短編 「憎しみの果てに」 第6話
風が吹いていた。
昼間に暖まった空気が、地上から吹き上がってくるためだろうか。
遠くに黒い稜線が見えた。
麓に広がる、町の灯りが明滅している。
暗いビルの屋上に、人影があった。
フェンスを乗り越え、少し高くなった淵に立っている。
後ろ手にフェンスを掴み、下を覗いていた。
それから一度天を仰ぎ、ゆっくりとこちらの方へ顔を向けてくる。
加奈子だった。
右手を差し出して、小さく手招きしている。
「一緒に来て」
嫌だと思ったが、体は加奈子の方へ引き寄せられていった。
私の手を握り締め、加奈子が笑った。
「真由美。手伝ってよ」
何のことかわからなかった。
何を手伝うの。
言ったが声にならなかった。
「行くわよ」
加奈子が言ったのと同時に、体が浮いた。
浮いたのではない。
落ちている。
手には感触がなかった。
加奈子はすでに、そこにはいなかった。
体がぐるりと回転した。
一瞬、視界の片隅にビルの屋上が映った。
二人の人影。
加奈子の隣に、肩を並べている者。
それは、もう一人のわたしだった。
びくりとして、目が覚めた。
体が震えている。
寒さではなかった。
カーテンの隙間から差し込む朝日に、小刻みに震える右手を翳した。
加奈子が握った感触が、生々しく蘇ってきた。
昨日、加奈子の家を訪ねた。
棺の前に、遺影があった。
それは、おかっぱ頭で眼鏡をかけた、以前の加奈子だった。
入学式の写真だということが、すぐにわかった。
大きく引き伸ばされて、粗れた粒子が、眼鏡の奥にある瞳を曖昧なものにしていた。
小さな、窓のようになった部分を開け、お別れをした。
顔全体が包帯で巻かれていて、口だけが覗いていた。
淡いピンク色の紅がさしてあった。
加奈子の母に、本当のことを言ってしまいたかった。
そして、言えるはずもなかった。
突然の加奈子の死について、両親はその理由を見つけられないでいた。
遺書すらなかったという。
最近明るくなった。
加奈子の母が、とつとつと話しはじめた。
あんなにも無関心だった身なりについても、ファッション雑誌などを見て勉強していたらしい。
コンタクトは、小さなころから貯めていた貯金を引き出して買ったのだと言って、加奈子の母は、口元だけで小さく笑った。
その貯金は、学資のために、加奈子自身がこつこつと貯めていたものだったらしい。
加奈子の母を見ていると、胸が引き裂かれるようだった。
私は、溢れ出しそうになる涙を、必死でこらえた。
同時に、胸の奥底に蠢く憎悪が、次第に大きくなっていくような気がして、それを鎮めようとした。
叔母の口癖が頭の中でこだましたからだ。
人を憎んではいけない。
絶対に。
今度ばかりは、そうはいかないと頭の中で反論した。
世の中には、憎しみに値する人間だっているのだ。
一人で下校した。
駅まで100メートルというところで、人影が私を取り囲んだ。
両脇から腕を捕まれ、騒ぐなと耳元で囁いてきた。
強引に、路地裏に引きずり込まれる。
大声を出そうと暴れたとき、目の前が青白く光った。
ナイフだった。
恐怖で足が震えた。
大声など、出る筈もなかった。
引きずられるようにして、雑居ビルのような所まで歩いた。
歩きながら、私を取り囲む者達が誰か、やっとわかった。
田口と横山。
そして、武田だった。
私はそのとき、自分が何故こんな目に遭うのか、瞬時に理解した。
口封じのためだろう。
人の気持ちを弄ぶような賭けのために、加奈子を死に追いやった。
それを知るものは、私だけなのかもしれない。
古いエレベーターで最上階まで行き、そこから階段を上って、屋上へ出た。
ドクンと、心臓が大きな音を立てた。
肌が粟立つ。
私はしばし、ナイフで脅されているという事実も忘れてしまったようだった。
目の前に広がる光景は、昨夜観た夢と同じだった。
昼間に暖まった空気が、地上から吹き上がってくるためだろうか。
遠くに黒い稜線が見えた。
麓に広がる、町の灯りが明滅している。
暗いビルの屋上に、人影があった。
フェンスを乗り越え、少し高くなった淵に立っている。
後ろ手にフェンスを掴み、下を覗いていた。
それから一度天を仰ぎ、ゆっくりとこちらの方へ顔を向けてくる。
加奈子だった。
右手を差し出して、小さく手招きしている。
「一緒に来て」
嫌だと思ったが、体は加奈子の方へ引き寄せられていった。
私の手を握り締め、加奈子が笑った。
「真由美。手伝ってよ」
何のことかわからなかった。
何を手伝うの。
言ったが声にならなかった。
「行くわよ」
加奈子が言ったのと同時に、体が浮いた。
浮いたのではない。
落ちている。
手には感触がなかった。
加奈子はすでに、そこにはいなかった。
体がぐるりと回転した。
一瞬、視界の片隅にビルの屋上が映った。
二人の人影。
加奈子の隣に、肩を並べている者。
それは、もう一人のわたしだった。
びくりとして、目が覚めた。
体が震えている。
寒さではなかった。
カーテンの隙間から差し込む朝日に、小刻みに震える右手を翳した。
加奈子が握った感触が、生々しく蘇ってきた。
昨日、加奈子の家を訪ねた。
棺の前に、遺影があった。
それは、おかっぱ頭で眼鏡をかけた、以前の加奈子だった。
入学式の写真だということが、すぐにわかった。
大きく引き伸ばされて、粗れた粒子が、眼鏡の奥にある瞳を曖昧なものにしていた。
小さな、窓のようになった部分を開け、お別れをした。
顔全体が包帯で巻かれていて、口だけが覗いていた。
淡いピンク色の紅がさしてあった。
加奈子の母に、本当のことを言ってしまいたかった。
そして、言えるはずもなかった。
突然の加奈子の死について、両親はその理由を見つけられないでいた。
遺書すらなかったという。
最近明るくなった。
加奈子の母が、とつとつと話しはじめた。
あんなにも無関心だった身なりについても、ファッション雑誌などを見て勉強していたらしい。
コンタクトは、小さなころから貯めていた貯金を引き出して買ったのだと言って、加奈子の母は、口元だけで小さく笑った。
その貯金は、学資のために、加奈子自身がこつこつと貯めていたものだったらしい。
加奈子の母を見ていると、胸が引き裂かれるようだった。
私は、溢れ出しそうになる涙を、必死でこらえた。
同時に、胸の奥底に蠢く憎悪が、次第に大きくなっていくような気がして、それを鎮めようとした。
叔母の口癖が頭の中でこだましたからだ。
人を憎んではいけない。
絶対に。
今度ばかりは、そうはいかないと頭の中で反論した。
世の中には、憎しみに値する人間だっているのだ。
一人で下校した。
駅まで100メートルというところで、人影が私を取り囲んだ。
両脇から腕を捕まれ、騒ぐなと耳元で囁いてきた。
強引に、路地裏に引きずり込まれる。
大声を出そうと暴れたとき、目の前が青白く光った。
ナイフだった。
恐怖で足が震えた。
大声など、出る筈もなかった。
引きずられるようにして、雑居ビルのような所まで歩いた。
歩きながら、私を取り囲む者達が誰か、やっとわかった。
田口と横山。
そして、武田だった。
私はそのとき、自分が何故こんな目に遭うのか、瞬時に理解した。
口封じのためだろう。
人の気持ちを弄ぶような賭けのために、加奈子を死に追いやった。
それを知るものは、私だけなのかもしれない。
古いエレベーターで最上階まで行き、そこから階段を上って、屋上へ出た。
ドクンと、心臓が大きな音を立てた。
肌が粟立つ。
私はしばし、ナイフで脅されているという事実も忘れてしまったようだった。
目の前に広がる光景は、昨夜観た夢と同じだった。