頼る人の無い中で熱を出して寝込んでいたとき、困ったこと。
それは、簡単に食べるものがなかったということ。
勿論カップめんはあるし、お茶漬けの元はあるし、レンジでご飯もあった。
備蓄として大量のパスタやうどんはあるし、パンを焼く小麦粉だってある。
けれど、これらは「立って」「準備をして」「片付ける」ことが出来る人用の非常食だと気がついた。
火が無いとき、水が出ないときなど想定して用意する避難袋の食べ物。
けれど、そこにすっぽり抜け落ちていたのが「体が動かない場合どうするか」という観点だった。
常に誰か健常者が側にいるとか、世話をしてくれる人がいるとかなら私の用意していたものでいいかもしれない。
災害時に怪我をして家をでることも連絡することも出来ないことだってあるだろう。
そのとき。
手元にはすぐに何の用意も無く食べられるものが必要だ。
かといって災害や病気がいつ何時来るかもわからないのに、賞味期限の短い食べ物などを細かく用意することは殆ど不可能だ。
自宅に大量に食料を準備し回転させることが出来ていれば、今現在の家の惨状が起こっているはずはないし、起こるかも知れない未来に焦点を当てて生きるわけには行かない。
定期的に賞味期限間近の非常食を食べる日を設けない限り対応できないとすれば、いつもいつも非常食を非常時じゃないときに食べることになる。
・・・・本当の災害のときに非常食に飽きているかも・・・しれないじゃないか。
こういうとき、大切なのが用事を頼める近所の人だと思った。
私はまだ若く体力もあったので、買い物や用事を頼まずとも何とかできるという自信(過信)があった。
人様に迷惑を掛けたくないという気持ちも強い。
だからこそ誰にも頼むつもりはないし、今後もないのだが。
さびしいことに、それは単に信頼関係を築いて来なかったが故、誰かが何かをやってくれるだろうという確信が無かったためできなかったのではないかとも思われる。
今回のことで、まずは自己責任である程度準備することの大切さ、次に周囲との信頼関係の構築でその場の状況に合ったニーズを汲んでくれる先を確保することの必要性を感じた。
なんにせよ。
ご近所さんは大事なのだ。
軽んじてはいけないよというメッセージがこの度の教訓となった。