金の切れ目が縁の切れ目。


これがことわざなのか、微妙ではあるが最近ちょっと切れ目を感じる。


金の切れ目でも縁の切れ目でもない。


エネルギーの切れ目とでもいおうか。


エネルギーの切れ目などあるのかどうか、それこそ金の切れ目や縁の切れ目並みのあやふやさではあるが、どうにもそう感じずにはいられない。


なんといおうか、意図せぬ出来事が相次いでおき、いつもなら気にならないちょっとした出来事にも不満を感じるようになり、気持ちを削がせるほうに削がせるほうにすすんでいるといったらいいのか。


出来事に意味合いをつけたり脚色したりするのは自分である。

見方により、感じ方により、同じ出来事がいいようにも悪いようにもなるのは、すべて本人の解釈の問題。


その出来事は偶然起こったことではなく、起こるべくして起こったのだろう。

どこかに小さな原因があったはず。もしくは、自分が手を抜いていたために違う結果がもたらされたのだろう。


けれど、自分自身としてはコントロールできないものであったり、どう考えても責任転嫁されているのでは?という疑いがぬぐえないものがあったり。


気にしないのが一番であり、忘れてしまえばいいのだろうがなにやらもやもやしたものが残ってしまう。

そしてまた、小さなアホ臭い、でもなんだかちょっと不快な出来事がおこり・・・


小さなほころびが大きな亀裂を生むように、これはエネルギーの切れ目といえるのではないだろうか。

土地と手を切るサインとでもいうか。


そういえば、前住んでいた所でもそういう不快な出来事がゆるゆるとあって、土地と縁が切れた。


エネルギーの切れ目が本当であれば、こことももうお別れなのだろうか。


ちょっと悲しい・・などとは微塵も思わない。

今度はまともな病院と交通網、そして買い物できる店のあるところに是非とも引っ越したいものである。