ちょっと間があいてしまいましたが、3月26日付けでウェイド・アリソン・オックスフォード大教授からBBCへ寄稿された記事です。


びっくりするような「合理的」楽観論です。最初にこの記事を読んだ時は「これはいくら何でもウラがあるんじゃないか」と思って、少し調べてみましたが、アリソン氏、変な政府の原子力○○検討委員とか、企業の原子力産業○○会、みたいなひも付きの人ではありません、まったく。いわゆる「アカデミック・フリーダム」を守っている人のように思えます。素粒子が専門であると同時に、放射線医療も研究している人のようです。


それにしてもこの記事を読むと、正確な情報を得ることが大事だな、と思わされます。


多くの人が「信じるべきものを信じる」のではなく「信じたいもの信じている」ように見える状況の中で、残念がら私も、アリソン氏の主張が正しいのかどうかを判断するほどの知見は持ち合わせていません、少なくても今のところは。


ただ、根拠のまったくない「大丈夫」的楽観論が非難を浴びて、やたら声高な、けれど往々にしてやや根拠のあやしい悲観論が蔓延しているなかで、健全な議論が行われる一つのたたき台のように、私には感じられるのですが、皆さんはどうでしょう?


   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「放射能から逃げ回るべきではない」



日本では10000人以上の人が津波で亡くなり、生存者は寒く飢えている。しかし、報道はまだ誰もなくなっていない放射能の問題に集中している。しかも、放射能で人が死ぬ可能性はありそうにないのだ。



現在の原子炉は福島のものよりはよくできているし、これからの原子炉はもっとよいものになるだろう。それでも、高レベルの放射能は危険ではある。だが、今起こっている規模の懸念は見当違いだ。原子力技術は無数のガン患者を治療しており、病院での放射線治療で施される放射線量は原理的には、今の環境で受ける放射線量とさして変わらない。



スリーマイル事故はどうだったのか?死者は出ていない。


チェルノブイリは?

この2月28日に出された国連の最新レポートによれば、確認されている死者数は、緊急作業員が28人、それと小児甲状腺ガンによる15人だ―これは、今日本でやっているように、ヨウ素剤が摂取されていれば避けられたであろう。どちらの場合でも、1984年のボパールでは3800人の死者に比べれば非常に少ない。この事故ではこれだけの人が亡くなったのは、ユニオン・カーバイド社の殺虫剤工場から(訳注:放射能漏れではなく)化学物質が漏れたためである。


では福島で漏れた放射線はどうなのか?チェルノブイリで放出された量と比べてどうなのだろう?計測された計数率をみてみよう。3月22日の19時時点で、すべての都道府県の中で最も多いのは、1平方メートルあたりセシウム13712,000ベクレルであった(訳注:参考資料を見ると、モニタリングポストの故障・不具合を理由に、宮城と福島の計測数値は考慮されていない)


国連のレポートにあるチェルノブイリの地図は1平方メートルあたり3,700,000ベクレルまでを計測値に応じて色分けしているが、37,000ベクレル以下の地域にはまったく色がついていない。はっきり言えば、これが示唆しているのは、福島の放射能の降下量はチェルノブイリの1%以下、ということだ。


もう一つ放射能降下物のなかで重要な同位体はヨウ素で、これが小児性甲状腺がんを引き起こす。これは原子炉が稼働中にしか生じない物質であり、原子炉が止まれば、すぐに崩壊する(半減期間は8日間)。福島で貯蔵されている使用済み燃料棒は、放射能を帯びてはいるが、ヨウ素は含んでいない。

だが、チェルノブイリではあらゆる種類のヨウ素とセシウムが最初の爆発で放出された。したがって、福島では、どれだけヨウ素が放出されても、チェルノブイリの1%未満なのは当然なのだ。しかも、その影響はヨウ素剤によってさらに減る。



ところが不幸なことに、政府は、過剰に用心深い指針を与えるという対応をしており、これが一般市民の懸念を高めている。




「過剰反応」

チェルノブイリ16周年に、スウェーデンの放射能専門家たちが、スウェーデンの日刊紙ダーゲンス・ニュヘテルに寄稿したが、その中で、安全基準をあまりに低く設定して、すべての鹿肉の78%を必要もないのに莫大な費用をかけて廃棄処分にした、ということを認めた。



東京では今週、ペットボトルの飲料水が乳児の母親に配られた。不幸にも日本でも同じ間違いが繰り返されているらしい。3月23日に東京では、1リットルあたり200ベクレルの放射能がその2日前に検出されて、子供は水道水を飲まない方がいいという勧告がでた。これを適切な角度から見てみよう。すべての人間の体には1リットルあたり、50ベクレルの自然から受け取る放射能がある。ということは、200ベクレルは実際そんなに大きな害を与えるものではない。



冷戦期に、多くの人は核による放射能は極秘の軍事施設で働く頭のいい人たちにしかわからないような、ひどい危険があるんだ、と信じ込まされた。



そうした放射能に関する誤解から生じる国内からの非難に対処しようとして、すべての放射能への接触をできる限り低くするために、厳しい放射能に関する規制が制定された。この「放射能への接触をできる限り低くする」方針はALARA(As Low As Reasonably Achievable)として知られるようになった。



このように安全性への不安を取り除こうとする試みが、今日の国際的な放射能に関する安全基準の基礎になっている。その基準は一般市民は自然被ばくに加えて年間に1ミリシーベルトを超えてはならないというものだ。この非常に低い数字は危険なレベルではない。そうではなく、自然被ばくよりちょっと多くなるだけのことだ。イギリス人は平均して、1年に2.7ミリシーベルト被ばくしている。私の本放射能と合理性”(訳注:出版は2009)では、現在の科学に基づいて合理的に考えれば、危険な水準は、1年に1ミリシーベルトではなく、1カ月に100ミリシーベルトであり、一生のうちに5000ミリシーベルトが上限であるという主張をしている。




「新しい考え方」


人が放射能について心配するのは、放射能を感じることができないからだ。しかし、自然は解決策を持っている。近年、生きている細胞は、放射線を浴びても、そこから回復するために、さまざまなやり方で自己再生、自己修復を行うということがわかってきている。

この賢明な仕組みは(放射能を浴びてから)数時間以内に始まり、失敗することはまずないーチェルノブイリの時のように、過負荷にならなければ。チェルノブイリでは、緊急作業員のほとんどは、数時間で4000ミリシーベルト以上の放射線を浴び、数週間で亡くなったのだ。

しかし、一連の放射線治療を受ける患者は、治療中の腫瘍の近くにある問題のない健全な細胞組織に、通常20.000ミリシーベルト以上の放射線を受ける。この細胞組織が生き残るのはなぜかと言えば、治療が何日にも渡って行われ、健全な細胞に修復と再生のための時間を与えるからである。



このようにして、多くの患者は、多くの重要な器官が国際的に推奨されている1年間の上限量で、20,000年分以上の放射能を受けて、さらに価値ある年月の人生を過ごすことになる。この事実からして、今の上限量は非合理的だ。



放射能に関する私たちの考え方に革命的な変化が必要とされており、それは教育と一般市民への情報提供から始まる。



その後、新しい安全基準が設定されるべきだ。私たちの生活からどのようにして放射能を締め出すかという考え方ではなく、害を受けずに受けられる量はどのくらいなのか、という考え方に基づいて。そして、私たちを悩ますそのほかの危険―たとえば、気候変化(=温暖化)や電力の喪失のようなーも考慮して。



現在の原子炉は福島の原子炉よりもよくできており、これからの原子炉はさらにいいものになる。しかし、それを待っているべきではない。放射性廃棄物は厄介ではあるが、その量は少ない。特にもし再処理されれば。いずれにしても、それは多くの人が思うほど、手に負えない問題ではない。



では、私の家の地下100メートルのところに埋めるとなったら、私はそれを受け入れるのか?と聞く人もいるかもしれない。私の答えは「受け入れるよ、もちろんね」である。全般的に、私たちは放射能から逃げるのをやめるべきなのだ。