短編 「憎しみの果てに」 第10話 最終章
テレビをぼんやりと眺めながら、夫の帰りを待っていた。
すでに11時をまわっている。
わたしは立ち上がり、テーブルの上に並べられた食事を冷蔵庫に押し込んだ。
知り合って、半年で結婚した。
暖かい家庭というものが欲しかったのだろうか。
わたしは躊躇なく、彼のプロポーズを受けた。
温和で、とてもやさしい人だった。
それでも、時々言い合いになった。
いや、正確に言うと、言い合いにさえならなかった。
どんな状況でも、わたしが先に折れてしまう。
怒りや憎しみを、抱かないように努めてきたのだ。
最初の2年間は幸せだった。
しかし、娘が生まれることを期に、夫は徐々に変わった。
帰りが遅くなり、そして時々朝帰りだった。
携帯電話が鳴ると、こそこそとベランダへ行き、メールを読んだりもしていた。
お前は何を考えているかわからない。
そんな意味のことを、よく言われた。
何度となく繰り返される身勝手な行動に、さすがに疑心が沸いてきた。
密かに携帯を調べてみても、履歴など、一件も残っていないのだった。
わたしは、堪えていた。
どうしても、あの時のことが思い出される。
ふと、テレビに視線が行った。
元プロサッカー選手の訃報を伝えている。
武田だった。
高校を卒業して、武田はプロになった。
国内リーグで活躍して、日本代表にもなった。
ワールドカップにも召集されるが、大会直前に原因不明の病に倒れ、悲願のワールドカップ出場の夢は果たせなかった。
その後、ピッチに戻った武田は再度ワールドカップ出場に向けて活躍を続けた。
そして、二度目の代表選考に漏れた。
膝の怪我だった。
いつしか武田は、悲運のストライカーと呼ばれるようになっていた。
引退試合の映像が流れている。
痩せて落ち窪んだ眼窩と、土色の肌がひどく年老いて見えた。
涙を流しながら、引退することへの無念を訴えている武田を見ても、心は動かなかった。
田口に対しても同じだった。
今も重度の言語障害と、右半身の麻痺を抱え、車椅子の生活を強いられている。
やはりそのことに対して、気の毒だなどと、考えたことは一度もなかった。
玄関で鍵をまわす音がして、夫が足をふらつかせながら扉を開けた。
「美咲は寝たのか」
わたしの顔を見るなり、そう言った。
そのままわたしを無視して、娘の寝室へ行き、そっと寝顔を見つめているようだった。
起こさないように、静かに戸を閉めると、飯は済ませたと短く言った。
「遅かったのね」
そういうと、夫は鼻で笑った。
「お前、俺のこと馬鹿にしているんだろ」
夫は、かなり酔っているようだった。
「俺が何をしても、涼しい顔をして怒りもしない。馬鹿に何を言っても駄目って訳か」
わたしははっとして、夫を見つめた。
昔、似たようなことを言われた。
すかしやがって。
横山が言ったのだった。
そして、横山はわたしの前で死んだ。
「お前が何を考えているか、俺にはわからねえよ。俺のことなんかどうでもいいんだろ」
「そんなことないわ」
「それなら、なぜ本心で話さない。何をお前は隠しているんだ」
あなたには、わかってもらえないわ。
そう心の中で、呟いていた。
黙って、夫を見つめた。
口元がちょっと歪んでいる。
笑っているようだった。
「お前は周りの人間すべてを馬鹿にしているんだ」
嫌な言い方だった。
気が付いたら、掌を固く握り締めているのに気付いて、それを解いた。
次の瞬間、夫がいきなり前のめりに倒れた。
瞳は反転して、白目を剥いている。
「あなた、どうしたの」
わたしは、狼狽した。
一瞬でも、夫を憎んでしまったのか。
そんなことは、ないはずだ。
いままでも、そうだった。
そして、これからも。
何度も、夫の体をゆすりながら、あなたと呼び続けた。
何も反応がない。
気絶しているのか。
そとも。
わたしの思考が、ぐるぐると回り、止まった。
ふと、夫の足元の方へ視線を向ける。
黒い影が立っていた。
一歩、二歩と近づいてくる。
そのたびに、灯りに照らし出されて行く。
娘であることがすぐにわかった。
「美咲、おとうさんが大変な、、」
娘の顔を見て、わたしは言葉を失った。
こめかみに指を当て、鼻から血を流している。
「おとうさんなんか、死んじゃえばいい」
そう言って、娘は微かに笑った。