親家片という言葉があるらしい。


読みは、オヤカタ。


親の家を片付けることをいうのだとか。


ウェブ検索をするとかなりヒットするので、親の家の片付けに直面している人は潜在的にいると思われ、数年前ブームになった断捨離なみの認知はあるのだろう。


オヤカタだからといって、必ずしも親の家が汚館というわけでもないようだが、年を取った親が暮らしやすくすることや、残された家をどうするかは子である誰にとっても深刻問題なのだろう。


そんな困った人たちに知恵を授けるべく経験者が情報を発信し、いかにして生前もしくは死後の親の家の片付けをするかをまじめに考える場を作っているようなのである。


親家片は、しかし断捨離とは違うのだとか。


とくに親が生きている場合は、ただ捨てる、というわけではなく「使い慣れたものを選ぶ、残す」というのがポイントらしい。


捨てるイメージの断捨離ではあるが、選ぶ、残すという部分を考えるのは同じことのような気はするので、ぶどうさんが思う二つの違いといえば「当人がするかゆだねられた他者がするか」の違いなのかもしれない。


また生前の場合は相手である親が、死後の場合は相手はいなくとも家丸ごとの問題になるので時間や金銭、体力面と向き合いながらすすめていく必要があるらしい。


断捨離やお片づけブームの現代日本、自分の家だけでも手一杯なのに、親の家の片づけまで人生に降りかかってくるである。


どうやらそれが人の世の現実らしい。


ここまできて、「らしい。らしい」を連発している自分にきがついた。


そうなのだ。

ぶどうさんはまだ、本当の意味で親家片に直面しているわけではない。

当事者ではないし、経験者でもないのである。


ただし、全くの他人事で興味本位で親家片をみているわけでもない。


ここ数年、実家の荒れように呆れていたが、ここ最近は特に激しくなってきた。

帰省してはチョコチョコ片付けようとするものの、次に帰ったときは却ってリバウンドが激しくなっている。


汚宅と化した暮らしにくいことこの上なしの親の家を何とかしたいのだが、向き合おうとしない親がいて、全く先に進むことが出来ないのである。


当人たちは汚宅でも気にならないようではあるが、子としては片付いていない家は家事効率が悪く家庭内事故につながりやすいため、気が気じゃないのである。


片付けようとすれば無言の抵抗にあい、つまらない言い訳や嫌味を延々と聞かされうんざりしてしまう。


おまけにリバウンドする。


元の木阿弥になり、関係が悪くなるくらいならやらないほうがマシなのだ。


しかし。


親のどちらかが死に、どちらかが残され、そしてどちらもいなくなった実家がどうなるのかを思えば、出来る限り早く手を打ちたいと思ってしまう。


なぜなら、遠くに住む兄弟の誰も手伝う気配はなく、おはちが回ってきそうなのがぶどうさん自身だからである。


誰がこれを片付けるのか。

どれくらいの期間をかけていつまでに終了するのか。

お金はいくらかかるのか。


先のことは考えない、今のことだけ一所懸命にすればよいとはいうが、ことこれらの問題は必ず身に降りかかってくるのだから、見てみぬふりの先送りしても仕方ないのである。


親家片は、誰しも通る道。


ぶどうさんの「たをやかなる道」のほんの一部ではあるが、避けて通れない誰しもが踏み入れる道と心得て、覚悟を決めて向き合っていこう。


そこにまた、新しい次の道標があると信じて。