今日も真夏日

今日(3日)と明日(4日)ふじみ野市(旧上福岡)の七夕まつり

 

昼は暑いので隣り町の富士見市

難波田公園で避暑

 

古民家模型展をやっていた

 

作者の三浦和仁さんにお会いしました

これを作るのに半年かかるそうです

定年後趣味で始めたそうです

 

 

 

20年前にオープンしたがセブン&アイが不振で全国で40店舗閉鎖する中に入り

上福岡東店、今月25日で閉店します

 

向いの陸軍火工廠の跡地にあった新日本無線が移転した広い土地に

来年9月にオープン予定で「イオン」が建設中です

 

 

午後6時陽が落ちてしのぎやすくなりました

 

竹飾りは路地の方がにぎやかです

 

収穫

 

昨年お隣からいただいたゴーヤをたべたら

おいしかったので種をとっておいた

 

家庭菜園は昨年からやめた・・・が

その種をプランターに蒔いてみた

 

6月8日撮影

 

 

今朝1本収穫した

 

毎日

 

朝咲いて

    夕方色が変わります

 

 

 

午後はこのような色になります・白いのはヤマホロシ

 

百日紅と・・・・

 

夕方はこうなり・・・

 

 

 

朝には落ちている

 

原爆の子&ひろしま

2019年7月28日(日)

 

今年も原爆が落とされた8月6日がやってきます

午前は新藤兼人監督がこの映画を制作のため

勤務していた映画会社をやめて

独立プロを立ち上げ制作した

原爆を取り上げた日本で最初の映画とのこと

 

 

広島で幼稚園の先生をしていて被爆した石川孝子先生が

7年後瀬戸内海の小島で小学校の教師をしていて、夏休みに

広島の幼稚園時代の子供たちを訪問する

 

その姿をとおして原爆の悲惨さを表現した名作

 

 

午後の「ひろしま」は

同じ作者で同じ作品「広島少年少女のうったえ」

依頼した日本教員組合と新藤監督の意見が合わず

日教祖があらためて「関川秀雄」監督に依頼して制作した

 

昭和27年の作品、当時宝塚歌劇団の「月岡夢路」がノーギャラでよいから

出演させてほしいと申し出て出演している

 

 

新藤監督と異なるタッチで

原爆投下後の生き残った人たちの

治療、生き方がかなり悲惨に描かれていた

<こういう表現が意見の相違かと想像した>

 

 

12回目のラウンド

2019年7月24日(水)                                              

1968年(昭和43年)8月12日開場

開文グループの経営

GMG八王子ゴルフ場がオープンした翌日に完成した

関東の名勝「長瀞」の丘陵に秩父連山を望む18ホール

ここの名物はOUT.INとも

スタートホールは豪快な打ちおろし

チヨットの風で流されるとどこに飛ぶかわからない

 

 

最初のプレイは平成17年6月30日

前回は平成22年11月20日

今回が5回目のラウンド
朝きりが発生

スタートの時は薄れ無事スタート

 

10

 

 

14番 Par3 140Y

 

風布川・日本水ヤマトミズ(秩父・長瀞/名水百選・100選)の

分水を取り入れている(池の右オレンジの○印)

 

 

夏冷たく、冬暖かい水が1年中

枯れることなく流れている

  

18番 Par5 490Y

 

今日初めてドライバーを左ラフにチョロ

2打目を右1ペナ方向へ

木に当たり助かるが深いラフの中

3打目センターへ出す

4打目7Wで残り120Yへ運ぶ

打ち上げの5打目7Iでグリ-ン奥にこぼす

砲台グリーンSWでグリーンエッジ

6打でオンするが2パット

このホール8打で50の大台に

 

2番 Par3 153Y

 

7Wでピン手前2mにオン

3組12名ニアピンをゲット

今年初バーディ

    

9番 Par3 142Y

画像はグリーン方向から見ると

ゾットする景観

                                                                       

[今日のゴルフ貯金]

3パット 2回 200円・ 

OB 0 ・ バーディ 1回 500円

1ペナ 1回 100円・合計 800円

 

IN 50(20) OUT 42(18)

 

東陽一監督

 

 

先週今井正監督の同名の映画

第一部・第二部をみた

 

 

今日は東陽一監督の映画を観た

 

東陽一氏

 

映画の後

東陽一監督が制作秘話を語ってくれた

 

社会派の今井監督が原作を読み

自ら制作したいと思い作った

 

東監督は部落解放同盟が全国水平社創立70周年記念事業の一環として依頼され

それから原作を読み制作したもので描き方が大分違うものでした

東監督は解放同盟のいいなりにならないで原作に忠実に描くと努力されたようだ

 

 

 

第一部 1909年(明治42)
 大和盆地の小村小森。 日露戦争で父を失った誠太郎と孝二は、貧しい暮らしながら、温かな祖母と母に守られて尋常小学校に通うが、故なき差別に苦しめられる。 しかしなお愛を失わず、光をかかげて真摯に生きて行こうとする。

第二部  1914年(大正3)
 誠太郎は尋常小学校卒業後大阪の米問屋へ丁稚奉公へ行き、孝二は高等小学校に進学。 成績優秀な孝二は副級長に選ばれる。しかし明治天皇葬儀の際、想いを寄せていたまちえが自分の手を握ったわけを知った時、 孝二は涙を堪えることができなかった。「わしは人間や」自らの境遇を悲しい宿命とあきらめず、孝二は頭を上げ毅然と歩んでいく。

第三部  1917年(大正6)
 大阪でも米騒動が起きる。 東京の美術学校に在学していた秀坊んは、差別に耐えきれず、帰省する。 騒がしい時代の波の中で、誠太郎は入営する。

第四部  1919年(大正8)
 18歳に成長した孝二は、祖母、母と共に農作業に励みつつ、草履職人としても働いていた。 貞夫と松川高等小学校の同窓会に出席した孝二は、差別意識に満ちた会員達に向かって、宇宙の真理や人間平等について、毅然として訴える。 大正10年11月、無事に満期除隊した誠太郎は、望まれて大阪の米屋安井家の入り婿となる。 平等会創立大会に登場した秀昭は被差別部落の現状を訴え、全国水平社創立大会への参加を呼びかける。 3月3日早朝、孝二と貞夫は会に出席すべく、京都に向けて出発する。

第五部 1921年(大正11)
 3月、全国水平社は結成された。故なき差別に泣かされてきた人々は、これを拠点に力強く立ち上がる。 しかし、古い因襲と偏見による抑圧に対する人々の抵抗の激しい騒ぎの中で、孝二ら小森の青年7人は獄舎に送り込まれる。 だが、真実と正義を求める人々の声は、消えることなく全国各地に広まっていく。

第六部  1923年(大正12)9月
 東京を襲った関東大震災は、小森の人々をも様々な嵐の中に投げ込んだ。 畑中家の隣人志村かねの娘はるえは、朝鮮出身の夫と子供をもぎとられて、東京から帰郷する。 孝二の従妹七重は婚礼当日に、花婿要太郎が検束されて不在のまま、大崎の長島家に嫁いで行く。 孝二への想いを抱く杉本まちえは、ひとりの力で生きるために東京での勉学を決意し、 一方、まちえへの想いを胸に生き抜こうとする孝二と、それぞれの道に新しい日が訪れる。

第七部 
 1921年に結成された全国水平社の発展に伴い、1924年(大正13年)小森には少年水平社や小森婦人水平社が結成された。 更に消費組合ができ、日本農民組合にも加盟して人々の意識は、人間解放の旗の下に嬉々としていた。 叔父芳松の家に預けられていた熊夫は尋常六年を無事卒業、大阪の誠太郎の店へ丁稚奉公に出て行く。 そして1928年、孝二は誠太郎の依頼により熊夫を連れて、川島熊次郎を問うべく、網走への旅を決意したのだった

お宮参り


 

6月7日誕生の三男の二女のお宮参り

雨の中、中央区の水天宮に出かけた

 

 

4年前の9月長女のお宮参りは明治座の前の仮社でしたが

その翌年東京メトロ水天宮前の元の場所に完成した

 

 

集合30分前に着き令和元年最初の

御朱印をいただいた

 

住井すゑの長編小説の橋のない川

昨日に引き継ぎ第二部を見た

 

 

映画一部は、原作二部までの孝二の幼少時代まで

第二部は、原作の四部まで全国水平社結成大会に

小森から京都に向かうところまでで終わる

 

 

北林 谷榮(きたばやし たにえ、

 

第一部 1909年(明治42)
 大和盆地の小村小森。 日露戦争で父を失った誠太郎と孝二は、貧しい暮らしながら、温かな祖母と母に守られて尋常小学校に通うが、故なき差別に苦しめられる。 しかしなお愛を失わず、光をかかげて真摯に生きて行こうとする。

第二部  1914年(大正3)
 誠太郎は尋常小学校卒業後大阪の米問屋へ丁稚奉公へ行き、孝二は高等小学校に進学。 成績優秀な孝二は副級長に選ばれる。しかし明治天皇葬儀の際、想いを寄せていたまちえが自分の手を握ったわけを知った時、 孝二は涙を堪えることができなかった。「わしは人間や」自らの境遇を悲しい宿命とあきらめず、孝二は頭を上げ毅然と歩んでいく。

第三部  1917年(大正6)
 大阪でも米騒動が起きる。 東京の美術学校に在学していた秀坊んは、差別に耐えきれず、帰省する。 騒がしい時代の波の中で、誠太郎は入営する。

第四部  1919年(大正8)
 18歳に成長した孝二は、祖母、母と共に農作業に励みつつ、草履職人としても働いていた。 貞夫と松川高等小学校の同窓会に出席した孝二は、差別意識に満ちた会員達に向かって、宇宙の真理や人間平等について、毅然として訴える。 大正10年11月、無事に満期除隊した誠太郎は、望まれて大阪の米屋安井家の入り婿となる。 平等会創立大会に登場した秀昭は被差別部落の現状を訴え、全国水平社創立大会への参加を呼びかける。 3月3日早朝、孝二と貞夫は会に出席すべく、京都に向けて出発する。

第五部 1921年(大正11)
 3月、全国水平社は結成された。故なき差別に泣かされてきた人々は、これを拠点に力強く立ち上がる。 しかし、古い因襲と偏見による抑圧に対する人々の抵抗の激しい騒ぎの中で、孝二ら小森の青年7人は獄舎に送り込まれる。 だが、真実と正義を求める人々の声は、消えることなく全国各地に広まっていく。

第六部  1923年(大正12)9月
 東京を襲った関東大震災は、小森の人々をも様々な嵐の中に投げ込んだ。 畑中家の隣人志村かねの娘はるえは、朝鮮出身の夫と子供をもぎとられて、東京から帰郷する。 孝二の従妹七重は婚礼当日に、花婿要太郎が検束されて不在のまま、大崎の長島家に嫁いで行く。 孝二への想いを抱く杉本まちえは、ひとりの力で生きるために東京での勉学を決意し、 一方、まちえへの想いを胸に生き抜こうとする孝二と、それぞれの道に新しい日が訪れる。

第七部 
 1921年に結成された全国水平社の発展に伴い、1924年(大正13年)小森には少年水平社や小森婦人水平社が結成された。 更に消費組合ができ、日本農民組合にも加盟して人々の意識は、人間解放の旗の下に嬉々としていた。 叔父芳松の家に預けられていた熊夫は尋常六年を無事卒業、大阪の誠太郎の店へ丁稚奉公に出て行く。 そして1928年、孝二は誠太郎の依頼により熊夫を連れて、川島熊次郎を問うべく、網走への旅を決意したのだった

武蔵野市民学校 映画○学ぶ会

 

住井すゑの長編小説の橋のない川(一部)の映画を観た

 

住井すゑは

1902年、奈良県磯城郡平野村(現、田原本町)生まれ、1997年6月16日牛久沼畔にて永眠、 享年95歳

 

原稿に着手して16年、第6部の出版で作品は一応の完成を見ます。しかし、さらに19年を要し第7部を刊行します。「橋のない川」は、これまでに発行部数800万部を超え、2度映画化されています

 

 

私は原作は50年以上前に読みました

映画一部は、原作二部までの孝二の幼少時代まで

明日映画第二部を見る予定

 

第一部 1909年(明治42)
 大和盆地の小村小森。 日露戦争で父を失った誠太郎と孝二は、貧しい暮らしながら、温かな祖母と母に守られて尋常小学校に通うが、故なき差別に苦しめられる。 しかしなお愛を失わず、光をかかげて真摯に生きて行こうとする

第二部  1914年(大正3)
 誠太郎は尋常小学校卒業後大阪の米問屋へ丁稚奉公へ行き、孝二は高等小学校に進学。 成績優秀な孝二は副級長に選ばれる。しかし明治天皇葬儀の際、想いを寄せていたまちえが自分の手を握ったわけを知った時、 孝二は涙を堪えることができなかった。「わしは人間や」自らの境遇を悲しい宿命とあきらめず、孝二は頭を上げ毅然と歩んでいく

第三部  1917年(大正6)
 大阪でも米騒動が起きる。 東京の美術学校に在学していた秀坊んは、差別に耐えきれず、帰省する。 騒がしい時代の波の中で、誠太郎は入営する

第四部  1919年(大正8)
 18歳に成長した孝二は、祖母、母と共に農作業に励みつつ、草履職人としても働いていた。 貞夫と松川高等小学校の同窓会に出席した孝二は、差別意識に満ちた会員達に向かって、宇宙の真理や人間平等について、毅然として訴える。 大正10年11月、無事に満期除隊した誠太郎は、望まれて大阪の米屋安井家の入り婿となる。 平等会創立大会に登場した秀昭は被差別部落の現状を訴え、全国水平社創立大会への参加を呼びかける。 3月3日早朝、孝二と貞夫は会に出席すべく、京都に向けて出発する

第五部 1921年(大正11)
 3月、全国水平社は結成された。故なき差別に泣かされてきた人々は、これを拠点に力強く立ち上がる。 しかし、古い因襲と偏見による抑圧に対する人々の抵抗の激しい騒ぎの中で、孝二ら小森の青年7人は獄舎に送り込まれる。 だが、真実と正義を求める人々の声は、消えることなく全国各地に広まっていく

第六部  1923年(大正12)9月
 東京を襲った関東大震災は、小森の人々をも様々な嵐の中に投げ込んだ。 畑中家の隣人志村かねの娘はるえは、朝鮮出身の夫と子供をもぎとられて、東京から帰郷する。 孝二の従妹七重は婚礼当日に、花婿要太郎が検束されて不在のまま、大崎の長島家に嫁いで行く。 孝二への想いを抱く杉本まちえは、ひとりの力で生きるために東京での勉学を決意し、 一方、まちえへの想いを胸に生き抜こうとする孝二と、それぞれの道に新しい日が訪れる

第七部 
 1921年に結成された全国水平社の発展に伴い、1924年(大正13年)小森には少年水平社や小森婦人水平社が結成された。 更に消費組合ができ、日本農民組合にも加盟して人々の意識は、人間解放の旗の下に嬉々としていた。 叔父芳松の家に預けられていた熊夫は尋常六年を無事卒業、大阪の誠太郎の店へ丁稚奉公に出て行く。 そして1928年、孝二は誠太郎の依頼により熊夫を連れて、川島熊次郎を問うべく、網走への旅を決意したのだった

富士見市年金組合映画サークル

 

 

きけ、わだつみの声 Last Friends』(きけ、わだつみのこえ ラスト フレンズ)は、1995年東映から公開された、戦後50年記念作品である。第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集『きけ わだつみのこえ』の、1950年に公開された『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』に続く2度目の映画化

 

映画の前に取り立ての恒例のトマトを買った

 

2時間の映画のあと話し合いがありましたが

参加しないで帰途についた