本やネットのコラムを読んでいると、時々驚くことがある。


当たり前のことを当たり前に・・・という説を唱える人の、一見なるほどな、と思えるような言葉の中にある思い違い。


それを思い違いと思うのは思い上がりのせいだろう。(ぶどうさんのことです)


思い違いをしているとおぼしき人は、当たり前のことをまず行ってから後正論を言おうというその人の正論を展開する。


しかし。


正論ってなに?


それって相手を思い上がっていると決め付けてるのでは?

そして、その正論はただの思い違いの思い上がり。


なんとこの世の人は愚かしい人の集まりなのだろう。


その中に自分も含まれているのねという事実を認めたとき、かなり脱力する。


各人各様、同じ事象を体験し見ているはずなのに感じることはさまざま、善悪、正負の判断もさまざま。

そこから正論、反論、批判、糾弾・・・・いろんな方向へ、自分が正しいという前提のもとだれかを何かを裁いていく。


裁いている限りはなにも解決しない。

同調するだけでは事態は好転することはない。


必要なのは、感じたことを自身で確かめ、何が正しいか間違いかをみつけることではなくどうやったらよりよい結果がもたらせるかを考え,,、実践すること。


たとえ小さなことでもいいから、直接問題に直結していることでなくてもいいから。


思い違いの思い上がりの堂々巡り。


もうやめようよ。


同じところを回っていても回り灯籠違う場所へはたどり着けない。(どこかに行くことなはいんだけど・・・これは言葉のあや)


正論ぶちかましているつもりの前に、視点を変えよう。

自分がどこにいて、何をしているのか、俯瞰してみようじゃないか。


愛する家族や子々孫々、すべての人のために。

よりよい未来をつくるのは、今。今が未来になる。


マダムたちの健闘を祈る。