってここでは、おおむね若い世代が家内労働のために自己の権利としての時間の消費ができず、本来のあるべき姿や役割をこなせない状況にある人ということにする。
本来家族は協力して日常を過ごすべきものである。
ぶどうさんは、子供が家の手伝いをすることに関しては賛成だ。
ただし、その子供のためになり、家族のためになることであって、本分を越えてまでするべきではないと思う。
また、一人の子供のみではなく、兄弟平等にするべきだとも思っている。
その子の今と未来につながることであれば、手伝いはするべきと考えているし、しない方がおかしいとさえ思う。
けれど、手伝いする時間をとることで勉強できないなんて、それはだめである。
したくないからしないのと、出来なくてしないのは違うからだ。
前者は意思と選択があるが、後者はどちらもない。
子供は、何でもいいので好きなことや興味ある事をどんどん学習して身に着け、自身の未来を拓いていけるようになってほしい。
子供は可能性の塊なのだ。
それを潰すようなことがあってはならない。
勉強したい子は勉強して、スポーツや技能を伸ばしたい子は、早い時期にその道を選べるようになるといいと思う。
戦後中学までは義務教育となった。
どの子も同じ学習過程を同じ速さで習得し、専門的な指導が必要な子は個人的に受けるか義務教育終わってから選択することになった。
人間には向き不向きがあるのに、みんな中学まではなんとか同じにこなさなければならない。
残酷な言い方だけど落ちこぼれと言われる人は落ちこぼれたまま中学卒業である。
一方勉強のできる人は、足踏みだ。
勉強のできる学校へ早めに切り替えられる子供は、ラッキーだ。
これって、何か変である。
おちこぼれにとっても、勉強のできる子にとっても、今の学校制度ではデメリットしかない。
義務教育となったわけは、最低限中学卒業程度の学力を身に着けることを目標にしているのに、実際はそうではないことだ。
視点を変えれば、社会にいる人のベースラインが中学卒業の学力であるべきなのに、そうではないことになってしまう。
学習の速度は人それぞれであるし、習得もそれぞれであっていいと思うのだ。
一律に15歳までに義務教育を終える教育課程というのは、無理がある。
15歳より早くても、15歳越えても、教育を受けて皆がベースラインには到達できている社会であるほうがいい。
子供たちは、かけがえのない社会の宝である。
言い方は悪いが、学習や技能等、身につけるべきものは身に着け、鍛え上げるところは鍛え上げなければならない。
それは、大人たちの役目だ。
自立した、社会の一員として活躍できるように、自分に誇りを持てるような、そんな人になるように。
子供が未来を作るのだから。
政府には、日本国の子供たちが全員、中学卒業程度の学力をきちんと身に着けられるように一刻も早く教育改革をしてほしい。
願わくば、学力だけでなく技能等を伸ばせるような選択を早い内にできるようにもしてほしい。
人は間違うものなので、選び直しもできるような項目もお忘れなく。
ヤングケアラーから日本の教育問題に発展していった今日のお話。
一人一人がしっかりしないと、美しい平和な日本はなくなってしまう。
未来のかたちは、子供によって大きく変わる。
だから子供の教育は国の大事な事業だ。
国会の先生だけでなく、我々国民もしっかり考えて見解を持つことは重要である。
今も世界は戦争中だ。
日本を守り世界を守るため、知識を得、知恵を絞れる人間になれるよう努力しようと思うぶどうであった。