一か月を超える長期アインシュタインLOVE展閉幕、関係者様には大変ありがたく感謝いっぱいでございます。お疲れさまでした。
今回は地元で「杉元賢治コレクション」展示にあたり、アインシュタインの研究に情熱を傾けた近畿大学教授・杉元賢治(1947-2006年)の膨大な「アインシュタイン関係コレクション」のなかから切手・コイン・メダルの数々やキャラクター小物などの関連グッズを紹介していただきました。
門司港上空より杉元賢治も大変喜んでいたと思います。
ほんとうにありがとうございました。
アインシュタインは科学者としの功績はご存知のとおりですが、今回を機に「人」としての人生も振りかえっていただければ、
・子育て
・教育とは
・人生観 にもヒントになるかもあるかもしれません。
少しご紹介いたします。
天才と教育(I):アインシュタインの脳
Genius and Education : Einstein’s Brain
杉 元 賢 治 より抜粋
今世紀最大の超天才科学者アルベルト・アインシュタインが若い頃には落ちこぼれであり、ギムナジウム時代は“のろまな奴”と呼ばれ、大学時代は“なまけものの犬”と言われ、通常の学校・大学教育には馴染まない権威への反逆者であった。
ドイツの学校教育にも馴染めず、暗記ものは全く駄目でとりわけ強制的な詰め込み勉強は駄目であった。先生のことを軍曹のようだと言い、先生に楯を着いたようで、先生からも「君がいるだけで僕の権威が損なわれるのだ」と言われ退学を勧められている。このころからアルベルトは協調性が全くなく、独立独歩の人生を歩む芽が育まれていたようである。
科学への初恋
5歳の時、病床にあったアルベルトに父は羅針盤を与えた。「目に見えない力によって羅針はいつも同じ 方向を指している!どうしてだろうか?物事の背後には奥秘められたものが隠されているにちがいない。」科学への神秘性へと魅せられたアルベルトはこの感動的な出来事を1949年に出版した彼の自叙伝の中でも回顧している。
マックス・タルメイとの出会い
叔父であるヤコブ・インシュタインがアルベルトに数学の古典であるユークリッドの『幾何学原論』を贈る。ギムナジウム時代のアインシュタインは学校での退屈な授業よりもアインシュタイン家を時々訪問していた医学生マックス・タルメイより数学の手ほどきを受け飛躍的に上達する。ピタゴラスの定理を自力で証明したり、微分積分学独学で習得した。タルメイ自身「アルベルトは私を超えてしまった。」と証言している。
大学受験に失敗
高校の卒業証明書を持たなかったアインシュタインは入学試験にのぞまなければならじゃかった。
ドイツの大学は嫌い、しかもドイツ語圏になると必然的にスイス連邦工科大学受験となった。数学と物理学ではよい点数を取ったが、他の科目は全く駄目で不合格となった。そこでアルベルトは一年間アーラウ州立学校に通い、大学入学資格を習得する。
大学時代は“なまけものの犬”
大学には入学にしたがとにかく真面目に講義には出席せず、実験室でボルツマン、ヘルムホルツ、ヘルツ、マッハ、キルヒホッフの著作を読みあっさていた。教員からは嫌われ“なまけものの犬“と言われ、試験の時は友人のマルセル・グロスマンのノートを借りて辛うじて進級する。
ある教授からは「君は物理学の才能がないから、法学か医学に専攻を変えた方がいいのではないか」と言われたが、アインシュタインは「才能がないから物理学にしがみついているのです」と発言する。指導教授のウェーバを呼ぶのに「Herr Professor Weber(ウェーバ教授)」と呼ばずに「Herr Weber(ウェーバさん)」と呼び、ウェーバの気分を害する。
そんな訳で、卒業後、他の同級生は助手として大学に残るが、アインシュタインにはポストは与えられなかった。権威主義者の教授たちは、アインシュタインの奥秘められた才能を全く理解できなかったし、理解しようともしなかった。
臨時の工業高校の教師をしたり、家庭教師をしたりして食いつなぐが、「数学と物理学の家庭教師をやります」という広告をベルンの新聞にだすなど、あの偉大なアインシュタインからは想像できない。
権威など何のその、世間知らずの向こう見ずさには驚くが、このライフ・スタイルは終生変わることはなかった。同級生マルセル・グロスマンの世話でベルンのスイス特許局にパンのために就職する。
“奇跡の年(annus mirabilis)”
1905年は、奇跡の年と言われ、アインシュタインは”Annalen der Physik”に、量子論、相対性理論、ブラウン運動、E=MC2に関する大論文を矢継ぎ早に発表する。理論物理学者マックス・ボルン(1954年、量子力学の統計的研究によってノーベル賞受賞)は「アインシュタインの1905年のどの論文を取ってもノーベル賞に値する」と言い切る。
大学とは無関係の特許局という環境がアインシュタインの能力を開花させたのである。しかし、物理学科出身で特許局に勤めた者がアインシュタインのような研究業績が残せるかというと、それは疑問である。やはりこの快挙を成し遂げるのは先にも後にもアインシュタインしかいない。
そういえば、ニュートンが重力の理論や微分積分を発見したウールソープの村、レオナルド・ダ・ヴィンチが数々の構想を育んだ簡素なヴィンチ村もまた自然と調和した思索の場所であった。アインシュタインは自然と調和した自由な思索の場ベルンをほどなく愛した。特許局には7年間勤めたが、この間、大学教授の資格(Habilitation)を取るためにベルン大学の私講師を務めるが、チューリッヒ大学から講義の様子を見に来たクライナー教授の失望に対して、アインシュタインが「大学教授にならなくてもいいのです」と言ってるあたりは、天の邪鬼といった精神構造を示している。
その後は、チューリッヒ大学の枠外教授、プラハのドイツ大学、一般相対性理論の完成、母校ETHへの凱旋、講義義務のないベルリン・科学アカデミーへ招聘と栄光の実験的証明(1919年)は、アインシュタインを世界的に有名にし、象牙の塔から公の舞台に登場することとなった。1922年には日本を訪問している。
皆様はどのような人生を・・・教育、子育てを?!
杉元賢治コレクションおよびアインシュタイン展
http://kenko777.takara-bune.net/sub17.html
http://kenko777.takara-bune.net/sub8.html
http://www.einsteinlove.jp/page/
次回、教育子育てについて…