こんにちは。
とある女子大生です。
今日のテーマは「福祉」です!
「福祉」って聞くと皆さんは何を思い浮かべますかね?
個人的には、福祉=介護って答えるひとが多いのではないかなと思います。
無論、それは間違っていません。介護も福祉です。
…結局何が言いたいのかというと、福祉はもっと広くて漠然としているということです。
みんなが安心して幸せに生きていけるように、生きていける環境こそが福祉ではないかと個人的には考えています。年齢、性別、人種、国籍などなど、一人一人にとって「幸せ」は違います。だから福祉は漠然と広いものなんです。
現実をみろ、そんなの夢物語では・・・?そういった声も事実だと思います。社会福祉士はそんな夢を追い続ける仕事ではないか、そうであってほしいと社会福祉士の卵である私は考えています。
私の死生観
前書きはこんな感じで、今日話したい話は福祉でも特に死生観についてです。
「人はなぜ死にたくなるのか」、「死にたい人にどう向き合えばいいのか」、考えたことありますか?
それを考えることも福祉だと私は思っています。
私は大学生になってから、授業で自分の死生観を問われる場面が増えました。
勿論ですが、福祉を仕事にしたいと頑張っている友達同士でも意見は割れます。
「生きていてほしいけど、生きていてほしいって言っていいのか」「死にたい人を支える周りの負担は?」「自殺をする権利があるとしたら賛成か、反対か。」など様々な意見が飛び交います。
でも、結局答えはでないんですよね。考え続けるんです。けど、そのたびに自分の力不足をひしひしと感じます。
ただ、思うんです。死にたくなることの原因は自分にはないんじゃないかと。
死にたくなったら死にたいほど辛くなったなら、誰かの、何かのせいにしていいんじゃないかって。障害のせい、あいつが不幸にしたから、お金がないせいで…。そんなように。
でも誰か・何かのせいに出来なくて、人は生きている責任を負おうとして、でも負いきれなくて、自分が自分であることに嫌になって、なかったことにしたくて、逃げたくて、消えたくなってそして「死」を選んでしまうのかなと。
こんなに豊かに物資がある国で、こんなに死にたくなる人が多いのはそういった真面目な人が多いからなのかなと考えたりもします。
自分の死への向き合い方
自分は、そういった死にたい気持ちを「理解したい」人でありたいと思っています。
私自身、中学生の頃に死にたい気持ちがにわかに強くなってはさみを手に取り、お腹に向けた記憶があります。(今の自分からすると切腹でもすんのかwって感じですが)自殺のやり方も知らず、自傷行為も分からず、衝動的に動いていましたね、あの時は。ただ、思い返すと、その時の自分は理解してくれる(理解しようと歩み寄ってくれる)人が周りにいなくてそばに人はいるのに孤独だったなと記憶しています。そんな経験から、今の自分は、死にたい気持ちを持った人と出会うことが出来た時に、その人を一人にさせたくないなと思っています。あの日の自分がほしがっていたものを目の前にいる人にあげられているか、それが自分の行動基準にもなっていたりもします。
「理解できる」ではなく「理解したい」と書いたのは、まさにこの行動基準からくるものです。
個人的な考えですが、人は「~出来る」と思った瞬間に「やろう、し続けよう」という気持ちを失うと思っています。
このことから、「理解できた」瞬間に自分はその人に対して考えることをやめてしまうのではないかと思うのです。そしたら、その人はまた世界に一人になってしまう…。だから「理解したい」=「理解し続ける」ひとでありたいと思っています。
終わりに
ここまで、長々と書いてしまいましたが、もし読んでいただけた人がいて何か新しく考えるきっかけになれれば幸いです。あくまで、私個人の考えや話なので間違っている部分や、気分を悪くさせてしまう部分もあるかもしれません。すみません、そこはご了承ください。
こんなことを書いていながら、自分が生きていくだけでも大変で苦しい世の中だとひしひしと感じています。自分以外の誰かを思って考えられる余裕をもてる世の中になればな…なんて思いながら今日は締めさせていただきます。読んでいただいてほんとにありがとうございました。
