健康や美容にはまあまあ関心があるぶどうさん。


ぶどうさんでもそうなんだから、全く関心がないという人のほうが珍しいかもしれない。


だからといってはなんだが、このところやたら健康〇〇と銘打ったものが多い。


健康グッズ、健康法、健康食、健康ジュース、健康フライパン、健康・・・・


なんにでも健康と冠していれば注目を集めると思っているのか、本気でそう思っているのか知らないが一体どういう了見なのだろう。


何がしかのデータや経験の積み重ねや事実があるから、自信をもってお勧めするということなんだろうか。


そもそもなんで健康ってつけなきゃいけないんだろう。


健康は万人の願いであるからなんだろうが、本当に健康に繋がるのか繋がっているのかというと殆ど追跡作業などなされるわけでなく、誰も本当のところはわからない。


健康の基準があるかというと曖昧だし、誰しもが考える健康って「病気がなく毎日はつらつと生活できること」くらいなもので、人によって状態や条件が違っているのでなんともいえない。


「今の状態をキープでき、あわよくば何かを取り入れることでよりよい状態で生活できる=健康」なのかとも思うが、昨今の日本では健康商法が多すぎて何でもかんでも健康と名づけることでイメージだけを膨らまそうとしているようにも見える。


そういうわけで、今の日本で言われている「健康〇〇」とは、イメージ先行で万人を思考停止させる呪いの文句なんじゃなかろうかとさえ思ってしまう。


何を選ぼうと、実行しようと、そしてやめようと、取捨選択して実行するのは自分自身であることを念頭において、主体的に生きることが大事。


「健康○○」に飛びつくのを否定はしないが、その前によくその中身を知り、物事やもろもろのバランスを考慮して取り入れ、取り入れた後逐次検証するくらいのことは必要なんじゃなかろうか。


健康、長寿、若返り・・・


人々の切実な願いであり古来からの課題であるにもかかわらず、人は結局衰え死んでゆく。

時と抗いあらゆる手段を次々に講じてなんとか手にしようと試みる人間のいじらしさといえばそうかもしれない。


関心を寄せることで少なくとも過程が変るだけましかもしれないが、何をしたらどこがどう改善されたのかはっきりとはわからず、さりとて健康○○商法に振り回されたともいえず人生を終えるのが人というものなのだろうか。


そういうわけで。

天邪鬼のぶどうさん、「健康○○」というものやお題にであったら、思考停止せず、同調もしないことにした。


情報過多かつ情報操作盛んな時代。

人生は一度きり、やり直しがきかないのだから間違いや失敗ものに付き合っている暇はない。

ところが、間違いや失敗なんてやってみなきゃわからないことが多いもの。


主体的に生きるには、直感を信じて必要なものだけ取り出して活用するしかない。

さしあたっては怪しげなものを排除するセンサーを働かせるべく「健康ネタ」ものには注意して当たることにした。


誰かに何かに振り回されて取り入れる健康○○。

そういうのは御免被りたい。

健康というだけで魅力的ではあるけれど、何がどう健康的なのかちょっと立ち止まって考えたら思いの外当たり前だったり馬鹿げていたりするものかもしれない。