世の中には、いや、生きていれば割り切れないことがある。


物事が割り切れない・・・といえば、1余ったり2余ったり・・・なんかこう、一応こたえは出せるけど、すっきりしないって感じだけど。


でも実際は割り切れないんじゃなくて、物事自体がでっかい素数だったりするのかもしれない。


もうそのまま、受け入れなきゃいけないってことで、割り切ろうとか1余らせてなんとか答を出そうなんて考えちゃいけないのかもしれない。


諦めじゃなく、これはこういうもんだって受け入れる。

なんとか答えをだそう、帳尻をあわそうと焦らず、くさらず、ふてくされず、物事の起こった事態を引き受ける。

その物事は、素数だったのだから。


素数だから100までだろってたかをくくっているアナタ。

素数って結構でかい数字にもあるのだよ。


心を煩わす出来事って、おっきい素数がどーんと「なんとかしてよ」って目の前にある状態。

小さいのは、まあ、帳尻あわせができないこともない。

でも大きくなると・・・・なんとか割る数字を見つけるどころか、どこをどうしていいかわからない。


誰かに責任をなすりつけたり、自分を攻め落としたり、悪者探しをしたり、起こってしまって結果のでたことに対して堂々巡りの後悔をしたり。


それはもう、やめよう。

考えないということではない。


原因を突き詰めれば、何かの種をまいたり拾ったりしていたのかもしれない。

影響を受ける、隙があったのかもしれな。

どこかで堰を設けなければならなかったのにやらなかったせいかもしれない。


何がしかの原因があって、結果がでている。

その結果は、選択した事象の中にもれなくついてきた1つの出来事。


素数の結果を引き受ける。

原因を知ったら、それはもういらないと手放す。


二度同じことを繰り返すなど、それこそ無駄なことだから。


生きている限りいろんな出来事がワサワサと湧き上がる。

自分だけの問題、家族がらみの問題、全く知らぬ人からのあずかり知らぬ問題、まあいろいろ。


素数が居座っている間は心は穏やかとは言えないが、時間薬が魔法をかけるのを待って冷静に原因を突き止めたら、心は凪いで来るに違いない。


生きている意味は死んでからわかっても遅いけど、生きている間は全体を見渡す力がないためになかなかわからない。


それは一部を除いて、誰しも同じこと。(わかっているわよ!って豪語する人もたまにいるようで・・・)


わからなくてもいいではないか。

わりきれなくてもいいから、丸ごと引き受けよう。


人生は自分のもの、自分で選び取って決めるもの、決めたならひたすら歩くもの。

選んだなら引き受けるのも自分の問題でしかない。

死ぬまで、精一杯生きよう。


この体でのたった一つの、たった一度の人生だから。