律子は、桜の花が咲き始めると、毎年決まって町の川沿いを歩くことにしていた。
ひとりになって十年。
夫・圭一が他界したのは、ちょうど春の終わりだった。
初めの数年は、満開の桜を見るのがつらかったけれど、
今ではそのやわらかい色が律子の暮らしの輪郭をやさしく縁取ってくれるように感じる。
「今年も、咲いてくれてありがとう」
川沿いのベンチに腰を下ろし、小さなポットから茶を注ぐ。
桜の花びらが風に乗ってひらひらと舞い、湯呑みのふちに一つ、そっと落ちた。
律子はかつて、小学校の教師をしていた。
真面目で、少し口下手だったが、子どもたちの作文に目を通すのが何より好きだった。
「言葉には力がある」と教えることが、自分の使命だと思っていた。
退職してからは、急に時間が増えた。
最初の頃こそ、あれもしたい、これもしたいと焦ってみたものの、次第に日々は静けさに包まれていった。
食費を抑え、年金で慎ましく暮らす毎日は単調だが、決して不幸ではなかった。
けれど、どこかにぽっかりと、穴のようなものがあった。
「誰かに、もう一度何かを伝えることができたら…」
そう思いながらも、律子は日々を淡々と送っていた。
そんなある日、彼女の生活に、ひとつの「しずく」が落ちることになる。
「すみません、醤油ってどこにありますか?」
スーパーの調味料コーナーで声をかけてきたのは、まだ二十代とおぼしき若い女性だった。
肩までの黒髪、少しあか抜けない雰囲気。
しかし、その目はまっすぐで、どこか懐かしさを感じさせる。
「こっちやで。ここの棚のいちばん上に置いてあるのが、料理用のやつや」
そう言って案内すると、彼女はうれしそうに頭を下げた。
「ありがとうございます。最近こっちに引っ越してきて…まだ慣れなくて」
「そうなんや。どこから来たん?」
「大阪です。仕事で疲れちゃって、ちょっと田舎で暮らしてみたくて」
ふとした会話だった。
だが、それから週に一度、ミサキが律子の家を訪ねてくるようになるのに、それほど時間はかからなかった。
第三章 教えるということ
最初は簡単な料理からだった。
炊き込みご飯、肉じゃが、味噌汁のだしの取り方。
ミサキはメモ帳を取り出して、まるで授業のように一言一句を逃すまいと熱心に書き留めた。
「お母さんが昔こうやってくれた気がします。でも、ちゃんと教えてもらったことなかったから…」
その言葉に、律子は胸がきゅっとなった。
「料理はね、丁寧にすればするほど味に出る。雑に作ると、心が落ち着かへんのよ」
そう言いながら、手を動かす時間が、律子にとってはかつての教壇に立っていた日々のようだった。
人に伝えること、相手の目がキラキラと輝く瞬間に立ち会えること。
それは彼女にとって、かけがえのない「生きている証」だった。
第四章 静けさの中
律子の暮らしは、少しずつ変わっていった。
買い物のときにミサキの好物を思い出す。
冷蔵庫の食材も「ひとり分」ではなく「ふたり分」になった。
近所の人が、「最近楽しそうですね」と声をかけてくれる。
「せやろか?まあ、ちょっとな」
照れくさそうに笑いながら、律子は空を見上げる。
ひとりで生きていく覚悟を決めた60代。
だけど、人とのつながりが生まれると、こんなにも心が豊かになるのかと、日々あらためて実感していた。
第五章 手紙
その日、律子は一通の手紙を受け取った。
薄いクリーム色の封筒に、丁寧な筆跡で「木下律子様」と書かれている。
差出人の名は「田中悠人」。
どこかで聞いた名前だと思いながら封を開けると、見覚えのある字が踊っていた。
律子先生、お元気ですか。
突然の手紙をお許しください。
私は今、東京で出版社に勤めています。
中学の時に先生が見せてくれた言葉の面白さが忘れられず、こうして文章に関わる仕事をしています。
先生が言ってくれた「伝えるということは、心をそっと手渡すこと」——あの言葉が、
今も僕の背中を押してくれています。
いつかまた、お話しできたらうれしいです。
封を閉じてからしばらく、律子はその場に座ったまま動けなかった。
「覚えててくれたんやねぇ……」
小さくつぶやいて、少し目を閉じる。言葉というものは、思っている以上に深く誰かに届くのかもしれない。
その実感が、胸の奥でじんわりと広がっていく。
翌日、ミサキにその話をすると、彼女は目を輝かせた。
「それ、めっちゃすごいですね。先生、やっぱり人の人生を動かしてるんですよ」
律子は、笑って首を振った。
「そんなん、大げさや」
けれど、心の中では「そうであったなら、うれしいな」と、密かに思っていた。
第六章 夜の中で
春が終わり、梅雨の気配が忍び寄る頃。
ミサキは少し元気をなくしていた。
料理の手もどこか雑で、笑顔も少し影を帯びている。
「仕事、なんかあったん?」
律子が訊くと、ミサキは俯いたまま、ぽつりと言った。
「実家の母が倒れたんです。連絡、急に来て」
「……そっか。大阪、遠いなあ」
「うん。でも、帰るかどうか迷ってて。
私、ここでの暮らしが好きなんです。先生とこうしてるのも、居場所みたいで。
向こうに戻ると、またしんどくなりそうで……」
律子は、静かにミサキの手に自分の手を重ねた。
「大丈夫。あんたが選ぶ道、ちゃんと自分で歩けるようになってる。
そうやって迷うのも、ちゃんと生きてる証拠やから」
その言葉に、ミサキは小さく涙をこぼした。
第七章 戻る場所
一週間後、ミサキは一時的に大阪に戻ることを決めた。
「ちゃんと向き合ってきます。戻ってきたら、またごはん教えてくださいね」
律子は、玄関先で彼女を見送った。ミサキの背中が遠ざかるたび、胸にぽっかり穴が開いていくようだった。
「ひとり暮らしには慣れてるつもりやったけど……」
呟いて、急須に湯を注ぐ。
いつものしずくの音が、今日は少しだけ寂しく響く。
けれど、彼女は知っている。
この静けさの中にも、誰かとのつながりの余韻が残っていることを。
第八章 再開とこれから
夏が過ぎ、秋の風が窓から入り込む頃。
律子の家のチャイムが鳴った。
玄関を開けると、そこにミサキがいた。
少し日焼けした頬に、またあの真っすぐな目。
「ただいま戻りました」
「……おかえり」
律子の目にも、うっすら涙が浮かんだ。
それからの日々は、以前よりもあたたかく、親しみも増した。
律子は、ミサキと一緒に地域の料理教室を開き始めた。
若い人たち、同世代の女性たち、少しずつ人が集まり、笑顔と香りの立ちこめる場所が生まれていった。
最終章 しずくの音、明日へ
その日、律子は机に向かって手紙を書いていた。
宛先は、出版社の田中悠人。彼女の教え子だ。
悠人くん、手紙ありがとう。
あれから、また誰かに言葉を手渡す日々が始まりました。
60を越えても、人はまだ誰かのために動けるんやと知りました。
あなたのような若い人たちが、言葉を信じて生きてくれるのが、何よりの幸せです。
筆を置いて、湯を沸かす。
茶葉を入れ、湯を注ぐ。
しずくの音が、部屋に広がる。
「今日も、生きてる音やね」
律子は、静かに笑った。