家からシンプルライフへの考察へと考えを移行していったぶどうさん。
結局のところはどう生きるか、という問題なのだろう。
家は休み活動し生きる場であり、シンプルライフは生きる姿勢であり手段であって人生そのものではない。
なぜにシンプルライフを目指していたのか、当初の目的はすっかりと忘れてしまったのだけど、時間を経てその理由が明確になった。
ぶどうさんにとって、シンプルライフは何が大事か知るための手段であって目的ではない。
無駄なものだらけのぶどうさんの中にある、無駄極まりない物、事、人間関係、をそぎ落としていくためにあったのだ。
そうすることでボンクラなぶどうさんに大事なものを浮かび上がらせて示し、この人生でどうするかおしえてくれていたのだった。
・・・・まだ極めてないけど。
片付けたり、ものを捨てたり、物欲に走ったり、買いだめしたり、余計なことに首を突っ込んだり。
矛盾だらけのぶどうさんに、道を示していたのだ。
失敗してはやり直し、同じことを繰り返し、いつまでも道の途中。
至らなさと途方に暮れている自分にうんざりしながら毎日を過ごす。
そんな過ちをおかしていたのは、道を歩くだけじゃなく、人まねをするだけじゃなく、自分なりの尺度をもち自分の道を切り拓いて歩かなくちゃならなかったことを忘れていたからだ。
けれど時間を経て、いろんな人の考えに触れ、少しずつ自分の中に育ってきた何かがあるのに気がついた。
だからこそ、金子さんの唱えるシンプルライフ本の内容に違和感を覚えたのだろう。
ぶどうさんはぶどうさんの道を、しらず歩き始めたのかもしれない。
シンプルライフではなく、ぶどう道、マダム道。
その道はもう手段ではなく、人生そのもの。
なーんて格好つけているけど、各人各様それぞれの哲学があり普通四十路となれば自ずと歩いているもんなんだろうな。
ぶどうさん、やっと自分の道を歩く決意をした。
表立って社会に貢献するわけでなし、ばりばりと仕事をしたり世間にアピールしたり自己実現するでなし、ただ小
市民として誠実に堅実に自分の周りの小さな社会を大切にする暮らしをするという、決意を。
人生は短いし、長い。
人はいろいろ、役割もいろいろ。
みなが皆大発明したり名前を世間に轟かせたり大活躍したりしたりしているわけじゃない。
スタンドプレーは背景がなければ成り立たない。
背景は、決してくだらないものではなく味わい深いものであるのに気づく人がどれほどいるのだろう。
舞台にはスタッフや劇場が必要で、この世界、社会の舞台にはいろんな人が参加している。
それぞれが役割を果たすのであって、役割に大きいも小さいも貴賎もない。
表舞台に立つものばかりでは成り立たないのだ。
勿論立派なことをやり遂げるという大志を抱いてがむしゃらにがんばる人を尊敬はする。
でもそれは自分の人生ではない。
今の時代の、社会の立派な礎であることに誇りを持とう。
ぶどうさんはぶどうさん色の美しい味わい深いものであればいいのだから。
しかも、ぶどうさんは決して背景ではない。
ぶどうさんの人生の主役なのだ。
そう考えれば、みなが皆主役であり、自分の道を歩きながら自分色の何かに変わっていっているのだと思えてくる。
焦ることはない。もっと自分と向き合って自分の人生を生きなきゃ。
そんな気持ちになっていく。
でもこれじゃ家問題は全然片付かない。
どんどん家とはなれていっているぶどうさん、結局どーなっちゃうのーーーーー?