いのちとは、寿命とは、何によって決めれているのだろうか。
そう思わずにいられない出来事がここ数ヶ月の間に二度起こった。
私の身近にいる人たちに、ではない。
そのいずれもWEB上で知った人たちに起こったこと。
ブログやSNSの普及により、全く見ず知らずの人たちと距離を感じることなく毎日のように情報を交換できる世の中になった。
時には接触することもあるが、殆どは一読者、傍観者として、その人たちの世界に参加する形をとることになる。
知り合い、というわけではないが、全く知らないというわけではない。
けれども相手にとっては全く私の存在などわからないことが大半だ。
なんとも不思議な関係が日常に出来上がってしまっていた。
そしてブログを介していろんな人と繋がっていく。
ネットとは、本当にネットなのだなあと、感心せずにはいられない。
ブログやSNSで毎日のようにつづられオープンになる個人の世界。
これらは趣味、情報、意見、啓蒙・・・さまざまな内容でリアルでない社会と人とをつなぎながら、実社会に影響を及ぼしている。
毎日パソコンをあけ「お気に入り」を開けて更新されたブログをチェックし、しばらく更新されないと行くのを忘れてしまう、そんな熱くてドライな関係。
この摩訶不思議な関係性やネットシステムが永遠に続くことなどありはしないのに、何かの拍子になくなることを想像したことなどはなかった。
ここ数ヶ月の間に、ブログを書いておられる方がお二人お亡くなりになるということがあった。
どちらもお若くして亡くなった、ということくらいしか存じ上げない。
お一方は闘病なさっていることを知り回復をお祈りした。
しかし程なくして亡くなったと気丈に報告された身内の方の言葉を目で追いつつも、たったこれだけの期間であっという間に駆け抜けるように命に終わりが来たことに強い衝撃を受けた。
もう一方は、是非ともお会いして師に仰ぎたいと思っていた方だった。
生き方が潔くて素敵で未来にどんどん突き進むようなイメージがあり、憧れに近い気持ちを抱いていた方だった。
しばらくブログの更新がないので毎日のぞきながら、どうなさったのか気をもんでいた。
やっと更新されたかと思われた、新しい記事に、ご家族からのメッセージとご本人が亡くなったことが記されていた。
ぜひ会いたいと思いつつ、あったこともない方の、訃報。
絶句とはこのことかという短い一言の後、しばしなぜ、どうしてが頭の中を駆け巡った。
あんなに意欲的で、つい一月前までいろんなことを試しながら次に出す本のことなどを綴っていたのに?
現在をたのしみ未来を夢見ながら生きる人に訪れた突然の死に、なぜそのようなことがおきるのか、全く理不尽としか言いようのない深い悲しみを覚えた。
人の命とは、若かろうが、年寄りだろうが、寿命が尽きれば死が訪れる。
そのタイミングは、誰にもわからない。
私はいままで、寿命がくるまでは死なないと思っていた。
確かにそうなのだが、そう単純ではないのかもしれない。
命がつきるポイントは生きているうちにあちこちにあって、常に生きることを選択し続けることだけでなく、それに伴う何かがあるのではないのだろうかと思うようになった。
若すぎる死。
どちらもご病気だったけれど、病気だけでなく事故、事件、自殺、世間には若すぎる死がたくさんありすぎる。
将来を背負って立つ、次の世代をはぐくむ、そんな可能性を秘めた人々の死は、ご遺族の方の悲しみは言うに及ばず社会的な損失でもある。
人は生きているうちに、なぜ生きているのか、なぜ死ぬのかはわからない。
生きていれば必ず死の瞬間がやってくることだけが人生の、唯一の不変の出来事。
命とはなんなのか、知らず知ることを許されずそれでも生きる、人という存在。
命に長さがあるのなら、命に縁があり、命の強さもあるのだろうかと、自分のことでありながら他人の中に答を探すしかないもどかしさに、改めて人という因果を感じずにはいられなかった。