ぶどうさんは40台、子なし専業主婦。
戦後20年経た昭和40年代生まれ。
社会全体はまだまだ貧しく、公害が深刻化し、食品添加物への意識は低かった。
その一方で、不思議な明るさと未来への期待感に満ちた時代だった。
混乱の昭和20年代をすぎ、人心に落ち着きがうまれ社会全体で工業の発展に励んだ30年代を通り越し、40年代は新幹線が走り万博が開かれ怒涛の勢いのインフラ整備、そして経済発展がめざましかった。
ぶどうさんが生まれ育ったところは田舎で、新幹線も万博もパンダも関係はなかったけれど、近所には子供が沢山いて近所付き合いがあり、穏やかな毎日が保障されていた。
ちいさなぶどうさんは、小さい脳みそで羨ましく思っていたことがあった。
それは、近所の子やお友達の両親が揃って若かったこと。
ぶどうさんは末っ子。しかも両親の結婚が遅かったため、ぶどうさんの親はお友達の親に比べて軽く10歳以上、悪くすると20歳も年を取っていたのだ。
若いお父さんとお母さんはいいな、と子供心に思ったが、年寄りだから恥ずかしいと思ったことはなかった。
なぜなら、若いひとよりずっと落ち着きと思慮があると感じ取っていたからだ。
そしてなにやら難しげな学校の仕事などは母がやることが多く、年の功だけでなくその能力のある母を誇りに思ったものである。
年寄りの両親に育てられたせいか、ぶどうさんは言葉遣いが変だった。
子供のくせに敬語を使うのである。
どう使うかを訓練せずそのまま親が言うのを真似するものだから、身についてしまったのだ。
かなりうっとうしい、変な子供だったに違いない。
周りの子達は、そんなことはなかった。
本に書いてあるような言葉を話すのね、とクラスメートに言われたときは何を言っているんだろうと思ったが、今思えばわからないでもない。
子供の言葉は、本やテレビなどからの情報以上に親の影響がつよく、私は両親の語彙を用い親の口調そのままで話していたのだ。
ぶどうさんの親は戦前、昭和一桁生まれ。戦前戦中の教育を受けている。
終戦時は思春期以降であり、人格形成に戦後の教育の影響を大きく受けていない。
歴代天皇陛下の名前をお経のように言えるのが特徴^m^
一方お友達の両親は、ほとんどが戦中、若しくは戦後生まれ。
戦中生まれとしても国民学校ではなく戦後の小学校教育を受けた人が多いということになる。
これまでそういった事実をすっかり見過ごしていた。
子供同士が同じ年でも、親の世代が全く異なっていたのである。。
日本の学校教育は戦後各種の学校令が廃止され特に昭和22年からガラッと変わった。
ほぼ現在の形となったのである。
そのとき生まれてなかったので詳しいことはわからないが、GHQの介入やレッドパージなど社会的な事情を背景に少なくとも戦前戦中の教育とは違う路線を歩んだのは想像に難くない。
そこで、さて、戦前や戦中の教育が如何に劣悪だったか。
現代ではこう口をそろえて言われるが、はたしてそうだったのだろうか。
少なくとも父の昔語りを聞く限りはそうは思えない。
旧制中学の教師は一流の大学を出た人がそろっていたそうだし、独創性のある授業であったといっている。
自主性を重んじ、校風がすばらしかったようだ。
戦争が終わり、学徒動員もなくなり、学生は学校に戻れるようになった戦後。
新しい小学校や中学校には、沢山の子供が通うようになったに違いない。
そうなると、じゃあ、教員は足りたのだろうか?
残念ながら専門教育を受けた教員というのがすくなかったのではなかろうか。
こういうことは、調べることはできないので、私の憶測でしかないが、全く根拠がないわけではない。
子供のころ母がよく言っていたことが耳に残っているからだ。
母は女学校を出ているのだが、その母に小学校の教員になるようになんどもお誘いが来ていたらしいのだ。
そんなに先生が足りなかったの?と今更ながら呆れてしまった。
つまり戦後の教育を担ってきた中には、間に合わせの先生達もいた可能性が高い、ということになる。
ぶどうさんを教えてくれた先生達も、振り返ってみればかなり微妙な世代の先生達だったようだ。
詳しい年齢はさっぱりわからないが、ほとんどが戦中戦後生まれの、新しい教育を受けた先生たちと思われる。
そう、キーワードは戦後生まれと新しい教育。
この人たちが、今の40台の人々の教育の土台を作ったことになる。
つづく。しんどいのであしたは休みかも。
今日の浜田省吾さん
ラストショー
ああ、頭疲れた・・・さ~よな~ら~