量子物理学の世界では、物質とは「確率的な存在」である。我々が原子と呼ぶ分子を構成する粒子は、原子核の周りを電子が回っている。原子核は陽子と中性子あるいは中間子からなり、陽子の周りを中性子や中間子は高速で回り、陽子や中性子はまたその中に内部構造があって、いわゆる素粒子という微細な粒子の回転によって形作られている。その素粒子はまた・・・
つまり、物質とは、我々の体を構成しているまさにその原材料とは、そもそもが、超微細な素粒子のグルグル回転の組み合わさった原子核を、さらにグルグル回転の電子でゴルフボールのようになんとなく形作られた、つかみどころのない「原子」というものが、さらに寄り集まった「分子」というものを単位として、さらにその分子が様々に寄り集まってできている、ものすご~~く不安定なものであるということだ。
つまり、科学は一生懸命物質の根元に迫ろうとして来たけれども、その微細構造には限りが無いのだ。というより、可視化しないかぎり「ある」とは言えないのが科学とするならば、「見えない世界」はとりあえず「無視」しておくしかないという、超限定的なものの見方をしている世界なのではないか。
肉体とは何なのか。エックス線を通して骨や病巣の輪郭が見える。磁気共鳴やコンピューターとの組み合わせにより精緻な映像が得られるようになったが、それは、粒子の粗い光(電磁波)が骨格や内蔵諸器官に遮られてできる影と、粒子が細かく体を透過してゆく光との対比によって浮かび上がる、可視化された世界だ。
可視光線やそのようなⅩ線による可視化の領域なんぞ、光に類する電磁波のほ~んの一部の波長の領域、宇宙全体の中ではもうほとんど誤差に過ぎないほどの領域にしか過ぎない世界だ。それでヒトの何がわかるというのだ。生命の何がわかるというのだ。
我々の体を常時貫通している重力波の世界から見れば、我々の肉体など無いに等しい。原発で恐れられている放射線で被害が出るのは、我々の体を貫通し、その際に遺伝子を傷つける粒子があるからであり、その粒子にとっては我々の体などは無いに等しい。
細胞外マトリクスのような、あらゆる生命、万物に分化生成する前の大元の母なる海、広大無辺の大宇宙を構成しながら自由に飛び回る根元的な素粒子の世界(空)があり、大いなる意識の作用によってエネルギーが凝集されて、星雲ができ、星ができ、惑星ができ・・・様々な物質(色の世界=可視化された世界)ができる。
「何らかの力」でもいいのだが、「大いなる意識」の作用としか言いようがないのは、我々の太陽系ひとつとっても、あるいは原子の構造をとってみても、両者は酷似しており、さらに完璧な秩序と調和を保って存在しているからである。
そのことを我々はただ「自然」と呼んでいるだけであって、例えば我々の文明が「時計を作る」時にするような、デザインの構想があり、機械部分や電子回路の設計があり、各パーツを製作してくみ上げるというような、大きすぎて見えないけれども、「自然」はやはり何か意図的に、意識的に、調和が生み出されているとしか思えない部分があるように思う。
そして我々の肉体もまた、突き詰めてみれば宇宙の根元粒子の凝集されたものだとするならば、各細胞が細胞外マトリクスとの生体的な情報交換の中で生きているように、我々の存在そのものも、大元の母なる「空の世界」と不可分な関係性を保っているに違いない。
その情報交換をしているものが、いわゆる「意識」であって、あるいは霊でも魂でもよいのだが、エネルギーの凝集・拡散で生成消滅を繰り返す「物質」でできた不安定な肉体とは別の、本質的な存在としての「意識」が万物に宿っていると思わざるを得ないのだ。
不安定な物質で成り立つ地球から全ての材料をもらって、同じく不安定な物質の体を与えられた我々人間は、いかに心身の健康や社会の安定という「調和」をめざしてゆくのか。それが「大いなる意識」からの問いかけであり、そのヒントこそが「自然」のなかにある、特に日本の風土とそれによって生み出された伝統・文化・歴史の中にあると思えるのだ。
以下引用
命の根源を探り、罪の意識と向き合って生きる
秋山: やはり、自然を最優先させた場合、自然というものに命の根源を置いた場合に、人間の死に対する“甘え”は小さくなります。死に対する救いという意味では、古神道というのは非常に味わい深い教えだと思いますよ。・・・実は困るのは、神道を英語で翻訳しようとしたときに、本当に複雑な説明をしなければならないんです。
竹内: 難しいですよ。
秋山:そう。例えばアメリカ帰りの人と話していたんですが、雨の音を、その音楽のように表現すると、なかなか外人さんにはわかってもらえない。これ、本当にそうなんですね。実は、脳生理学でいろいろな実験がされているんですが、虫の鳴き声とか、雨の音とか、川のせせらぎの音とか、日本人はそれらを、音楽を聴く器官で聴いているんですね。
竹内:日本人だけが言語として、言葉として判断しています。
秋山:はい。それで西洋人は、とにかく雑音として聞いているんです。
竹内:彼らには雑音なんです。ノイズなんです。こっちは言葉として理解している。
布施:意味を見出しているんですね。
秋山:そう。これだけだって、日本人の霊能性が研ぎ澄まされていることがはっきりしている。
竹内:高い、低いを超えて、違っちゃっているんですよね。
秋山:違っちゃっていますね。水の言葉が聞こえちゃうんですもの。言葉なんですよ。草木が話しちゃうんだから。いつからだったか最近、話せなくなったな、っていう歌がありましたよね。
竹内:だってキャベツ切るとき、キャベツが「痛い」って言ってるんだもの。
布施:えっ、それはどこから聞いた話ですか?
竹内:いえ、別に、自分が実際にキャベツ切るとき、「痛い」って言いますよ。ふつうに。
布施:秋山さんがキャベツの千切りは阿鼻叫喚地獄であるって、言っていましたが、それと同じですね。
竹内:そういうことですよ。
秋山:そうそう。
竹内:今初めてしゃべったけど、そのとおりですよ。
正統竹内文書の日本史
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