自叙伝|徒然なるままに  ~想いは巡り 言の葉は舞う~ (ameblo.jp)

 

まずは、上の記事を読んでから続きをどうぞ。

 

 

自分の身に起きたいじめという事象について、何が原因で

何でいじめられたかを客観的に考えた時、

いじめをした側の気持ちを考えることで、その子が何を苦しんだのか。

何が悲しかったのか。少しわかった気がした。

 

客観的に自分を見ると、とてもワガママで自己主張が強くて

無責任。八方美人で、優柔不断。

え?いいところないじゃんw

 

でも、それには自分なりの生きてきた過程があってのこと。

それは、うちだけじゃなく、誰にでもあることなのだということにも気づいた。

そう、母にも生きてきた過程があるのだ。

 

 

母は、戦後10年経ったくらいに生まれた。

世間は、高度成長期でそれなりに復興をしていたのかもしれないが、

裕福な家ではなく、長女であることから家族を支えるために、

中学を卒業してから、働きながら高校に通うという苦労人であった。

家族のために自分を犠牲にして生きてきた人。

うちとよく似た環境だったのだ。

それは、祖母がそういう育て方をしたということで、

そういう環境で、家族のために頑張ってきた母が自分の子供に

期待や依存をするのは当たり前のことなんだと思う。

それが、母の生きてきた環境では常識だったのだから。

 

でも、世間は変わる。戦後すぐのような苦労のない今の時代。

子供は守られるべき存在で、教育を受けるのは当たり前で

家族の一員ではあっても、家族の犠牲になることはない時代。

そんな世間の変化に、うちの実家はついていけなかった。

ただ、それだけなのだ。

母も、祖母も自分の生きてきた環境の中で得た常識の中で

うちを育てただけ。

 

 

子供の時から苦労をしてきた人。

『長女なんだから』と、家族のために自分の人生を犠牲にしてきた人。

祖母に愛情を求めるよりも、愛情を返すために

祖母の期待に応えるために生きてきた人なのだ。

そんな母が、愛情を求める対象が子供に向いたことは当然の結果かもしれない。

旦那である父に求めたこともあったかもしれないが、

母が望む形では返ってこなかったのかもしれない。

だから、余計に子供に向いてしまった。

 

こういう見方をすると、可哀想な人で、うちという子供からも裏切られた人なんだろうなあ。

そして、その感情が憎しみに変わっていったのかもしれない。

 

こう考えると、誰も悪くないんだと思う。

愛情の形が違っていて、求める対象がちがっていた。

依存する相手が違っていただけで、そのすれ違いの結果が

我が家だった。

 

形としての愛情の表しかたが、「お金」というものになってしまったこと。

そういうものでしか心を満たせなかったこと。

今の時代で表現すれば「病んでいた」「精神的な成長がなかった」

「脳に障害があったのかも」という話になるのかもしれない。

 

こうやって母の生き方を分析すると

母なりの常識と正義と愛情は確かにあったのだろうと思う。

それを「正しい」とは言わないけれど

そういう考え方を一概に否定していいわけではないと思う。

自分は、同じような経験の中で、色々学んだ。

自分が悪いこともあったと自覚できた。

それが出来ないことが悪いことではない。

ちょっと勿体ないとは思うけど。

 

こういうことを色々巡らせることが「寄り添う」ことになるのではないか。

その人の生き方を知ることで「許せること」に繋がることも知った。

 

 

母のことだけではなく、うちは自分が関わる人に対して

されたことに対する「裏の事情」を考えるようになった

うちが腹立つことでも、相手からしたら「常識」なのかもしれない

そう思うと「しょうがない」と受けとめれるようになった。

 

それだけで、人間関係は成り立たないのだけれど

根本的な考え方が、自分の主張よりも相手の考え方を知ること。

そのうえで相手がうちに望んでるものをうちがかなえられるのかどうか。

そこで判断するようになった。

 

出来ないこと、したくないことそこは我慢はしない。

その結果、離れられたり、関係が終わること、それは仕方ないと思えるし、

それでも、関係を続けてくれる人たちに対しては、できることを増やしていこうと思うようにもなった。

 

 

私という人間は表面上は「優柔不断」「八方美人」といわれるタイプに入るのだろうが、

相手によって出す答えが変わるのは、相手の生き方を尊重するからであって、

それがイコール私の常識と同じではない。

相手の話は、相手の人生として許容するし、認めるけれど

自分の人生とは別物。

理解はできても、大きく共感はしない。

 

出来ないではなく、しない。

共感しすぎてしまうのも依存させてしまうので。

 

 

うちの半生で、できあがったうちの根本はカオスですが

相手の人生は否定しない。

これが、私。

 

こういう考え方は、すごくしんどい時はあるけど

一番、自分のストレスを無くしてくれることでもある。

ストレスを感じない人生より、ストレスを糧にできる人生は楽しい。

 

母とのことは、母を理解したことで終わりです。

なぜならきっと相容れることはないので。

 

ただ、そういう見方ができるようになったことで

自分の子供時代、母からの愛情が無かったと思っていた自分が

変化しました。

母からの愛情はあった。

それは少し歪んでいて気づきにくいものではあったけど

うちは愛されていたことを思い出せた。

それだけで、十分自分が存在していい理由になってる。

 

 

今の自分が在ることを、許してくれるすべての人と環境に

感謝を感じつつ、自分を成長させていくのが、うちの人生の意味だと思っています。

 

私という人間の基礎はこうして出来上がりました。

ここから、色々なことが付属していくのですが、その話はまた別の機会に(笑)

 

こんなくだらない話を読んでいただきありがとうございました。