いまどきの若者は。
こんな文句を口にするようになったら、年を取ったということになるのだろうか。
この台詞、決して年寄りだけが使うものでも、若者が口にしないものでもない。
誰しも使うといっていい。
この台詞が心に浮かぶのは、自分よりも年若い者が思慮を欠いた、もしくは未熟な行動をとることに怒りと諦めの境地を感じるからではないだろうか。
自分自身もそうであったことは棚に上げて。
自分より目下のものを温かい目で見ることは大切だ。
目下だからと、上から目線でものをいったり、軽んじるなどもってのほかだ。
だからつねに一個人として同じ高さの目線でわたりあう態度をとることにしている。
だがぶどうさんだって、聖人ではない。
まったく!親の顔が見たいよ!と腹が立つこともある。うーむ、人間ができていないねえ。
しかし、この思いがのど元まででかかったときに、必ず思い出すことがある。
そしてなんともやりきれない怒りを感じるのだ。
もう10年ほど前のこと。
久しぶりに訪れた町のデパートでトイレの順番待ちをしていた。
ぶどうさんの前には老婦人が2人ほど。
そこへ、先に用を済ませた老婦人がトイレから出てきた。
その女性は70歳くらいだろうか。
突然ぶどうさんの前に並ぶ老婦人達に、懐かしい口調でこう愚痴をこぼした。
「前に使った若い人がトイレを汚していたから拭いていたのよ。
いまどきの若い人はねえ。」
そういって、2人の老婦人たちに同意を求めたのである。
お互いに知り合いだったのかどうかはわからないが、老人同士顔を見合わせ、いかにもその通りの表情を浮かべ同意したである。
老婦人の前にトイレを使った若い人がどれくらいの年齢なのかはわからない。
まあ、70台の人から見れば、いくつだろうと若い人になるんだろうが。
私やほかに並んでいる人へのあてつけのような口調でもなかったのだが、言わなければおさまらなかったのだろう。
その言葉を聞いて、ひどく違和感を覚えた。
この老婦人の言いたいことはわかる。
けれど老婦人に、いや老婦人の世代にその台詞を言う資格が本当にあるのか、それが引っかかって仕方なかったのだ。
その若い人を育てたのは、誰だ?
しつけをしなかったのは、誰だ?
注意をしなかったのは、誰だ?
その老婦人に限らず、70歳超えた世代ならば子はオバサンになり、孫もそこそこ大きくなっている。
子、孫、2世代もの教育を怠ったのは、ほかならぬ老婦人の世代なのだ。
当該の老婦人はトイレを掃除するくらいだから、もしかしたら子や孫を立派に育て上げているかもしれない。
だからこそ、しつけのできていないもの達に対して、呆れて愚痴が出たのかもしれない。
でもその台詞はいうべきではなかったのではないかと思う。
自分の世代の役割を果たしていないことを自ら口にしただけだったのではないかと。
人は大人になったら、しつけができていないことを親のせいにはできない。
自分で気がついて自分で治さねば、いつか必ず自分のみならず親、そして子にまで恥をかかせることになる。
大人ともなれば、しつけのみならず道徳倫理、あらゆる面で自らの意思で成長を遂げなければならない。
子や孫への教育を忘れず、しかしそれだけでなく社会への貢献、世代の責任も果たさねばならない。
その自覚が彼女にあってあの台詞を口にし、それに老婦人達は呼応したのだろうか。
それとも、年寄りのただの愚痴のこぼしあいだったのだろうか。
戦後の世の中を事なかれ自己中心主義にしてしまった世代がなにをかいわんやと、やりきれない怒りを感じつつその出来事が大いなる戒めとして心に刻まれることとなった。
いまどきの若者は、というのは簡単だ。
それでは、しかし何にも解決しない。
時には注意し、時には忍耐強く待ち、時には実際手本を見せる。
それがわが子だろうと他人の子だろうと。
若者は、未熟だから若者なのだ。
失敗は仕方ない。失敗してこその人生なのだし。
だからといって、やりたい放題していいわけでもない。
若者にだって身につけるべき必要なことはある。
目上の者の言うことに謙虚に耳を傾けること、そしてよく考えること。
年老いた未熟者なんて恥ずかしいだけだから、若いうちにしっかりと経験を血と肉にしよう。
学んだことを次に繋げていく責任を担っているという自覚をもとう。
私がここでこんな話をすること自体未熟者であることを暴露し、大いなる失敗であり恥さらしなことなのだが、どなたかの心に響き、なにかのお役に立てたなら恥をかいた甲斐がある。
私とて歩みの途中、失敗だらけ、人のことなんていっていられる身ではない。
しかし失敗を糧として日々精進しているつもりなのだ。
小さな努力をみながすることで、きっと、日本は良くなる。
人も、世の中も、未来も。
輝かしい未来は、あなたやあなたの大切な人のためにあるのだから。
今日の浜田省吾さん
僕と彼女と週末に
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