断捨離と言う修行めいた言葉にプチ拒否反応を示していたぶどうさん。


しかし、その断捨離を広めた断捨離先生、やましたひでこさんのサイトを見て、しなやかさと一見超越していそうで実は人間くさいお人柄にすっかりファンになってしまった。


かといって、断捨離本を買って読んだわけではない。

いつか読んでみたいなと思うが、なんだかまだその時期ではない様な気がする。


本音を言えば、自分の人生に向き合うとき、誰かに乗っかりたくないからという理由だけなのだが。

多分これがスムーズにできる人は、人生もスムーズなんだろう。


要らぬ労力を使わず、一番大事な、向き合う時間に取り組むことができるから。


スムーズに進めるだけが人生じゃない。

要領が悪くとも必ず進めるし、「そのとき」に何らかの後押しが来ることを知っていれば、一気に波にだって乗れるのだから私なりに生きることを選んでいるというだけなのだ。


この断捨離、一部ですごいブームになっているように見受けられる。

若いうちにこういう意識があればよいだろうな、と思うし、これからの時代こういう考え方、やり方が必要になってきているのだろうと思うのだが。


いい意味にも、ええ??な意味にも一人歩きしている気がする。


具体的には、心も頭も整理して生きること楽しむことに専念できるようになったという、生き方に前向きな発言をする人がいる一方で、すてればいい物が引き寄せられるということだけに喜びを感じているような発言もみられ。

たしかに副産物的にはそうだけど、目的になっていることに違和感を感じる。


さらに気になる発言をネット上で見つけ、考えさせられた。

著者が精神疾患者に無知と偏見があるのでは、だから不信感があるという書き込みを見つけたのだ。


私は本を読んでいないので、どこがどうなのか、真実そうなのかは言えないしわからない。

そしてここで論評する資格も権利も、私にはない。


ひとつだけ感じたのは、断捨離がもともとできている人なんてそんなにいそうにないし、誰しもどこかに欠点欠陥があり心が病んでいるところがあるんじゃないかな、と思うのだ。


そう考えたら、著者に経験したことがなくて知らないことがあるのは仕方ない。

神様のようになんでも知っているなら、人間として生きている必要はないから。


そして、誰しもちょっぴり考え方に偏りがあるのも仕方ない。

たとえ公平に公正に見ようと努めていても、人間とは自分の立ち位置でしか相手を見ることはできないから。


人とは、対象つまり他人が必要であって、自分だけでは成り立たないものなのだ。

お互いが必要で、自分とは違う、外を見て自分を確認しながら生きているのが人ではないのだろうか。


断捨離先生のサイトを見ていると、彼女は何事をも受け入れることのできるしなやかな女性に思えるのだ。


そもそも、今の時代世間が断捨離を必要としていること自体、現代人の心が病をなんとかしようとして模索した結果なのではないだろうか。

皆病んでいるのだ。


私もその一人。

そして、なんとかしよう、何とかなるさ!と後ろをむかず前を向いて生きているのだ。


誰かが偏見を抱いていているように思えて、その人に不信感を抱く。

それは私も経験したことがある。

いや、そんなゆがんだ見方ばかりしかできなかった。


今思えば、相手の無知もあったかもしれないが、私自身がゆがんだ世界に住んでいて、私の中の何かがそれに反応していただけなのだ。


もし本当に嫌ならやめればいい。しがみつくことはない。

それこそ、捨ててしまえばいいのだ。


選ぶのは、すべて自分、捨てるのも、自分。

自分の人生なのだから責任は自分で取る。

誰かのせいにだけはしてはいけない。

それでは死ぬときに自分の人生を後悔することになる。


生きることは、選択の連続。


選んで間違いにするのも、それを失敗にするのもすべて自分の考え方、捉え方だけ。

なにも間違いはないし、失敗もない。

だから恐れることは何もない。


すべてのことが繋がって、ひとつの物語、人生になっている。

頭の中も心の中も、そして体も整理整頓していれば、常にその状況での最高最善を選択できる。

断捨利は、その方法のひとつ、なのだろう。


最期ににっこり笑って人生を終えようではないか。

そのためにもマダムぶどうは今日もしっかり地に足をつけて生きていく所存だ。