5月第二週の日曜日。
今週末に母の日がやってくる。
ぶどうさんは、母の日や父の日、両親の誕生日に特別なプレゼントはしない。
顔くらい見せればいいのだが、遠くに住んでいるためそれもしない。
なんとも親不孝な娘である。
言い訳をすると、全くしてこなかったわけではない。
結婚前はなにか「もの」を選んでいたし、結婚後は「花」を贈っていた。
それをやめてしまった理由は、ものを送っても、花を贈っても、どちらにしても重いということにある。
年老いた両親の家には、必要なものは揃っている。
必要以上のものが揃っている。
ちゃんとあるのに使いきれていないし、使おうともしないものも沢山ある。
古いものは交換すればいいのにそのままだし、使わないのに捨てずに新品のまま古びたものもある。
そう、ぶどうさんの実家はいわゆる荷物の多い家、ある意味汚宅に近い。
しかしこれとておそらくぶどうさんの両親の家に限ったことではないと思われる。
年寄りの家は、おおむねものが多い。
だれからか何かしらもらうし、捨てないし、溜め込むからであろう。
自分がプレゼントしたものがそのまま使われずに置かれているなあと気がついて以来、ぶどうさんは贈るなら消え物にしようと決めた。
これは誰に対しても、である。
とくによく知らない人に対しては、とにかく消え物か使って捨てられるもので、金額も張り込まないように心がけている。
贈りものをするのは自己満足であり、見返りや感謝の言葉をもらおうという卑しい気持ちがおきないよう「気は心」程度のものにすることにした。
・・・まあでも人間だから、ありがとうといわれれば嬉しいし、好きな人にはつい張り込んでしまうのだが・・・・
話を戻そう。
母の日定番の花は、老人には厳しいのではないかとぶどうさんは思う。
花をもらって嬉しくない人はいないと思うし、母は花を活けるのが上手で花を育てるのも上手な人だったので花をもらえば喜ぶだろうことは想像に難くない。
けれど切花だと素早く飾らないといけないし、鉢だと運よく育てられても管理する鉢が増えるし、手間が幾分かかった上いつか枯れてしまうと罪悪感が残ってしまうのではないだろうか。
それで花のプレゼントはやめることした。
消え物にしても、うちの両親の場合お菓子は禁物である。
なぜなら、食べきれないほど誰からかもらうし、それなのに駄菓子を買いに行くしでいつもお菓子が満載なのだ。
なのでできれば果物や、日々必要な食材や食品、飲み物類を食べきれる分だけ贈るという形にした。
食べきれる分だけ、というのがミソ。
そうする理由は、年を取ったら食品類の管理能力が極端に落ちるせいで食べるのを忘れて放置してしまうからだ。
だからケチと思われようがお構いなし、ほんのちょっとをチョコチョコ贈るのが両親にとって負担は少ないと考え、そのようにしている。
プレゼントはその人の心理的負担が少ないものが一番だとぶどうさんは考えるからだ。
今年も母の日がやってくる。
あと何回電話をかけて「お母さんありがとう」といえるのだろうか。
だんだんと年老い、いろんな力を削ぎ落とし失っている母の姿を思い浮かべるとき、悲しみといとしさに包まれるのは、なぜなのだろう。
親というものは、未来の自分そのものでもある。
親は先の世界にあるものを、そのままの姿で子に見せてくれる存在でもある。
母は果敢に道をすすんでいく。
今は理解できなくても、私が将来迷わず歩いていけるよう、その道にいろんなヒントを置いて行ってくれているような気がする。
お母さんありがとう。
お父さんと仲良くいつまでもその家で暮らせるといいね。
10本の指に余るほど会えて、指の数だけはありがとうを言えることを信じて、母の日を待つぶどうであった。