捨てること。
なんと罪悪感を湧き上がらせる言葉なのだろう。
ボロになったから、使い切ったから、壊れているから、サイズが小さくなったから、古くなって使えないから、食べられないから、空で覚えるまで読んだから。
こうなった状態になって初めて「捨てる」のならわかる。
しかし、見た目きれい、まだまだ残っている、壊れていない、流行おくれだけど着たらぴったり、新品同様、封を開けただけ、買ったものの読んでいない・・・・・・etc
こういう場合、捨てられない。少なくとも私の場合は。
また、いつか着ようとしてそのままの服やもう一度読み返したい本など、すてられない、捨てたくないという気持ちが強い。
もし捨てるということになれば。
断腸の思いで捨て、その後罪悪感にさいなまれる。
こう書いていて、やはり捨てられないというより捨てたくない気持ちが強いのだと再認識した。
けれど、ものが多いということは、管理するものが多いということになる。
管理を苦も無く出来るならば問題ないが、変に完ぺき主義の私は、少しのことで頭一杯手一杯。
一つのことに囚われると、他のことが疎かになり終にはわすれてしまう。
そして出来ない自分を責め、次は失敗しないようにと心に緊張を強いて日々葛藤し続ける。
それから脱出すべくモノを手放し、シンプルに生きようと捨て人生を始めたのだ。
しかし。
私は好奇心が強い。
面白そうなもの、やってみたいことを後回しにすることこそもったいないと思い出したころから、やはり必要なものを必要なときに手に入れることは大事だと感じるようになった。
問題は、それが必要なくなったとき。
やっぱりここでも「捨てる、手放す」という試練のときが待っている。
結局人生は取捨選択の繰り返しであるのと同様、モノを選び付き合い手放すことは一生続くのだろう。
選ぶのは難しいけれど楽しい、けれど捨てるのはもっと難しく辛い。
捨てる基準なんてない。
自分で決めるだけ。
捨てることに失敗も成功もない。
もし失敗や成功があるとすれば、それに付随した出来事に関して失敗や成功があるだけ。
だから誰かの承認を得たり、誰かから責められるとおびえたりすることなんて無いはずだ。
今何が必要でもう必要ではなくなったものはなんなのか、自分を直視し自己責任で決めればいいだけのこと。
手に入れたものは最初から最後まで面倒を見る、たとえ捨てることになっても。
その覚悟だけが、モノを手に入れるときに必要なことだと捨てモノ作業を真剣に続けているこの頃になってやっとわかった。