《第二次大戦に勝者なし》
― ウェデマイヤー将軍回想録を読む ―
第24回
<注記>以下の文章は『第二次大戦に勝者なし』<ウェデマイヤー回想録>(上)妹尾作太男訳 講談社学術文庫 からの抄録である。
各小項目の末尾に、引用したページを付した。一部、文章の変更、記載位置の入れ替え等はあるが、文意は一切変更していない。また、本ブログにおける各章は、原著における章付けと一切関係していない。
14章.トライデント会談
(1)シシリー島上陸作戦実施決定後の状況
ⅰ)シシリー島上陸作戦の後、連合軍が次に取るべき作戦方針について打ち合わせるため、我々は次回の英米巨頭会議(トライデント会談)の準備に取り掛かった。
イギリス側の提案を予想して、我々はイギリスにあまり無茶な事を言い出させないように準備を整えた。
我々アメリカ作戦計画の担当者たちは、日夜、地中海方面における諸作戦の利害得失について検討を加えた。我々は、これら地中海方面の諸作戦を実施した場合、この作戦が我々の主作戦であるノルマンジー上陸作戦にどんな影響を与えるかを常に検討した。
サルジニア島、コルシカ島、スペイン、クレタ島、ドデカネス諸島、ヨーロッパ大陸の南岸全域などにわたり、我々は地勢、湾港設備、交通施設などが海軍基地と航空基地に利用できるかを調べ直した。
こうした検討を進めている時、私はアメリカ軍参謀本部作戦計画部の幕僚たちの中に、シシリー島攻略後に地中海方面の作戦を打ち切るというアメリカ軍の作戦方針に異議を唱えだした者がいることに気付いた。
アイゼンハワー将軍さえ、地中海作戦中止の態度を軟化させ始めていた。アルジェからマーシャルに送って来たアイゼンハワーの手紙には、次のように書いてあった。
「私自身としては、ラウンドアップ策戦が正しい作戦であるとの信念を動揺させたことは、これまで一度もなかった。しかし、この方面(北アフリカ)に現在派遣されている部隊、あるいは、これから送られて来る部隊を有効に作戦に使用しながら、それと同時にラウンドアップ作戦(ノルマンジー上陸)を成功に導くために必要な時間と器材とを入手するべく我々は努力してはみたものの、入手するわけにはいかない状況であった。」
この手紙に対して、私は意見を求められた。
私はこれに対して疑念を抱いたのを覚えている。それは、ボレロ・ラウンドアップ作戦に対する信頼の念を動揺させるためにチャーチルが色々な手段を弄してアイゼンハワーやベデル・スミスその他に如何に圧力を加えていたか、私は承知していたからである。
アイゼンハワーは、ここ数か月の間に西ヨーロッパ沿岸のドイツ軍防衛体制が大いに強化されたことを指摘していたが、これは全くその通りであった。大陸沿岸防衛に当たるドイツ軍部隊の兵力も増強されていた。
しかしマーシャルは、遅かれ早かれイギリス本土からヨーロッパ大陸に対して決定的打撃を加えなければならない、と主張し続けていた。
1943年5月10日の(アメリカ軍)統合幕僚長会議の席上、私はアメリカ軍の幕僚長たちがトライデント会談の第一回会議の際にアメリカ軍の作戦計画を提案して、この会議の主導権を握るよう提案した。
カサブランカ会談では、我々アメリカ軍側代表は、イギリス軍側の提示した作戦計画を検討することに追われて、それにほとんど時間を取られてしまった苦い経験を持っていた。
私がアメリカ側の作戦方針を次の英米会談の第一回会議に上程するように勧告したのは、こうした苦い経験を繰り返したくなかったからであることは、言うまでもない。
統合幕僚長会議は、私の勧告を受け入れた。 (上巻P428~430)
ⅱ)上院のある小委員会で、マーシャルはイギリスの戦略計画作成の過程について説明し、政策と戦略を統合するイギリスのやり方はチャーチル首相、戦時内閣および確戦略計画作成部局が緊密な連絡を取って完成する、と委員たちに述べた。
後に、バンデンバーグ上院議員が、このマーシャルの発言を『バンデンバーグ上院議員覚書』の中で、次のように引用している。
「イギリス側と共同の問題を解決するにあたり、マーシャルはアメリカ側が常にイギリスに対して不利な立場に立たされている、と証言した。
それは、イギリスがある会議で何か提案しようとすれば、それについて徹底的に準備を整えた上で会議に臨むからである、とマーシャルは説明した。イギリス側の提案はチャーチル以下、イギリス政府の各方面の完全な支持を得ており、また時にはワシントン駐在のイギリス代表たち全員の尽力によって、我がアメリカ側の態度もイギリス側の提案を受け入れるように軟化させられている、というのであった。
彼は、イギリスのアメリカ軟化策によって、我々アメリカ側はしばしば不利な立場に立たされた、と語った」
我々アメリカ軍作戦計画担当者の全ては、政策立案者たちとこれまで以上に緊密な連絡を取る必要を痛感した。
私は、マーシャル将軍に提出した覚書の中で、国務省の代表を一人、統幕会議に参加させるように提案した。
しかし不幸にも、私のこの提案は受け入れられなかった。私の同僚の中には、政府の文官連中と一緒に機密事項を取り扱うと、その機密の漏洩防止を期しがたいとして、国務省代表の参加に反対した者もあった。
文官を交えると、何故機密が漏洩するのか、私には理解できなかった。
人間に軍服を着用させることが必ずしも、その者に対して新しい道義心を植え付けることにはならないように、私には思えた。国務省の管理も軍人と同様に、機密保持の観念を所持できるものと、私は確信していた。
もし我々軍人が、文官の政策立案者たちと十分な連絡を取らずに計画を立案した場合には、我々は統合戦略調査委員会からきつい叱責を受けた。
この委員会は<長期戦略計画について統幕会議に助言するため>に、1942年
11月に設置されたものであった。
このハイレベルの委員会は、正確な軍事判断力と広い知識を持った高級将校で構成され、参謀本部の前戦争計画部長で陸軍参謀次長のスタンレー・D・エンピック中将、陸軍航空部隊代表ミュア・S・フェアチャイルド少々、およびラッセル・ウィルソン海軍中将が含まれていた。
この3人の委員たちは、統合作戦計画幕僚たちが提案した長期戦略計画の全てについて戦略的検討を加えるため、毎日会議を開いていた。
この3人は世界戦略に関する大問題について助言するため、統幕会議に直属している独立グループであり、アメリカ軍の先輩である軍政家たちで構成されていた。
この新しいハイ・レベルの調査委員会と、小規模な統合委員会が2つばかり設置されたのにも関わらず、アメリカの統合作戦幕僚たちは、これまでと同様にアメリカの最高政策に関するニュースを、イギリス側からぽつりぽつりと落穂ひろいするようなやり方で集める態度を続けていた。
ワシントンに駐在していたディル卿は、アメリカの政策とか決定については、ロンドンのイギリス政府からしばしば通知されていたものと思われる。イギリス政府から通知を受けたディルが、それをマーシャルに伝え、マーシャルが私に教えてくれるという次第であった。
ワシントンでイギリス軍の作戦計画担当者たちと討議している時、一度ならず私は彼らからアメリカ政府のある政策が既に変更された旨を知らされたことがあった。私が後でそれをチェックしてみると、彼らの言葉が正しいことが分かった。
アメリカの政策を彼ら外国の代表たちから知らされるのは、私にとっては極めて不愉快なことであった。
(2)トライデント会談
ⅰ)1943年5月、チャーチルは万端の用意を整え、多数の代表団を引き連れてトライデント会談のためワシントンにやって来た。
今回はイギリス軍側代表たちに対して、我々はカサブランカ会談の時以上に太刀打ちできるものと、私は楽観視していた。
アメリカの新しい幕僚委員会、特にウィリアム・ベッセル准将を委員長とする統合戦争計画委員会は、トライデント会談でのイギリス側との交渉に備えて、一生懸命に用意をしていた。全ての比較検討は、ノルマンジー上陸作戦対地中海作戦という面から行われたことは、もちろんである。
我々は、1943年にノルマンジー上陸作戦を実施することはあきらめていたが、この作戦を1944年初頭に実施することについて、ルーズベルトがイギリス側から明確に同意を取ろうとしている、と信じていた。
しかし、我々アメリカ代表たちは、トライデント会議で再びチャーチルの雄弁によって、ひどい目に遭わなければならなかった。
彼はこの会談の席上、イタリアを敗北させることにより、ドイツを降伏させる計画を、長々と熱心にくどいまでに述べ立てた。
イタリアが敗北すれば、バルカン作戦に必要な港湾と航空基地を入手できるであろう、と彼は言ったが、これによって彼の手の内がはっきりと我々に読めたのであった。
チャーチルは、まんまとルーズベルトを騙して、英米お連合軍部隊を地中海方面からヨーロッパ大陸に北上させたのだ。(上巻P432~433)
ⅱ)ワシントンで行われたトライデントの首脳会談では、会談の焦点は急速に、地中海においてハスキー作戦終了後にどんな作戦を実行するか、それともボレロ作戦に一層大きな努力を傾注するか、という2点に絞られてきた。
アメリカ側の立場は変わらずボレロ作戦支持を変更していなかったので、この会議ではマーシャルが指導的役割を果たしていた。
マーシャルは、イタリア作戦を実施すると、ノルマンジー上陸に備えてイギリス本土に集結させた兵力の中から兵員と船舶とを取り上げることになる、と主張し続けていた。
彼は、航空攻撃だけでイタリアを屈服させることが出来るかもしれないと意見を述べた。
しかしイギリス側は、イタリアに航空攻撃を加えるだけというのには満足しなかった。
イギリス側はアメリカ側の目を誤魔化すために、ドデカネス諸島やギリシャに対する作戦を提案した。これらの作戦はイタリア攻撃よりも更に重要度の低いものであったので、我々は高価な犠牲を払い時間を空費する程度の少ないイタリア作戦の提案を受け入れざるを得なかった。
5月14日、この会談で討議された事項を要約しながら、マーシャルは次のように述べた。
「戦争終結に関する限り、地中海作戦を続行したからと言って終戦がもたらされるというのは、全くの空想に過ぎない。一方、イギリス側は地中海方面で作戦を続行することにより枢軸側の士気を阻喪させ、抗戦意志を破壊するようになると考えている。」 (上巻P433~434)
ⅲ)会議が進むにつれて、トライデント会談が失望的なものであり、失敗に終わったことが明らかになって来た。
しかし、我々はこの会談で、1944年にノルマンジー上陸作戦を実施することについて、イギリス側からはっきり約束を取り付けるのに、やっと成功した。
この約束を取り付けるために、アメリカ側はイギリスの主張する地中海作戦の続行を承認しなければならなかった。
この作戦の続行により、<戦勝にはほとんど役ただなかった努力>にアメリカ軍の大部隊を釘付けにしてしまった。
しかし、この会談でアメリカ軍はノルマンジー上陸作戦のために、連合軍の7個師団を地中海方面からイギリス本土に移動させることについて、少なくともイギリス側の承認を取り付けた。
こうして、我々はカサブランカ会談に勝る成果を収めた。
アメリカ陸軍省に勤務していた歴史学者モーリス・マトロフによれば、トライデント会談は、アメリカ作戦計画者たちに基本的戦略目標を確保する手段と方法、即ち如何にして<協同作戦中の各戦線の要求を満足させながら、その一方では彼らがなお確信をもって実施しようと考えていたノルマンジー上陸と言うアメリカ軍の基本戦略を貫く>ことが出来るかを再検討する必要性を教えた。
彼は次のように書いている。
「アメリカの作戦計画全般を更に強固な基礎の上に置く必要から、陸軍作戦計画を担当していたウェデマイヤー将軍は、第二次大戦の後半に、アメリカ陸軍戦略構想の基本方針となっていた事項を声を大にして主張しなければならない立場に立たされた。
これまでの英米連合作戦計画を特徴づけていた便宜主義を排して、彼は『ドイツを打倒するためには、長期の作戦構想を立てる必要がある』と1943年4月末に強く主張していた。このような確固たる作戦構想を確立することによってのみ、長期の補給支援計画作成に着手できるのである、と彼は主張した。
ウェデマイヤーと同じ考え方で、参謀本部欧州かの作戦反長クラウデ・D・フェレンバウ大佐は、<ヨーロッパ戦線に対して明確かつ終始一貫した長期戦略構想が確立されていない>ために、どんな結果を招いているかを強調した。彼は『こうした戦略構想がなければ、ヨーロッパ、もしくはその付近地域の作戦に必要な軍事基地や兵器、資材について正確な補給支援計画は作成出来ない』と述べた。」 (上巻P434~435)
(3)トライデント会談閉会
トライデント会談は、「ハスキー計画(シシリー島攻略)以後の作戦に関しては、その実施の時期をアイゼンハワーに一任する」ということで閉会した。
イタリアを戦線から脱落させるため、<イタリア作戦にアメリカ軍を使用する方法>はアイゼンハワーに任せるが、それは英米両国の幕僚長たちの承認を必要とする、とされた。
トライデント会談が行われた二週間、イギリス側との交渉でアメリカ軍幕僚たち全員の立派な成果について、私は非常にうれしく感じた。
この会談についてイギリス軍の幕僚長たち、特にブルック参謀総長は、今やアメリカ軍が堂々とアメリカ軍の作戦方針を主張し実施しようとしているのに気付いた、と感想を述べている。
彼の覚書からその個所を抜粋してみよう。
「トライデント会談中、ある会議に出席するためマーシャルおよびディルと一緒に歩いていた時、マーシャルは私に次のように話した。『私は今でもイギリスの北アフリカ作戦に対して偏見を抱かざるを得ない。』これに対して私は『それでは、あなたはどんな作戦を希望するのか』と彼に尋ねた。マーシャルは『フランスを開放し、ドイツに進撃するため、イギリス海峡を横断してノルマンジーに上陸する作戦を考えている。我々は、この大戦を、より速やかに終わらせばならない』と答えた。『多分、その通りでしょう。しかし、あなたの言われるやり方は、我々が戦争を終結させようと希望しているやり方ではない』と私は話した。
そのうえ、キング作戦部長の意見が最近取り入れられるようになって来て、キングは次第に太平洋方面に兵力を増強していた。マーシャルにイギリス側の作戦方針を採用するように不当な圧力をかけると、彼をキングの主張する太平洋作戦重視の陣営に追い込む気配が濃厚であった。
イギリス側の戦略が地中海方面で時間を空費する作戦である限り、アメリカ軍部隊を太平洋に使用した方が、恐らく有効であるかもしれないと、マーシャルは1,2回話したことさえあった。
私にとって、この大戦の当初から主張していた作戦方針であり、やっと実施にこぎつけた、この戦略が日一日とはっきりした形をとって現れて来た。
私は会談の途中、一時アメリカ軍を我々の意見に同調させることができなかった自分の能力不足のため、憂鬱な気分に襲われ、時にはほとんど絶望しかけた。」
(上巻P435~437)
― 次回に続く ―