勘が鋭いとかサイキック能力があるとか・・・そういうのとは全く無縁のぶどうさん。
残念ながらかなり鈍めで、ぼんやりものである。
人の話をふーん、ほー、と聞いて、だいぶ経ってから「なんだか変だぞ?!」と気がつく、のんびりものでお気楽もの。
かなり腹の立つことを言われても、そのときには言い返すどころか全く気がつかなくて後から「あ!!」と思って地団太踏むこと数知れず。
そういうのを、アホというんだろう。
でもこのアホさ加減、なかなかいいものである。
なぜなら相手をすぐに否定せずに自分のなかに答を求める時間を無意識に稼いでいるんだし、すぐに言い返さずにいることで大きな波風は立たない。
波風を立てたくないわけじゃなく、感情的にすぐに言い返したら後々後悔するだろうし、言い返さずに飲み込んでも悔しくて腹が立つだろうしどちらにしてもいいことはないから。
言って後悔言わずに後悔といわれるが、どっちかというと言った後悔のほうが大きいだろうから。
自分から放った言葉は取り返せはしないのだ。
かといって、ずっと言われっぱなし、言わず通しというわけではない。
言うべきときには言う。
もちろん相手を選ぶが。
すごく大切な人、大好きな人には本音をぶつけるし、いいにくいこともずばりと言う。
だって、すごく大事なんだもの。
ぶつかっても、違う意見でも、相手に悪く思われても、大切な人だからこそ言わなきゃいけないと思うのだ。
でもどうでもいい、といったら失礼だが、自分の人生に深く関わらないひとには言わない。
大抵ただ逆恨みされるだけになるので、言うだけ無駄だ。
ぶどうさんはそんなに人間ができているわけでも親切なわけでもないのだ。
自分のそういう傾向を考えると、きちんと向き合ってアドバイスしたり注意をしてくれる人というのはとても親切でありがたい。
たとえ耳が痛いことでも、他人の目から見た客観的な事実を伝えられているともいえる。
一方、陰であることないこという人、人前で他人を愚弄する人がいるが、そういう人の話は聞く耳をもたない。
なぜなら偏狭な視野のもとで物事を見て判断し、常に自分の、誰かのメリットだけに重きを置いた考えを持つと思われるからだ。
では、どうやってそれを見分けるか。
結論としては、見分ける術なんてない。
見分けるのではなく、感じるしかない。
大体人はいろんな側面を持っている。
全くの悪人、全くの善人なんていないのだ。
どこかで、完全である一方でほとんどが不完全な存在なのだ。
同じ人の中である事象に対する考え方が健全だったり不健全だったりすることがあるし、全体的にバランスの取れた人もいることはいる。
だれだれさんは全く信用ならぬやつで、だれだれさんはすべてに信頼が置けるなんてことはこの世ではまずありえない。
・・・・たまに全く信用ならんやつはいるけど・・・
親切な人というか、親切な行為というのは大抵直球だ。
回りくどくないし、柔和だが一本筋が通ったというか、毅然とした何かを感じる。
かならずしも親切じゃない行為には、すぐにはわからなくても、なにかこう、言動の端々に、立ち回りの仕方に妙な違和感を感じる。
たとえ鈍感なぶどうさんであっても、心に残る何かがある。
その違和感が考え方や立ち位置の違いに基づくものであっても、心は何かを感じ取っている。
そういう言葉にならないなにかを邪険にしてはいけない。
その違和感は、自分にない何か、自分にある何かを気づくように促すメッセージだからだ。
親切じゃない行為をする人物=悪い人、親切な行為をする人=よい人という単純な図式はまずありえないといったが、違和感は明らかに親切じゃない行為をする人を、自分を、見つけるいい機会になる。
自分の中にその違和感の答を見つけたら、聞く耳を持つか持たぬか決めればいいのだ。
人の言葉に耳を貸す。
そのことは悪くはないけど、耳を貸しっぱなしじゃダメなのだ。
ちゃんと何かを感じ取って、自分の中に答を見つけて、自分がどうするか決めなければ有益な言葉を逃し無益な言葉に振り回される。
誰かに何がしかのレッテルを貼り付けるのも意味はない。
間違ったレッテルは先入観となりなにごとも新鮮に感じる心を鈍らせる。
この部分のさじ加減は難しいが、物事を鵜呑みにせず先入観を持って判断をしないためには、常にものの見方をニュートラルにして心を自由にしておきたい。
人の心は不思議に正確で本当のことを知っている。
善悪が基準になった頭で考える以上に正しく本来の姿を見ている。
小さな違和感。
それを感じる心をもっと大事にしたいと思うぶどうであった。