朝から実家に電話をかけたぶどうさん。


6月下旬の現在、巷ではお中元合戦が繰り広げられている。

ぶどうさんちにも例外なくギフトカタログが届いた。


ありがたいことに、夫の会社ではこういったギフトは禁止。

こっそりやっている人もあるんだろうけど、うちでは全くやってない。


当然うちにもこない。

面倒がなくていい。


よってお中元やお歳暮などは、ほとんどが親や兄弟親戚に送るだけとなる。

送りたい時に送りたいものを送りたい人に。

これって、かなり健全だと思うが、さていかに。


電話をかけた理由は、選んだギフトのうちどっちがいいか、決めてもらうため。

前夜夫といろいろ考えたが、決めてもらったほうが良いだろうということで聞くことにした。


電話には父がでて、第一声が「一昨日荷物を送ったから、今日届くよ」とのこと。


こちらがギフトを送るつもりで電話したのに、両親はその前に私たちのことを思って贈り物をしてくれていた。


ギフトのことを聞いたら、あんまり無駄遣いはしないようにといわれたが、嬉しそうな声で選んでくれた。


電話を切ってすぐに、荷物が届いた。


はいっていたのは、お米や野菜、海藻類。


実を言えばお米の注文をどのタイミングでしようか、このところ毎日頭を悩ましていた。

今週頼まなきゃ多分足りないだろう・・でも欲しい品種ではないし、来週まで待ちたいけどそれじゃますますもって困るだろうしと注文に逡巡していたのだ。


それを見透かしたようにお米や他の必要なものがいろいろとはいっていた。


荷物を詰めているときの父の姿を思い浮かべると、じんわりと幸せがこみ上げてきた。


傍目には立派なおばさんで、子の親であってもいいはずの年齢ではあるが、老親がいまでも心を砕いて愛してくれているんだなあと思うとそれだけで嬉しかった。


いつまでも親のいる子でいられるなんて、なんと幸せなのだろう。

そして、ああ、まだまだこどもなんだなあと恥ずかしいやら嬉しいやら体中にじわじわと喜びが広がっていくのがわかった。


出来事としては小さな幸せ、かもしれない。


けれどこの小さな幸せ無くしては、人というのは人たりえないのかもしれない。

大きな幸せだけが、人生での華々しい成果ではない。


小さな幸せをかみ締めながら、人はより人らしく、より良くなろうと歩み続け、その生を豊かに彩っていくことができるのではないだろうか。


そのためにも、感謝の念と小さな幸せを感じる心を大切にしたいと思うぶどうであった。


こういったギフトを送ることが出来るのも、送ることを快諾してくれる夫にも大感謝、ぶどうさんは幸せものである。


愛されること、愛すること、幸せであること。


決してこれらは難しいものでも、お金のかかる高価なものでもなく、自立した互いが相手を思いやる心を持って接すれば、あちこちにころころと転がっているものかもしれない。

それを見つけて拾えばいいだけ、なのかもしれない。


だとすれば親は何も言わないけれど、死ぬまで人生の秘密を教え続けてくれる存在なのかもしれない。

親というものは、先を歩く私の教師であり分身であるのだろう。


ところでねえ、一応聞いたけど、考えてみたらやっぱり違うものの方がいいような気もするんだけど。

まあ、本人たちがいいって言うんならいいよねえ。


ギフトの選択って、人によって受け取り方がいろいろだからホント困るよね。