2010年初にして、久々の更新となった。
『新しく変化』の標語の下、悔い改めと聖霊の御働きが起こった2009年。
摂理史においても大きな転換の年となり、最高の恵みの時を迎えた。
こと『トマトの福音書』に関して言えば、昨年は僅か2章のみの執筆。
これも悔い改め事項に該当するだろうか。

さて、農業において切っても切れない関係にあるのは、土である。
土とは本当に神秘的なものであり、我々人間の生命と生活には決して欠かすことのできない存在である。
今回は、土について考えてみたい。

街中の本屋で、ふと目に留まった書籍があった。
リンゴ農家の木村秋則さんが執筆した、『すべては宇宙の采配』だ。
「奇跡のリンゴ」と言われ、リンゴの無農薬・自然栽培の成功で注目を集めた方である。
その著書の中で、「山中という厳しい環境の中で実を成らしていた、野生の木の根元の土はふかふかであった」と証言している。

作物にとって土は命だ。
土の質が、農作物の善し悪しを左右する。
比喩によって書かれている聖書にも、土に関する譬え話はよく登場する。
幾つかの聖句を見てみよう。

「神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた」(創世記2:7)

これは創世記の有名な一節で、天地創造により神様が人間を造った場面である。
神様は文字通り、土によって人間を創造したのではない。
人間が食べる動物・植物は、食物連鎖の中を巡り巡って、その起源をたどれば土から採れるもの(農作物)を食べていることになる。
であるから、人間の体は土からできていることと同じであり、そう表現したのである。

「天国は畑に隠された宝である」(マタイによる福音書13:44)

畑とは、すなわち土のことである。
隠された宝を、畑を掘り出して得るように、天国は自ら見出して勝ち取っていくものである。
イエス様が縮小版の天国であり、天国を襲う者は奪うようになる。(マタイによる福音書11:12)

天国は心の中に存在するのだ。(ルカによる福音書17:20~21)
自分の心を深く掘り下げた時に、自らの潜在能力やタラント(才能)を発見することができるし、
神様が一人一人に望んでいる御旨御心を悟ることができる。
そして、心の愛の実で霊体のイエス様と通じ、愛するようになるのだ。(2009年12月13日主日、『分かって行いなさい』)

「1タラントを任された僕は、主人の金を地の中に隠しておいた」(マタイによる福音書25:14~30)

僕が主人に任された働きをせずに怠け、有益を残せなくて裁きを受けた譬えである。
このように、人間と主の間でも同じであると言える。
ここで問題なのは、僕の実力相応に任されたにもかかわらず行わなかったことだ。
怠惰であったとも言えるし、自らの才能に気づくことができなかったとも解釈できそうだ。

「肥沃な地に種を蒔くように、御言葉をどのように受け入れるかで信仰の実の結びが変わる」(マルコによる福音書4:3~20)

これは、イエス様が語られた深い説教だ。
同じ御言葉を聞いていながらも、どのように聞くか、どのように実践するか、またその人の心次第で救いが左右されてくる。
主は我々人間を分け隔てなく愛して下さっている。
結局は、我々が主に対してどのように接するかで、天国も地獄も決まってくるということだ。

心を畑(土)に譬えた有名な聖句だ。
我々は、日々新たに心を耕していく必要がある。

これまで心の畑について述べてきたが、「心を耕す」と聞くといつもある場面が思い出される。
グラウンドでサッカーをやった時、足元が慣らされておらず、地面が固まっていた。
しかし、サッカーを続けてプレーしていると、自然とグラウンドが柔らかくなり、ちょうどいい具合になった。

「心もこのようにこうだ。使うほど、磨くほど柔らかくなり、慣らされる」

ものは、使えば使うほど壊れやすくなると思いがちだ。
しかし、使うほどより理想的に洗練される場合が多い。
例えば、人が住まなくなった民家は、一気に廃れてしまう。
少し前の話、2004年秋には『使わないと壊れる』という主題で、主日の説教がされた。
肉体も精神も霊魂も、使うほど、開発するほど成長し力を発揮するようになるのだ。

今週の水曜礼拝の主題は、『心、精神の世界を学びなさい』。
心に抱く思いや、脳に入力された思想観念によって、肉体が行うようになる。
全ては心から運命が左右されるものだ。
だからイエス様も、「心を守りなさい」、「心の門の戸締りをしなさい」(2010年1月17日、主日礼拝)とおっしゃった。
患難と再臨が差し迫っているこの時、心を強く作って治めていくことが急務だ。
トマトの福音書 ~成約摂理聖書外伝~-土

かなり久々の更新となった。
前回の書き込み以来、実に半年近くの月日が流れてしまった。
「歳月人を待たず」、「光陰矢のごとし」とはよく言ったものである。

さて、今回は「時」について。
野菜からは少し離れてしまうが、農業の仕事をしている最中に悟ったことなので、ここに書き記しておきたい。

農業は朝早くからの作業なので、自宅ではなく勤務先で朝食を食べることが多い。
その日も、朝食用に弁当を用意して出勤した。
しかし、あまりにも多忙で休憩を取る暇もなく、一息ついた時には既に正午を大幅に回っていた。
この時に、朝食用に持って来た弁当を見ながら受けた霊感。

「朝食は、朝食べるから朝食なのである。同じ朝食を用意していても、昼に食べたらそれは昼食になる。このように同じ事をやるにしても、時に従ってその価値性や意味付けが変わってくるものだ」

つまり、全く同じご飯を食べるにしても、朝に食べるか昼に食べるかで、それは朝食にもなり昼食にもなり得るのだ。
例えて言うなら、お母さんが朝食として子供にチャーハンを用意したとしても、息子が寝坊して昼間に起きたら、その時食べるチャーハンは昼食となる。
いつ食べるかで、その価値や意味合いが変わってくるのだ。

神様の歴史についても同じようなことが言える。
時代性に合わせて、神様の人間に対する接し方も、僕(しもべ)級・息子級・恋人級へと変化していく。
今は、主を新郎として迎える新婦の時代だ。
真理は永遠不変であるが、その掟や律法も時代とともに変化していく。
旧約時代ではモーセの十戒が律法、新約時代ではイエス様の御言葉が律法となった。

このように、全ては時に従って変化していくものなのである。
先生は、柿の木から神様の歴史の時代性を悟った。
木陰に弁当を置きながら農作業をしていたが、しばらくすると何者かによってそれが日なたに移動されていた。
その弁当を再び日かげに移して農作業に取りかかったが、しばらくして振り返ってみるとまた日に晒されている。

これはつまり、太陽が空を移動するに伴って木陰の向きも変わっていったということだが、先生はこの出来事から時代性を悟った。
太陽の動きによって木陰の向きが変化するように、神様の歴史も時代性に従って変化し前進していく、ということだ。

今年の標語は『新しく変化』、実にここまで様々な変化や転換点があった。
御言葉の方向性、先生の裁判結審、聖霊運動など、摂理全体の流れがキリストの再臨へと向かっていき、集約されていっている。
御言葉から、また預言者や啓示者の口からひたすら出てくるのは、「時間がない」という言葉だ。
世界では来たるべき患難が既に始まり、主の最後の再臨が差し迫っている。
時間を惜しんで主を迎える準備をすること、患難を前にした最後の恵みの時を掴むことが、今この時代を生きる私たちのなすべきことなのである。

「あなた達が思うよりも もっと早い
時間を惜しみ 清く備えなさい」(『祈りなさい』)

トマトの福音書 ~成約摂理聖書外伝~-おむすび

仕事とは直接関係のない話ではあるが、メンバーと共にしていた時に感じた事を書いてみたい。
とある施設で、2つの部屋があった。
部屋は壁で仕切られていたが、一本の通路のようなもの(出入口)でつながっている。
一方は比較的明るい部屋で、もう片方は前後左右が分からないほど真っ暗であった。

ここで、おもしろい事に気がついた。
農夫は最初明るい部屋にいたのだが、こちらから暗い部屋の様子は全くと言っていいほど分からない。
だが、暗い部屋に移動してみると、先ほどいた明るい部屋の様子が手に取るようにハッキリと見えるのだ。
この出来事を通して、「光の主管圏」と「闇の主管圏」のことを悟った。
主や御言葉や救いの道など、天に属するものは光に例えられる。
一方、憎しみや妬みや争いなど、サタンの主管から生じるものは闇だと言える。

暗闇の中では一筋の光が際立つように、光の主管圏(神様の世界)は栄えれば栄えるほど際立ち、目立つようになる。
しかし暗闇は、深くなればなるほど状況が全く掴めなくなる不気味な世界だ。
摂理も、若者と命の溢れる活気に満ちた世界であるからこそ、外部から妬みを買ったり、無知による迫害を受けることもあるのだ。
聖書に書かれてきた神様の歴史には、患難や迫害がつきものであった。
自ら生じた罪悪によるものでなければ、患難を受けることは神様の真の歴史であることの証明だとも言える。

先週2/15の主日の主題は、『天国のための善なる戦い』。
命の道(救い)と、世の道(死亡)について御言葉が出た。
光の世界はいつも輝いていて、ひときわ目立つものなのである。
トマトの福音書 ~成約摂理聖書外伝~-ビックバン
「万物は神様の御言葉の展開体であり、神様の創造作品である」

先週の主日礼拝から抜粋した御言葉だ。
神様は愛と真理の根源者であり、様々な形でご自身の姿を現す。
自然万物を通して、たくさんの啓示をくださる。

農夫が摂理に導かれたばかりの頃、御言葉を聞いていて少し理解しがたかった内容が、「自由意思」の話であった。
信仰の先祖・アダムとエバの堕落は、人間が自由意思を持っていたからこそ起こってしまった事件である。
なぜ、神様は自由意思を与えたのか?
なぜ100%神様に信じ従うように、人間を創造しなかったのか?
そのように創造したなら、人間同士で憎しみ合い殺し合う世界にならなかったのではないか。

BSでは、
「何でも言われるままに無条件従うロボットのように人を創造していたら、神様も栄光を受ける甲斐が少ない。むしろ自由意思を与えた上で、人間自らが進んで天に栄光を帰してこそ、神様も喜びを感じる」
と聞いた。
頭では理解できたが、なかなかスッキリと納得はできなかった。

なぜ人間には、各自に個性や特徴があるのか。
それが長所となるなら喜ばしいことだが、自分の個性や性格に弱みを持っていたり、コンプレックスを感じている人も多い。
なぜ神様は、人間に「弱点」を残したまま創造したのだろうか。
もちろん、人間とは神様が創造した最高傑作品である。
しかし、誰もがキリストのように完全な存在体にはなれなかったのであろうか。

数年間、その点が心のどこかで引っかかっていた。
だが、仕事中にその疑問が解かれるような霊感が下った。

「天地創造のプログラムは、字を書く作業のようなものである」

ヨハネによる福音書1:1を開くと、
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」
とある。
ここで、言葉とは法則のことである。
つまり、法則の神様だということだ。
神様は、法則に基づいて天地を創造した。

字を書くにしても、同じようなことが言える。
字を書く作業(能力)を、法則だと考えてみよう。
同じ人が、同じ環境で、同じ道具を用いて、同じ字を書き続けたとしても、全く同じ形の字は二度と書けない。
形・太さ・大きさ・バランス、どこかが異なるであろう。
書道をやっていた人は実感できるのではないだろうか。

このように同じ能力を持った人にも、全く同じ字は書けない。
天地創造でも、神様はこのように法則に従って万物を造ったのではないだろうか。
法則を定めておいて、あとは多種多様に創造されるメカニズムを整えた。
もちろん全知全能な神様であるから、不可能なことはない。
ただ、生命誕生の法則を定めておいて、自動的に循環(進行)するように準備したのではないだろうか。

パソコンであれば、プログラミングをしたら一定に起動する。
バレーのアタック練習で、ひとたび方法と手順を伝達すれば、誰が指示するでもなく人が自然と循環するようになる。
自動車のウインカーも、常に一定の間隔で点滅する。

神様はこの世界を、精密に、雄大に、美しく創造されたのである。
万物に目をやれば、様々な形で神性を感じ取ることができるのだ。
トマトの福音書 ~成約摂理聖書外伝~-筆
「悪魔が吠えたける獅子のように、食い尽くすものを求めて歩き回っている」(ペテロ第一の手紙5:8)

農夫が摂理に導かれて間もない頃、この聖句を中心として主日の御言葉が宣布されたことがあった。
霊界では、常に信仰の戦争が起こっているという。
神様側の善とサタン側の悪が、絶えず霊的な命(霊魂)を奪い合っているのだ。
霊の世界は、肉の世界に反映される。
信仰生活を歩む中では、「真理」や「救い」などで霊的な武装をし、いつも緊張の心を持っている必要があるのだ。(エペソ人への手紙6:13~17)

今日の主日礼拝の主題は、『神様の御心/兆候としるしと啓示/持って生まれた人』。
本文の中で、「人々は啓示で悟らせてもらったことを守らず、すぐ忘れて緊張を緩める」とあった。
緊張と聞くと、心的なストレスやプレッシャーのことを想像するかもしれない。
例えば、重責を任されたり、公衆の面前に立ったり、自己表現をする際に感じるものだ。
しかし、緊張は何も心だけがするものではなく、体もするものである。
その一例が、筋肉だ。

筋肉は、常に緊張と弛緩を繰り返しながら、我々の体を構成している。
腕を曲げる時、上腕の二頭筋(内側)は縮まって緊張し、逆に三頭筋は伸ばされて弛緩する。
腕を伸ばす時は、その反対の運動である。
農夫は生物学専攻ではないので詳しくは分からないが、このように動物は「緊張と弛緩」の活動を常に行なっているのだ。

「生物は緊張により存在している」
そのような霊感がはっきりと下った出来事があった。
ある一個の白菜が目に入ってきた。
長い間放置されていたようで、既にかなりの腐敗が進んでおり、異臭を放つ汁が流れ出していた。
商品価値からしても、それは「腐敗=死」の状態だと言えよう。
ではなぜ、死んだ白菜から体液が流れ出すのか。
生前にも、白菜には体液が存在していたはずではないだろうか。

それは白菜の死によって、緊張の状態から解かれてしまったからであろう。
確かに、白菜の身自体が溶けて液状になったとも言える。
全体が緊張を保っていた白菜が、死によって体が緩み、体内の水分が流れ出るようになったのだと考えられるのだ。

人について見てみた時にも、同じような事が言える。
立っている時も、座っている時も、眠っている時も、人間の体内では常に緊張と弛緩の運動が起こっている。
それは、「収縮と拡張」とも言い換えられる。
腰の緊張がなければ、立っている時に真っ直ぐな姿勢を保てない。
首筋の緊張がなければ、頭部をしっかりと支えることができない。
内臓諸器官の収縮がなければ、消化や呼吸などの生命維持活動ができない。

人間は生命を維持するために、肉的な緊張も必要である。
と同時に、豊かに生きていくためには心的な緊張が、また信仰生活を送るためには霊的な緊張が必要なのである。
先生は、故郷で毎朝冷水を浴びる条件を立ててきた。
冬の極寒の中では相当な決心がいる。
身体的に緊張するとともに、心理的にも引き締まる思いがする。
一方で湯に浸ると、身体的には弛緩が、心理的には解放感が得られる。

人間には、心身ともに緊張と弛緩(収縮と拡張)が必要であり、両者とも決して悪いものではない。
緊張とは、生きていることの証なのである。
トマトの福音書 ~成約摂理聖書外伝~-腐敗の見られる白菜