今年も広島や長崎に原爆が投下された日がやってくる。


祈念式典が執り行われ、三度原爆をゆるすまじとの願いをこめる。


その願いむなしく核兵器は一向にこの世界からなくならず、その脅威を傘にきて平然と外交を推し進める国まででてきた。


一体、原爆はなにを教訓に残して、今に生かされているのだろうか。


人の心と体に傷を残し、その人たちのみに十字架を背負わせ、その他のものは他人事で終わってしまっている。


式典だけが毎年行われるが、原爆で人生を奪われた人たちの苦悩を日本の、世界中の人はどのように理解しているのだろうか。


いや、経験をしてないものには理解など無理で、期待するのは無駄なことだ。


理解はできないが、同胞に心を寄せ起こった出来事を知り、同じ過ちを冒さないためにどうするかをともに考え実行することが必要なのではないだろうか。


日本は歴史をなおざりにしすぎてきた。


戦後からこれまで、原爆の日や終戦の日を迎えるたびに戦前戦中戦後のあり方や真の歴史の事実をきちんと捉え国民に知らせる義務があったにもかかわらず、そのチャンスを生かしていない。


あのころ大人だった人はもうほとんどいない。子供だった人ももう高齢だ。

真の生き証人は、どこかへ行ってしまった。


今、そのツケを払わされている。


もう一度、歴史を真正面から見直したいと、私は切に思う。

しかし、その方法がわからない。


だれかによって脚色された歴史など、知っても無駄だ。


一体どうやったら手にすることができるのか、途方に暮れている。

すでに社会の担い手となってしまった自分にできること。


それは、日本を知り後世に伝えること。

遅すぎた気づきではあるが、今からでも間に合うに違いない。


日本に日本人として生まれ育った私の役割でもある。


原爆の日は、その気持ちを新たにしてくれるそんな日でもあると思う。