休日、地下鉄でベビーカーのような、ペットカーなのか、子犬二匹を乗せた4、50代の男性が乗っていた。黒っぽいメッシュカバーがついているとはいえ、車内放送や雑音に全くが鳴かないのに驚いた。ペットカーらしきものには、同じチェック柄の小物入れが2つあり、糞の始末用と食事?かと推察した。微笑ましい。じっと眺めているのに気付いた向かいの中年男性も釘付けになっていた。目を細めてじっと見つめたたま、組んだ足先がリズムを取っている。そして隣の妻に伝染し、さらに隣の娘さんに微笑みがえしの伝染。皆優しい顔になっている。二十歳ごろのこの娘さんは、きっと子どもや生き物大事にする優しいお母さんになるに違いない。
少子高齢化で公共交通の乗り物も高齢者や小さい子どもたちが乗る機会が増えている。都心の朝夕のラッシュ時は、皆われ先にと急いでゆっくりしか歩けない高齢者や小さい子供を連れたお母さんたちに顔をしかめる人もいる。でも、自分も小さい時があったし、高齢者になったり、或いは、事故で足が不自由になることもある。年を取れば目も悪くなり、体もだんだんいうことが効かなくなる。そう言う人はラッシュを避けて、といわれるかもしれないが、どうしても利用せざるを得ない時がある。明日は我が身である。人口がどんどん減っている日本で、何を先争うのか。急がば回れではないか。少しでも心の余裕を持とう。1分1秒を毎日競っても、心が疲れるだけではないか。そういう時に出会ったときは、深呼吸してゆっくり避けるのに2,30秒もかからないでしょう。公共交通だからこそ、高齢者や小さい子供、そして家族同様の動物も、一緒に乗れることがだいじだ。ただし、マナーがいることはいうまでもないが。先日出会った、男性に優しい気持ちを与えてくれてありがとうと言いたい。心が折れがちな日常にすこし、大切なものをいただきました。

先日、山形県庄内から宮城県気仙沼へ支援物資を積み込んだトラックで行ってきました。

早朝5時出発。久しぶりに前夜から降り積もる雪の中、薄暗い国道47号線をワイパーを回しながら、

雪がひどくなる鳴子温泉がある国道457号線に向け進む。リフトと両ウイングの着いたレンタカーの4トントラックは荷物が食品や衣料品が多いため車重が高く、後ろ側に寄り、スタッドレスタイヤをはいていてもブレーキの利きが悪い。


70歳のベテランドライバー高橋さんは、「こいつは右回りに癖がある」といってかがみ込むようにハンドルを

握っている。前輪が浮き気味で、ブレーキの利きが悪い。雪道では急発進、急ブレーキは禁物。それでもプロ根性の高橋さんは気仙沼9時30分着予定を守るべく、左右に不安定に振れる車体を微妙なハンドリングでなだめながら、雪道をどんどんとばしていく。道路の左側には雪をかぶった最上川が「こっちゃへ来い」と呼んでいる。


助手席の「がんばる東北」の現地対策本部長の吉泉秀男衆院議員と高橋さんの間に体育座りで左右に振れ続けるトラックでの雪道は緊張の連続でした。6時7時と薄暗い中、たまにすれ違うのは燃料を積んだタンクローリー車。かつてタンクローリー車も運転し、ガソリンスタンドもできる危険物取り扱い免許を持っているという高橋さんが、あのタンクローリーは西から来ているな、と。何も表示がないから何処のガソリンスタンドでも卸せるという。そうか、やっとこれでガソリンスタンドで並ばなくても良くなるかとそのときは思いました。


今回、私はかつて4トントラックを運転したことがあると名乗り出たために、高橋さんが疲れた場合の交代要員でしたが、雪道と後ろ重心の車体を見て、「雪道が無くなったら代わります」と"謙虚”に申し上げました。

「大丈夫だ」。あっさり断られました。20代の若りしころ、運送屋のアルバイトで2トンやたまに4トントラックを運転しました。しかも雪のない都内で! 


鳴子温泉を越えて、国道457号線に入り、田代温泉を越えたら一旦岩手県に入り、一関市へ。あと数10キロで気仙沼市というところで、ガソリンスタンド待ちの大渋滞。半分以上が休業しているため、わずかに営業している所へ殺到している。何処も100台以上は並んでいる。

前日の新聞に、ガソリン待ち渋滞の車の中で80代の男性が練炭による酸欠で亡くなった記事があった。人ごとではない。車がなければ避難もできない。買い物にも行けない。バスも燃料不足で走っていない。この何年間、都市部以外は、バス路線も採算が合わないとどんどん無くなってきています。高齢者や子どもたちがいつも犠牲になる。


やっと、気仙沼市役所に到着。市役所では加藤副市長が歓迎していただき、小野寺俊朗、村上進両気仙沼市議と菅野哲夫前衆院議員の案内で食料品は廃止予定だった地方卸売市場に、衣料品は気仙沼西高校体育館に持っていきました。西高では高校生たちが明るくかけ声を掛けながら、段ボールの送り主と中身を読み上げながら手渡し。「長野県から」「沖縄から」「えーっ!」の喜びの声。「福島みずほ」「どっかで聞いたような名前だ」「ごめん、俺わからん」「社民党だって」。高校生のかけ声に体育館は明るい雰囲気に包まれていきました。

「高校生は元気がいいね」という私に「この子たちも両親や兄弟、同級生が亡くなったりしているんだよ。努めて明るくしているんだ」という菅野さんの一言に、絶句してしまった。


この後、被災地の気仙沼港を回った。高台からはよく見えなかったけど、だんだん下るうち、がれきが目立つようになり、建物の壊れ方がひどくなる。港から何百メートルもあるのに潮とヘドロの臭いが混ざったがれきが積み上がっている。気仙沼港は3月11日の地震で壊れた石油備蓄基地から津波に乗って石油が港を覆い、その後に火が点いて2日間燃え続けたという。何メートルもうずたかく積もった瓦礫の下にはまだ、犠牲者がいるといわれている。声も出ない。「瓦礫は自分で片づけて、というけど個人の力では無理です」と菅野さん。津波の後、知人や家族を捜していた子どもたちが港にあがった死体を見たと聞いて、心のケアには時間がかかると思います。つらすぎる。大人でも同じでしょう。私もそう聞いただけで、体全体が重苦しく当分声が出ませんでした。


時間を掛けて必ず復興するでしょう、などと言う気はありません。1日、1日が重苦しく、辛い。「何ヶ月後には建物も建って、何もなかったように」はいかない。なぜ、こうなったのか。何が足りなかったのか。どうすれば良かったのか。三陸地域は何百年も前から地震と津波の被害があったとしても、想定できなかったのか。数百年に一度の確率だから、港に近い場所でも家を建てても大丈夫、となっていなかったか。


この数日後、静岡県内の浜岡原子力発電所に入りました。ここは、福島原発3号機と同じ、プルトニウム燃料が多いプルサーマル型の発電をしています。今は、止めていますが、所長は、福島原発事故を受けて、新たに津波を止める防水壁を計画していると。その前に砂丘があって、津波を止めると。で、現地に行ってみると、砂丘と言うにはお粗末なちいさな砂山。海側は水によって相当削られている。しかも遠浅で、今回の10-20メートルの津波が20-30分も続いてきたらひとたまりもありません。12メートル以上という防水壁もあっという間に乗り越えてしまうでしょう。浜岡は3つの地震が集まるもっとも危険な場所です。そのため、原発も福島のように一列に並んでいません。バラバラです。下に活断層があるから、それを微妙にずらして建ててあるのです。


浜岡から東京はそう遠くありません。風向きも東京に吹くことが多い。専門家や学者の方は原爆と原発は全く異なり、まるで「大したことはない」と言わんばかりです。「今すぐ健康には影響がない」。すぐあったら大変です。何年後に甲状腺やいろんなガンや白血病などになる確率が高いのですから。