昨日書いた「尖閣諸島、領土と施政権」の続きのような話。識者がどこかにいるのだろうと思うが、わからない。しかたない、自分の頭で考えよう。愚考である。
尖閣諸島問題について、国内には外務省の公式見解を含め、各種の議論がある。が、それはほとんど領土問題を扱っている。つまり、領有権がどこにあるかを議論している。また、中国や台湾もつねに領土問題として扱っている。だが、米国はこの問題を一度として領土問題としては扱っていない。あくまで施政権の問題だとしている。
米国の立場は、この点では、日本を叩きつぶした連合国、つまり、国連の立場と同じだと見ていい。だから、国際世界としては、暗黙裡にこの問題を施政権の問題だとしているわけだ。なのに、日本で、この問題をきちんと施政権の問題として議論しているのを私は知らない。なぜなのだろうか。私が無知というだけなら、それでもいい。だが、日本人は、施政権という考えをまるで理解していない、できない、ということなのではないだろうか。
「施政権」という言葉の歴史をざっと探ってみたのだが、はっきりとしない。基本的に西洋世界の概念だとは言えそうだ。中世の用例がよくわからない。近世になると、植民地との関係でよく出てくる。現代的な意味での「施政権」の考えは植民地などと関連していると言ってもいいのだろう。
現代では「施政権」は「信託統治」との関連で使われている。言語学的な考えでもあるのだが、この現代の用法から、逆に「施政権」を炙り出してみたい。
「施政権」は英語では、昨日触れたように、"administrative right"、あるいは"administrative power"となるのだろうか。英語でこのあたりの法学を読んでいないので、私はよくわからないと言えばよくわからない。少し先回りするが、この用語は法学というより、経済学に近いのかもしれない。ので、そちらである程度規定されているのかもしれない。
いずれにせよ、「施政」とヘンテコな訳語が付いている言葉の原義は、administrationではあるのだろう。
OEDの系統を色濃く残す、私の愛用のPOD6thでは、administratorが項目となり、一義をmanageとしているのだが、おおっ!POD6thはすげーなと感動したのだが、その対象は、こうある。"affairs, person's estate etc"。うわ、いきなりファイナル・アンサーだな。それ以外にも、"formally give out (sacrament, Justice)"ともある。administrationでは、administering (esp. of public affairs)だ。OEDって神!だな。
が、話の都合でちょっと語源を覗くと、F,f,L (MINISTER)だ。で、話を端折ると、つまり、原義はservantだとはいうが、管財人の語感があるようだ。
っていうか、あ、わかったぞ、それで、Prime Ministerが出てくるわけか。OEDの歴史原則ってものすごいな。もうちょっと近世よりにすると、ministerは非国教会派と長老派聖職者を指すわけだが、おそらくこちらのほうが聖公会より古い雰囲気を持っているだろうから、教区の管財のニュアンスがあるのだろう。そして、米語のsecretaryはministerの言い換えなわけか。なるほど、今頃納得したぞ。って、読んでるみなさんにはわからなかいかも、ごめんな。
いずれにせよ、昨日、administrationに「行政」の意味があるとし、追記で、やべ、三権分立が原則化した現代だと信託統治における「行政」だけではねーぞと補足したが、「行政」の概念は、より現代的なものだ。
話が錯綜して見えるかもしれないので、まとめると、現代語の「施政権」は主に信託統治に対応する言葉だが、その際の「施政」="administration"には、すでに、manage estate、つまり、「管財」の原義が含まれているのだ。そして、「信託統治」="trusteeship"であるように、これは、Trust(信託)の概念でもあるのだ。識者にはなんと当たり前のこと言っていると聞こえるだろうか。
つまりだ、施政権というのは信託の概念であり、それに対応する領土はestateつまり、「財」なのだ。だから、施政権=信託、領有権=財、という関係なのだ。
そんな当たり前と言われるかもしれないし、当たり前なのだが、これは、「富」と「資本」の関係にもなっているのだよ。「富」は古い英語で言えば、wealthの概念だが、現代の英語では、financial resourcesに近いだろう。そして、これは、財産権によって「所有」の権利でもある。このあたり、当たり前のようだが、日本では財産権が実質的に確立しているのだろうか?
で、「富」が「資本」に転換されるのは、広義の信託=trustによって、運用(経営)が任されるからだ。昨今、ネットで「資本主義というのは気持ち悪いものだ」みたいな議論があるが、若造、こういう関係を理解しておるのかぁ?
現代日本の場合、国富はあるし、それを金額的に換算することもできるが、資本としては転換されていない。そうできないシステムになっている。そこが、日本が資本主義国か疑問な点でもある。が、その話は別として話を戻す。
領土は財であるから、領有権は財産権に相当する。そして施政権は信託に当たる。で、なんでこんな、日本人や中国人、韓国人なんかに理解できそうにもないヘンテコな発想が西洋に生まれたのか?
日本の史学者が誤解しまくっている封建制度に根がありそうだが、というのは、この概念は日本史学にはユニバーサリズムとしてのマルクス主義から入ったため、日本史にも適用させようとして元の概念が壊れてしまっている。無視しよう、日本史学なぞ。
が、推測するに、この考え方の原則は、西洋における封土と領土に関係がありそうだ。もしかすると、領土とは王に関連する概念で、封土は信託(トラスト)に近いのではないか。
西洋の封建時代と言っていいのかわからないが、この時代は、領民と領有域が基本的にキング的な王の財になっていた。だから、結婚とかで財産分与すると、これが、まるでピースの欠けたジグソーパズルのような状態になる。西洋の地図を見て、変なパッチワークになるのはそうことだ。
当然ながら、これを国家として見ると、国家に所属する領土のような、まるで鉄柵や壁で囲むような領土の概念ができない。
話は逆で、むしろ、領土概念ができるのは、このようなキング的な王の財の制度が崩壊してからのことだ。それは、ある意味で、王を倒して、王の代替としての国民の主権を確立し、王から没収した財をその主権に帰属させたからだ。だから、米国など、西洋の発想では、領土が主権との関係で議論されるのだ。
昨日、こうした関係を考えていて、はっと気が付いたのだが、極東ブログ「試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照
)で、日本国憲法を直訳したとき、奇妙なひっかかりがあったのだが、これもこのスキーマに関係したのだ!
①ポツダム宣言違反(改憲は条件の中に無かった)、ハーグ陸戦条約違反(改憲の必要が無かったのにも関わらず先帝陛下を人質に改憲を強要)、国内法違反(改正規定違反)という暴挙を犯して改憲を行なった行為は【戦争犯罪】に匹敵するが、犯罪を講和条約として【合法】としか見れない。 いくら法的観点から違う!と言っても自己の【価値観】以外のものを受け入れられない。
②何故、ポツダム宣言の条件の中に帝国憲法の改正は無かったのに講和条約として有効となるのか?と質問をすると、質問をスルーするか、独立を果たすために必要な行為だったのだから仕方がない! だから講和条約として有効なのだ! と・・・ 法的領域とは全く無関係の、自己の脳内で完結させた価値観を正しいと思い込んで有効だとみなしている。
③自己の価値観が法の上位にきている。 つまり、講和条約として有効であるという法的な領域に対し、その行為が条約であるか否かを決定するには法律ではなく、自己の価値観で決定づける。 つまり、自己の価値観で法的効力が発生すると思い込んでいるフシがある。 法より自己の価値観を優先させて物事を決定させたがる。
④自己の意にそぐわなければ、法と言えど無視をする。 あれほど日本国憲法を有効とみなす改憲派に対しては、法的観点から徹底して否定をしておきながら、講和条約になると、これを否定する法律などは無視し、無理矢理に自己の価値観を強引にねじ込み有効であると主張する。
⑤自虐史観(自虐思考)である。 本来は暴挙を犯したGHQに怒りを感じその行為を批判するのが普通だと思うが、日本は占領された側なのだから文句は言えないの如く、敗者は勝者から何をされても仕方がない!というトンデモ論を臭わすような主張を繰り返す。
⑥【理想】と【現実】を区別出来ていない。 現実を無視して自己の理想論、価値観が法より正しいと思い込んでいるフシがある。
⑦無理が通れば道理が引っ込むの世界
⑧自己の理想を完結させる為には、法を無視してでも押し通す共産主義者に似ている。