多分お人よしに見られているぶどうさん。
自分ではそのつもりはないのだが、最近気づいた。
道を聞かれる、機械の操作を聞かれる、買いもの中知らない人から話しかけられる・・・
いったいどんな風に見えるのか。
・・・たぶん、お人よし、だよね?
お人よしで悪いことはないのだが、お人よしでそんなに損したってわけでもないのだが。
やっぱり損しているなって思うこともある。
それは、「お願いされる、あてにされる、やって当たり前、で感謝もされない」。
お願いされて、必死になってやって、自分の時間をすり減らして頑張って、うまくいかなくてイライラして、さらに当たり前で終わってイライラする。
なんだか、本当に無駄の無駄をしていると思う。
うまくやって、笑顔で終わればいいことになるはずなのに、こうなると命の無駄遣いにひとしい。
それをやめるには、断ればいいことなのである。
でも、いい人に見られたくて、断ることに罪悪感があって、嫌われたくなくて、面倒に巻き込まれたくなくて。
それでお人よしさんの顔で引き受けてしまう。
負のループ。
これを断つには、まさに「断るという選択肢を持つ」と決めることだ。
けれどなんでもかんでも断るというのもなんか違う気がする。
簡単にできることはやり、手間が少しかかってもできそうなことはお互いさまで引き受けるのはありだと思う。
できそうもないことは断る、違和感のあることに対しては毅然とした態度をとることもできんだという選択肢。
ぶどうさんの断り下手は昔からで、場を壊したくないとか、断ることに罪悪感があるのである。
もしかしたら自分の無能ぶりを認めたくないとか、相手からの承認欲求で安請け合いしていたのかもしれないけれど。
でも、50歳を越えたら人生折り返し地点過ぎている。
なんでもかんでもに時間や体力を使えるわけではなくなってくる。
それに、いつも自分がハッピーでいるほうが世界の平和のためには大切なことである。
断らなかったことで自分も相手も地獄におちてどうするよ?
そろそろ、「断る」とも付き合い始めなければなるまい。
そのためにも相手との境界を見極め、適当なところで線を引けるようになる 練習をつんでいくかねばなるまい。
相手の要望に応えるのは尊いことで、できるのならやればいいけれど、自分も相手も得をしないのなら、断る勇気を持つことも必要だ。
世界には何億の人がいる。
自分に関係する人はそのうちのほんの一握りかもしれない。
けれど、付き合う相手を選ぶことはできるのだ。
失敗したなら何億の中から選びなおしてもよいのである。
よい人生にしましょう。