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ホテルの部屋はあまり広くなかった、、。
滞在中に吉川の副社長に接触するかどうか、悩み中。
前回の続き。
いじめ問題を論じるとき、問題の焦点は「いじめ」ではなく、組織、共同体の「ありかた」である。
そこを考えずに、人道的に問題を捉えたり、監督者の隠蔽体質を問題化しても話は進まない。
さて、その組織、共同体が、何のために存在しているかによって、そのなかの人々の考え方は決まってくる。
学校が教える「教育」には、社会を良くしたり、人間性を磨くような「教育」は含まれていない。
建前としては存在するかもしれないが、実際のところは「教養」や「知識」を、試験問題に解答する能力に置き換え、そこで順位をつけるために存在する。
子供たちはそれに疑問を感じながらも、定期的に来る試験をクリアしていくことに達成感を感じる。そうやって「勝者」になる方法を覚えていく。
一方、その「教育」から外れた子供たちはどうなるかというと、窮屈で未来を簡単に予測できる閉鎖的な空間で無為に楽しくやり過ごそうとする。
教師は「教育」から自ら進んで外れた子供をうまく怒る言葉を知らない。
そりゃそうだろう。その「教育」が生み出した競争や序列が生み出した社会の中で、教師の地位はあまりに低い。
「教育」の意味が今の「教育」になる前は、自分の人生を未熟な子供達を導くために費やしているのだから、確かに教師は聖職者であった。
今となっては、「教育」のその先の「一番の成功者の姿」からはあまりにかけ離れた教師が、なぜだがそのやり方を教えなくてはいけない。だから時として自尊心を失った卑屈な教師は、性職者になったりする。
この間の、学校として実施する授業として必修科目が足りていなくて、生徒たちは大切な受験の時期に受験科目以外の授業を受けなくてはいけない、という問題があったのは記憶に新しいだろう。
テレビ報道では、謝罪する校長に対し「受験勉強で時間がないのに、どうしてくれるんですか」みたいな問いかけをして他の生徒たちから拍手を浴びる生徒が何回か映っていた。
子供は嘘をつくのが上手い。すぐにそういう空気を読む。周りを見てそういう反応をする。その反応がマスコミ映えするのを知っているのだ。本当に、本当に「お勉強」で時間が足りないと思っているやつらがいるなら、そのバランスの崩れた考え方の方が私は心配である。
いじめ問題についてですが、問題の焦点は二つあって、
一つは、なぜいじめが起きるんだ、という問題。
もう一つはいじめが起きた際の、学校側の「見てみぬ振り」や、自殺などの事件につながったときの、学校側の「隠蔽体質」という
組織としての問題。
で、後者について考えたことを書きます。
現場にいる教育者が、いじめに気が付かないわけがない、じゃあ気が付いたらなぜ止めないか、という意見が多々あるかと
思いますが、実際は、現場教育者が「本当にいじめに気がついていない」のではないかと思う。
ある機会で中学教師の話を聞くことが度々あり、また、自分が生徒の時のことを思い出してみると、教育者は生徒一人一人を見ているわけではなく、「集団」として捉えている気がする。
生徒40名からなる、ある一クラスを担当する教師がいたとして、彼にとってはその一クラスの中に小さな問題を抱えた5人前後のグループが8組いるよりも、「いじめ」という問題を抱えた一クラスとしてのまとまった1組がいた方が、管理しやすい上に、業務上の問題としては「軽症」であり「統率が取れている」状態ではないのだろうか。
教師も人間なので、当然個人差はあるだろうが、どうもそんな気がしてならない。
その場合、当然のことながら「集団」としての一クラスが抱える「いじめ」という問題は、教師にとってはまるで深刻な状況ではなく、むしろ一人のスケープゴートによって、組織がうまくまとまり機能している理想的な状態と言えるのではないだろいうか。
自殺者が出て、事態が事件化するまでは、だが。
こういうケースは学校を出ても、あらゆる組織で見られる現象である。
ただ一つ違うのが、まだ独立心が養われていない、判断力の乏しい集団の中では、「周りがやりすぎてしまい」また
被害を受ける個人が「傷つき過ぎてしまう」という部分だ。
学校は、教育現場は、管轄する側は、集団が抱える「いじめ」問題を、問題と捉えていない。
「いじめ」を隠蔽するのではなく、「いじめ」と認識すらしていない。
事態はもっと深刻なのである。







