江戸~明治初期にかけて、関西で特に隆盛した日蓮宗檀林(※1)は6ヶ所、いずれも京都にあり、「関西六檀林」といわれていました。

(松ケ崎檀林旧跡:湧泉寺山門)

毎年 京都旅行の折、少しずつその旧跡を訪問してきました(※2)が、唯一、訪問していなかったのが山科檀林跡です。

実は昨夏、参拝が叶いましたので、紹介したいと思います。

(※1)お坊さんの学問所

(※2)本圀寺求法院檀林跡は存在しないが、山科本圀寺内に求法講院として再興

 

 

(山科駅とJR琵琶湖線)

京都駅でJR琵琶湖線に乗って、ひと駅で山科駅に到着してしまいます。ちなみにもうひと駅乗れば、滋賀県の大津駅です!

 

 

山科駅からゆっくり5分も歩くと、護国寺に至ります。

ビルに囲まれた、町なかのお寺です。

 

 

大きな題目塔が迎えてくれます。

 

 

基壇には「学校」と刻まれています。

護国寺は山科檀林の旧跡です。

江戸時代、ここにお坊さんの学校があったんですね!

 

 

山号は「了光山(りょうこうざん)」です。

 

 

(「妙信院法悦」が法悦さんの法号。ちなみに右の「貞林院法春」はお母様と思われる)

ん?・・・この題目塔、谷口法悦さんの寄進だ。すげぇ!

谷口法悦さんは江戸前期に生きた法華の篤信者、京都の方です。

 

 

一族で信仰を深め、東海道や身延参詣道沿いに、多くの題目塔を遺しました。

身近なところでは身延山御廟へ至る参道、↑この題目塔が谷口法悦さんの寄進です。

プライベートは謎に包まれた信者さんですが、魅かれるものがあります。

いつか谷口法悦さんをテーマにブログを書いてみたいです。

 

 

護国寺の山門です。

紀州藩2代藩主・徳川光貞夫妻の寄進だそうです。

徳川光貞公、祖母は養珠院お萬さま、母は瑤林院(加藤清正の娘)ですからバリバリ法華の血筋、お題目を聞いて育ったのでしょうね。

白雲山報恩寺(和歌山市吹上)

 

 

鉄筋造りの本堂です。

造形が独特ですよね!

 

 

扁額には「栴檀林」。

学僧を栴檀(香木)に見立て、彼らが集まって知識を高め合う場所、ということで「檀林」の語源になっています。

(※)香木のように品格のある学僧、という願いも込められているのでしょう

 

 

歴代お上人の御廟に参拝。

開山から今日まで、いい時代も、良くない時代もあったでしょう。

それでも脈々と法灯を継いでくださった先師たちに、心から感謝致します。

 

 

歴代御廟の一画に開山廟のお堂があります。

(開山廟:堂内には開山日勇上人、二世日通上人、四世日堯上人の墓が格護される)

ここに山科檀林を開いたのは、京都妙傳寺14世の法性院日勇上人でした。

日勇上人は京都の人、高貴な家柄出身でしたが、幼いころから俗世を離れたいと思っていたようです。

 

 

(久遠寺参道。左奥は日勇上人が身延山時代、住まわれた竹之坊。自らも竹之坊15世に名を連ねる)

日勇上人は、お父様が親交のあった身延山24世・顕是院日要上人のもとで出家、若い頃から身延のお山で学業に励みました。

とても聡明で頭の切れる方だったようですね!

 

 

(身延山山頂から南を望む)

京都出身の日勇上人にとって、四山四河に囲まれた身延での生活は、不便なこともあったでしょう。

しかしそれ以上に十代の多感な時期を、日蓮聖人のお膝元で日々精進し、得たものはとても大きかったのだと思います。

 

 

日勇上人は京都に戻り、師匠の日要上人が歴世(※1)した妙傳寺に、20才そこそこで瑞世します。

京都妙傳寺は「関西身延」といわれ、円教院日意上人(※2)が開創、宗祖の御真骨が奉安されているなど、身延山と非常にご縁の深いお寺、日蓮宗本山です。

かつて京都には学養寺という、関西身延門流の拠点がありましたが天文法難で焼失、以降は妙傳寺が、その役割を引き継いできたと思われます。

(※1)日要上人は心性院日遠上人の後を請け、妙傳寺9世を務める

(※2)身延山11世行学院日朝上人の直弟子。のちに身延山12世に晋む

法鏡山妙傳寺(京都市左京区北門前)

 

 

日勇上人は以前から、京都に檀林を設けたいと考えていたようです。

このころ既に 松ケ崎、求法院、東山、鷹峰といった檀林は存在していましたが、それでも独自の檀林を求めたのは、身延門流の矜持、と言いましょうか、若い時分から身延山の空気に触れてきた日勇上人が、本山並び立つ京都において、学の世界で一つの潮流を作りたい、と考えたからではないかと、僕は思います。

(江戸中期の護国寺境内図:「山科の歴史探訪4」より引用)

寛永20(1643)年、日勇上人は宇治郡竹鼻(今の山科)にあった真言宗の古刹跡を求め、お堂を建立して護国寺を開きました。

 

 

日勇上人は人脈が広い方、また家柄の良さもあったのでしょう、公武からの支援を受けて諸堂を整備、護国寺内に山科檀林の開闢を果たしました。

(山門に掲げられた扁額)

また日勇上人のお弟子さんの寂遠院日通上人は、他の学室や鷹峰檀林での経験がありますから、山科檀林内のルールを定めるなど、主にソフト面の基礎を築かれたようです。

さらに日通上人は学識も卓越しており、その講義を聞きたいと全国から学僧が集まってきたといいます。

 

 

宗門史研究の権威であった影山堯雄上人によれば、(一般論として)江戸時代の檀林員は、たとえ自宅から通えたとしても、学寮に入ったといいます。

これは檀林教育の目的に叶うもので、つまり檀林は ただ知識を授けるだけの場ではなく、人の手本となる人格を形づくる場なのだといいます。

(山科庠学生墓誌:「庠」は檀林のこと)

立ち振る舞い、行儀作法、心の持ちようなど、全体を美しい人間に仕立てるのが檀林、だから全寮が基本だったのです。

檀林生活の6~7割が給仕奉公に充てられ、残りの3~4割で学問を究めたという、そんな環境だったそうです。

 

 

身延山史によれば、山科檀林出身の身延山歴代法主には、30世寂遠院日通上人のほか、31世、32世、33世、34世、37世、56世、58世、66世、69世、70世と、実に11名も瑞世していることがわかります。

(身延山歴代御廟:いちばん手前が日通上人墓。この並びはほぼ山科出身者!)

特に身池対論(寛永7年)以降の身延山法主は、名実ともに宗門のトップ、品位や人徳も要求されたでしょう。

いかに山科檀林のレベルが高かったかが伺えますね。

 

 

明治5(1872)年の学制発布により、230年続いた山科檀林は廃止され、また廃仏毀釈もあったため、境内は一時荒廃しましたが明治の中頃に復興、現在の寺容となりました。

 

 

(護国寺庫裡:こちらで書き置きのご首題をいただきました!)

実は今回、護国寺参拝にあたり、事前にご住職にアポを取ろうとご連絡差し上げました。

ところが ちょうどその頃(8/26~9/9)、護国寺からほど近い大本山本圀寺で日蓮宗布教院(※)が開かれており、期間中、護国寺のご住職は講師として寝食を共にするため、申し訳ないけれど護国寺ではお会いできません、ということでした。

(※)布教説教の研鑽を積む修行。毎夏、本圀寺内で開かれる。

 

 

(本圀寺近くの琵琶湖疎水)

ただ期間中の毎朝、晨朝説教(しんちょうせっきょうがあるので、是非聞きに来てください!とお誘いくださり、そういう機会もなかなかないだろうと、8月31日の朝、少し早起きして本圀寺に行ってきました!

(※)布教院修行僧による実践の場。一般の人も聞けます!

 

 

今年の布教院には全国から33名のお上人が参加、15日間にわたり高座説教の腕を磨きます。

本圀寺大本堂での朝勤後、お上人方がキビキビと動き、あっという間に外陣に高座と客席が出来上がりました。

ギャラリー全員によるお題目の中、演者が登壇します。

 

 

その日の晨朝説教は、偶然にも僕と同郷(小田原)のお上人による高座でした。

法華経如来寿量品第十六にある良医治子の喩え(※)を、地元小田原の薬「ういろう」ネタも織り交ぜながら熱演されました。

お話の内容、笑いも誘う話術もさることながら、独特の作法や立ち振る舞いも、見事でした!

(※)毒を飲んだ子供を救うため、あえて死んだふり(方便)をして薬を飲ませる医者の話。

 

 

(本圀寺付近から山科盆地を望む)

ひと通り説教が終わると、講師である護国寺のご住職から批評があります。

これがまた秀逸でした。(一部を記憶している限りで書きますね!)

 

昨今、残薬が社会問題になってます。医者は患者の病気を治療するため、良かれと思って薬を必要な日数分、処方してくれます。ところが患者は、医者の思いとは裏腹に、痛くなくなったら飲まなくなってしまう。

 

これは信仰にも当てはまるのではないかと思います。困ったときには必死でお題目を唱える。けれども問題が解決したらさっぱり忘れてしまう。

 

人にお題目を唱えさせるのは並大抵のことじゃない、だから良医治子の喩えが生きてくる。例えばそんな視点も説教に入れ込むと、さらにお話の幅が広がると思います。

 

 

実は僕、以前からYouTubeで護国寺のご住職の法話を何度も視聴しており、「面白いお話をされるお上人だな~!」と思っていましたが、この批評は目からウロコ、 「布教院の講師をされるだけのことはある」と再認識しました。

(晨朝説教前に散華されたお経葉。護国寺のご子息にいただきました!)

布教院というのは一定期間、講師も修行僧も寝食を共にし、話術から立ち振る舞いまで究めようとする場、まさに現代の檀林のようです。

今日、護国寺すなわち山科檀林旧跡のご住職が、布教院に深く関わっておられるのも、偶然ではないのでしょう。

 

 

墓じまい、寺離れなど、近年 仏教を取り巻く状況は大きく変化しています。

少子化、人口減少とともに、この傾向はさらに加速してゆくでしょう。

檀家がお寺を支える構造は、近いうちに崩壊し、どんどん淘汰されてゆく…そんな未来さえ想像できます。

 

 

(鎌倉辻説法:堀内天嶺画集「日蓮聖人の生涯」より引用)

でも考えてみれば鎌倉時代、日蓮聖人は何もないところから一宗を立ち上げ、辻立ちしてお説法を始めたのです。

時には杖で叩かれ、石を投げられしながら、それでも聴衆は絶えることなく、日蓮聖人は着実に信者を増やしてゆきました。

 

それは何故でしょう?

人々が「このお坊さんの話を聴きたい!」と思ったからに違いありません。

 

 

戦争や災害、孤独や生活苦など、今の世相は日蓮聖人の時代と何ら変わりありません。

みんな心に傷を抱えているはずで、近い将来、「このお坊さんの話を聴きたい!」という、そんなお坊さんに人が集まることでしょう。

お寺ではなく、お坊さんに人が集まるのです。

(昨今の新聞、見出しだけで暗くなります:3月4日読売新聞1面)

遠い昔、幕府に睨まれて島に流されても、あるいは不受不施を主張して退寺・隠棲しても、それでも檀越信者がお坊さんのもとに集まり、話を聴きたがったように、昔の形に戻ってゆくのではないかと思います。

 

 

僕にも、そんなお上人が何人かいます。

護国寺のご住職は、その一人です。

さきほどの晨朝説教の批評なんて、普段から日常を法華経の目線で捉えているから、あんな面白いお話に昇華するんだと、感心します。

 

是非、布教院のお上人方には、「このお坊さんの話を聴きたい!」と思わせる何かを掴んでほしいなと、切に思いました。

 

 

 

(参考文献)

・「諸檀林並精貞法類」(大正7年:影山堯雄 關観朗刊)
・「身延山史」(昭和48年:身延山久遠寺)

・「日蓮宗徒群像」(平成5年:宮崎英修 宝文館出版)

・「山科の歴史探訪4:名所図絵に見る山科」(平成4年:山科の歴史を知る会)
・「現代宗教研究第11号」(昭和52年:影山堯雄特別寄稿 日蓮宗宗務院)

 

名古屋にある加藤清正公のお寺を参拝しました。

名古屋駅から地下鉄東山線で3駅目、中村日赤駅で降ります。

 

 

地上に出ると、目の前に清正幼稚園。

たくましい子に育ちそうですね!

 

 

 

名古屋駅から西に延びる清正公通りには、清正公ゆかりの品々がタイルになって埋め込まれています。

エリア総出で「清正推し」です。

 

 

5分ほど歩き、妙行寺に到着しました。

 

 

山門です。

清正公のお寺らしく、瓦の一枚一枚に蛇の目紋があしらわれています。

 

 

本堂です。

方形屋根の慎ましやかなお堂です。

 

 

本堂の前面には、ご住職から参詣者へのメッセージ。

疲れた我々に寄り添う言葉、読むだけで心が軽くなります。

 

 

山号は「正悦山」。

正しい法を得た悦び、みたいな意味でしょうか。

 

 

妙行寺の境内は、加藤清正公の生誕地として知られています。

清正公は永禄5年(1562年)、父・加藤清忠、母・伊都(いと)の子として誕生しました。

(※)文献によっては「いつ」の表記もあり。

 

 

 

ここ中村は、母・伊都さんの家系(※)が暮らしていた場所です。

すぐ隣には豊臣秀吉や小出秀政の生家跡などがあります。

歴史好きには、たまらないエリアでしょうね!

(※)武士だった加藤清忠が足を負傷、刀鍛冶になるべく清兵衛のもとで修業し、清兵衛の娘伊都と夫婦になったという

 

 

庫裡の前に、甲冑姿の清正公が鎮座しています。

昭和35(1960)年、清正公没後350年を記念して建立された銅像です。

等身大でしょう、相当ガタイがいいです。

実際、清正公は身長6尺3寸(190cm)あったといわれます。

 

 

兜の前立には清正公自筆のお題目。

脇に四菩薩と、外側の梵字は不動と愛染だと思います。

加藤清正公が熱心な法華信者であったことは、よく知られていますね。

 

 

加藤清正公に限らず、多くの武士たちが、仏教を信仰してきました。

不殺生を戒律とする仏教を、武士が信仰することを、矛盾に思う人がいるかもしれません。

 

 

しかし彼らの多くは武家に生まれ、つまり生業として武士である以上、戦場で刀を振り下ろすことを要求されたのです。

殺るか殺られるか、常に死と隣り合わせにいた人たちの心情など、我々にはとても想像できません。

(関ケ原町歴史民俗学習館展示品「関ケ原合戦図屏風」)

できれば人を斬りたくなかったという武士、実は多かったのではないでしょうか。

そんな武士たちの、せめての心の拠り所になったのが仏教だった、そう思います。

 

 

特に法華経は、苦しみ渦巻くこの世をいかに生きるか、そのヒントが散りばめられた経典。

(武田信玄寄進「明版法華経」:身延山久遠寺大観より引用)

鎌倉時代、実際に武士の信者さんが多数いた日蓮聖人は、

末代の悪人等の成仏不成仏は罪の軽重に依らず、ただこの経の信不信に任すべし」(波木井三郎殿御返事

すなわち人を斬る武士であっても、心の底から信ずれば、悟りを開くことはできる、と説いたのです。

(※)宗祖の佐渡流罪で宗門がガタガタになる中、それでも棄教しなかった武士・南部実長公に、日蓮聖人は佐渡から励ましとアドバイスを送った

 

 

視点を変えれば、僕だって日常的に肉や魚を食べますし、殺虫剤も使います。電気で快適に暮らしている裏で、自然を壊し、生物の絶滅を加速させているなんて、普段考えもしません。

(加藤清正銅像の背後に掲げられる玄題旗)

むしろ今を生きる僕よりも、かつての武士達の方がよほど「殺生」を意識していたはずで、加藤清正公が掲げるお題目の意味、重みを、強く感じます。

 

 

加藤清正公の信仰のルーツは、母・伊都さんにあるといわれています。

伊都さんの法華信仰は、結婚する前からだといいますから、当時から尾張中村の地には、すでに法華信仰が根付いていたと想像できます。

 

 

(妙行寺近くにある旧鎌倉街道の東宿跡)

古くから尾張には京鎌倉往還が走っており、日蓮聖人やそのお弟子さん達も、比叡山や京へ往復する際、この界隈を通っておられたでしょう。

 

 

実際、この近くには日蓮聖人を由緒に持つお寺もあるようですし、ここ妙行寺の縁起も「日像菩薩により真言宗より日蓮宗に改宗」とありますから、鎌倉時代に信仰の淵源があるのでしょう。

 

 

清正公3才のとき、父清忠が病死してしまいます。

大黒柱を失ったわけですから生活も苦しかったでしょう。しかし伊都さんは、女手ひとつで愛情深く清正公を育てました。

(津島市内にある清正公社:かつて伊都と清正が身を寄せた家の跡だという)

清正公5才のとき、中村の西10kmほどにある津島に移り住みます。伊都さんの義妹の縁を頼ってのことでした。

伊都さんは近くの妙延寺(日蓮宗)の住職に頼み込み、寺子屋で清正公に読み書きや仏法を習わせてもらいました。

 

 

(津島市内にある加藤清正手習いの寺子屋「津島山妙延寺」)

恐らく寺子屋でも家でも、法華経の教えを落とし込んだ生活をしていたでしょうから、清正が信仰を自覚したのは、かなり早い時期だったと考えられます。

 

 

(熊本本妙寺公園内の加藤清正銅像)

のちに伊都さんの親戚の縁で、豊臣秀吉の小姓になったのが、武士としてのスタートです。

清正はどんどん出世してゆく秀吉によく仕え、また秀吉からの信頼も厚かったといいます。

 

 

天正16(1588)年には、土豪が強く統治が難しいといわれた肥後北半国を与えられ、熊本城を建てて居城としました。

治水や干拓を主導し、肥後を穀倉地帯に変えるなど善政を行い、領民の信頼を得るようになります。

(熊本城天守)

また清正公は、家臣への思いやりが深く、粗相があっても決して家臣を責めなかった武将として知られています。

そのため、清正公に召し抱えられたいという武士が、後を絶たなかったといいます。

彼の慈悲深く、高潔な人格は、伊都さんとの信仰生活で育まれたものに違いありません。

 

 

(熊本 本妙寺本堂)

肥後の統治が安定してきた頃、清正公は熊本城内に本妙寺を建立(※)、父の追善をします。

このとき伊都さんは髪を落として仏門に入り、以後は夫と先祖の供養、そして清正公の武運長久をひたすら祈り続けたといいます。

(※)かつて摂津難波に建立した瑞龍院を、熊本城三ノ丸に移し、本妙寺と改称した

発星山本妙寺(熊本市花園)

 

 

慶長3(1598)年に主君・豊臣秀吉が没すると、遺児の秀頼を守りつつ、徳川家康に接近してゆきます。

慶長5(1600)年の関ケ原合戦では東軍(徳川方)側につき、九州で武功を挙げたことが知られています。

(関ケ原古戦場跡)

関ケ原の合戦は、今後の清正公を左右する大きな岐路。戦前から権謀術数が飛び交う中、冷静な判断が求められました。

実はその4ヵ月前、母・伊都さんが68才で遷化されています。このときばかりは勇猛な清正公も号泣したといいます。

 

 

清正公を慕う家臣たちも愁傷の念に閉ざされましたが、時は開戦前夜。清正公は一軍の将として消沈してもいられませんでした。

波立つ心を鎮めるため、法華経に向き合う機会も多かったことでしょう。

(キリシタン大名を法華信仰に導き、建立された大村本経寺)

関ケ原合戦の後 清正公は、九州の五大寺など多くの日蓮宗寺院を建立、さらに信仰を深めてゆきました。

萬歳山本経寺(大村市古町)

 

 

そろそろ妙行寺のお話に戻りましょう。


かつて妙行寺の場所は、今より東側(名古屋駅寄り)にあったそうです。

これが現在地に移ったのは、慶長15(1610)年といいます。

 

 

(名古屋城天守)

徳川の世にはなっていましたが、当時は豊臣秀頼が健在、まだ大きな政治勢力を持っていました。

家康は秀頼のいる大坂城を包囲してゆくための最大拠点として、名古屋城築城を命じました。

 

 

(名古屋城石垣で最大の石材「清正石」)

名古屋城築城にあたっては、かつて秀吉に仕えた大名が駆り出され、資金、資材、人材一切を負担させられました。

外様大名の財力を枯渇させる意図もあったのでしょう。

 

 

加藤清正公は、その中でも特に、積極的に尽力した大名として、象徴的な存在となっています。

天守台は清正公自らが志願し、単独で請け負っています。

(個人蔵「加藤清正石材運搬之図」西の丸御蔵城宝館展示物より)

清正公にとっては、家、一門が、新政権下で生き残るために、ここで貢献を見せる必要があったでしょうし、何より自分の地元です。錦を飾りたいという思いもあったでしょう。

 

 

(名古屋城内にある加藤清正銅像)

一方で、これから造営する名古屋城は、豊臣秀吉がこよなく愛した子・秀頼を攻撃する拠点なわけで、人一倍義理堅い清正公の胸中を推し測れば、本当に複雑でしょうし、ある意味やり切れない思いがあったと思います。

 

 

(明治初期の妙行寺 伽藍の配置は現在と同様:「尾張名所図会 前編」より引用)

清正公は築城工事の際、余材と普請小屋をもらい受けて、自らの生誕地、すなわち伊都さんに信仰をいただいたルーツの地に、妙行寺を移転再建したのです。清正公ちょうど50才の砌でした。

これが現在まで続く、清正公の妙行寺です。

 

 

妙行寺を再建した翌年、上洛した徳川家康は、豊臣秀頼を二条城に呼び出し、会見を要請しました。

徳川の優位を、秀頼に見せつけるためでしたが、成り行きによっては、家康が戦を始める口実にもなりかねない会合、秀頼を説得し会見を承諾させたのは、清正公だったといいます。

(京都二条城)
運命の慶長16(1611)年3月28日、徳川側として臨席(※)した清正公は、常に秀頼の傍に控え、いざという時には秀頼を護ろうという覚悟をもって、懐中には短刀を忍ばせていたといいます。

会見は意外にも、家康が秀頼を厚遇、また秀頼の謙虚な姿勢もあって、会見は極めて穏便に終了、これを見届けた清正公は、海路で肥後に戻る途中で体調が悪化、帰らぬ人となりました。

(※)娘婿にあたる徳川頼宣のお供役として参加を許された

 

 

記録によれば、加藤清正公が普請した名古屋城天守台の造営は、慶長15(1610)年の春から夏にかけて行われています。

ということは妙行寺は、加藤清正公が亡くなる数か月前に建立した、生涯最後のお寺ということですね・・・。

 

 

妙行寺境内には清正公堂があります。

清正公信仰のお堂なのでしょう、質素な本堂と比べて、とても華やかです。

豪胆勇猛な武将、築城の名手、治水で民に富をもたらす領主・・・

こういったイメージが没後に神格化され、やがて法華経を守護する「清正公(せいしょこ)さま」となってゆきました。

実在の人物が法華経の守護神に昇華するというのは、極めて珍しいケースといいます。

 

 

一方で、義を通すために数々の板挟みに遭い 悩み続けた姿が、現代を生きる我々にも想像でき、心の琴線に触れるのだと思います。

それだけに最晩年、忙しい中 信仰のルーツとなるこの場所に、 妙行寺を移転建立したこと、非常に深い意味を感じます。

 

 

歴代御廟の石板に刻まれていた「忘持経事」の一節が、ことさら心に響いた妙行寺参拝でした。

 

南無妙法蓮華経。

 

 

(参考文献)

・「加藤清正のすべて」(平成5年:安藤英男 新人物往来社)
・「法華経と日蓮」(平成26年:ジャクリーンストーン 春秋社)
・「名古屋城特別展図録 描かれた名古屋城、写された名古屋城」(平成28年:名古屋城総合事務所)
・「豊臣秀吉の幼少年時代」(昭和61年:寺尾大蔵 六興出版)

・「尾張名所図会」(明治13年:岡田啓、野口道直 )

 

(拝殿越しに祖廟塔を望む)

日蓮聖人ご入滅後、聖人のご遺骨は身延山に還り、西谷のご草庵近くに葬られました。

当時、どういう墓標が建立されていたのかはわかりませんが、今の祖廟塔のルーツですね。

御廟・御草庵跡(身延町身延)

 

 

六老僧はじめ直弟子達は、毎月交替で祖廟を護ってゆこうと決め、しばらくは輪番制が守られていました。

(身延山御廟所)

ところが、その200年ほど後に久遠成院日親上人が書かれた「伝灯抄」によれば、

其後は 各聖 共に各地の弘教に忙殺の為め 漸く懈怠(けたい)の徴ありしが如し

すなわち宗祖一周忌を過ぎると、忙しさのため徐々に輪番奉仕が疎かになってしまったようです。

 

 

(身延山頂から南方を望む)

年1回の登詣ではありますが、考えてみれば当時は皆さん徒歩で往復するわけで、下総や鎌倉のお上人など相当時間がかかったでしょうし、一説には、宗門に対する幕府の弾圧が強まった時期で、各上人がその対応に追われていたともいわれています。

 

 

(身延山歴代墓所にある日向上人墓)

いずれにせよ輪番制は形骸化したため、宗祖七回忌を機に、身延山に専任の住持を置いて祖廟を護ることになり、日向上人が初代住持に決まりました。身延山二世、現在でいう法主様でしょう。

 

 

気になるのは、じゃあ宗祖七回忌までは誰が祖廟を護ったのか?というところです。

香、華、灯明の供養はもちろんのこと、あれだけの山奥です、誰も手を入れなければ、恐らく祖廟域は草ぼうぼう、何より鹿や猪で地面もボコボコになるでしょう。

日親上人「伝灯抄」には、こうも書かれています。

伝ふる所に拠れば 此間 能く祖山の守護に力を竭(つく)せしは 日興上人なりしという

 

 

(日興上人:大坊・本行寺で購入した「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」より引用)

宮崎英修上人は著書の中で、日興上人について

興師は資性謹直(※1) その信仰態度は純信、厳粛で 門下への教導も仏祖に対し至心恭敬(※2)の給仕を勧められた

と表現されています。

これは僕が今まで見聞した日興上人の人となりと寸分の違いなく、また生涯一貫しておられたのだと思います。

(※1)つつしみ深く、正直で、真面目な性格 (※2)誠実な心で、敬い尊ぶこと

 

 

(北山本門寺境内から富士山を望む)

日興上人は南部実長公と信仰のあり方を巡って不和となり、正応2(1289)年に下山されてのちに富士で一宗を立ち上げ、いわば袂を別つわけですが、しかし身延山二世が決まるまでの5年ほどの空白の期間、身延山に常住し、祖廟奉仕に尽力されたのは日興上人であったこと、我々は決して、忘れてはなりません。

 

 

祖廟拝殿の右側には歴代墓所、こちらには日向上人以来の法主様方が葬られています。

 

 

一方、祖廟拝殿の左側にあるのは直弟子直檀廟。

六老僧の供養塔とは別に、日蓮聖人と特にご縁が深かった方々の供養塔が並んでいます。

 

 

祖廟塔のいちばん近くが日興上人。

現状を鑑みた上では、僕は絶妙な配置だと思っています。

日興上人への深い感謝を込め、合掌しました。

 

 

さて、御廟域での参拝を済ませ、樋沢川沿いに少し上がります。

実は今晩、林蔵坊に参籠することになっているのです!

 

 

林蔵坊は日興上人の旧跡です。

この坊号塔で、すぐわかります。

 

 

林蔵坊の開創時期については文献により、日興上人が離山された年、あるいは日興上人が遷化された年など、諸説あるようですが、輪番制が事実上崩壊した弘安7(1284)年頃から、日興上人は身延山に拠点を構え常住されていたとすれば、林蔵坊のルーツはその頃なのかもしれません。

ちなみに、林蔵坊の通称は「常在院」。

これは日興上人の院号だそうで、空白の時期を独り身延山に常在された偉業を、よく表現していると思います。

 

 

(醍醐谷の推定位置:Google mapに加筆)

もともと林蔵坊は醍醐谷にあったといいます。

東谷の志摩房を開かれた「善智法印」日傳上人が、当地を「醍醐」と呼んだのが醍醐谷のルーツといいますから(※)、今の志摩房の奥あたりに醍醐谷は広がり、そこに林蔵坊があったと思われます。

(※)志摩房HPより

 

 

江戸中期に書かれた「身延山図経」には、数坊とともに林蔵坊も描かれています。

門前町から細道を登ってゆく感じでしょうか。

(身延山図経に描かれた醍醐谷・林蔵坊:藤井日光著「新訂 身延鑑」より引用)

ちなみに林蔵坊の並びに描かれている下之坊は、日蓮聖人が身延ご入山された文永11(1274)年、相又村の史姥(さつくわ)という女性(※)が開かれた身延山最初の坊です。

志摩房もその翌年に開かれていることを考えると、身延山草創期の坊は、醍醐谷から始まったと言えそうです。

(※)俗名は「かつ」とも。日蓮聖人身延ご入山の途次、粟飯を供養した女性で、のちに出家し妙了日仏となる。相又村の旧跡は大石山正慶寺となる。

大石山正慶寺(身延町相又)

 

 

江戸中期には身延山内に150以上の坊があったといわれますが、その中でも林蔵坊はじめ六老僧の旧坊は「六院家」といい、行事では特別な位置におかれ、また対外的な折衝には前面で対処する役目を担ってきました。

 

 

(池上三院家の首席・大坊本行寺:池上宗仲邸をルーツとする)

一般的に「院家」は、門跡寺院の塔頭のことを言う場合が多いようですが、門跡がほぼ無い日蓮宗でも、例えば中山法華経寺には千葉氏の流れを汲む「四院家」、池上本門寺には開基二祖三祖ゆかりの「三院家」、京都本圀寺にも日静上人上洛の際に付き従った「四寺家」など、大本山クラスには重鎮的な子院が存在し、先頭に立って本院を護ってきたのです。

頼もしく、そして有難いです。

 

 

身延山では明治初期、度重なる大火で沢山の坊が焼失、醍醐谷にあった林蔵坊も焼けてしまいます。

折しも明治維新直後、仏教排斥の真っ只中、身延山は改革が急がれていた時で、多くの坊が統廃合されました。

このとき、西谷の現在地に再建された林蔵坊にも複数の坊が合併され、現在に至るということです。

 

 

林蔵坊の境内に入ると、正面に立派な宝塔が現れます。

宗祖700遠忌の砌、大分県の宗門が建立した旨が刻まれていました。

 

 

手に経巻を持った観音様と思われる銅像もあります。

キレイなお像ですね。

 

 

宿坊は境内の西側にあります。

ひと晩、お世話になります!

 

 

受付周りはこんな感じ。

厳格といわれた日興上人の坊、はじめ緊張しましたが、実際は全くそんな感じではありません。

 

 

案内されたのは2階の広いお部屋。

落ち着いた和風旅館のようです。

 

 

聖人せんべい、嬉しいな!

 

 

障子を開けると、目の前に鷹取山。

冬場は15時には陽が落ちてしまいます。

 

 

北側の窓を開けると、小ぶりなお堂。

(何がお祀りされているのか、聞くの忘れちゃいました・・・。)

奥に見えるのは清水坊さんですね。

 

 

こちらが本堂です。

朗らかな奥様にお願いをし、お堂をお借りしてお勤めをさせていただきました。

よく清められており、気持ちよくお経を読むことができました。

 

 

夕食は18時から、1階の大広間で。

どれも美味しそう、食欲をそそられます。

特に湯葉料理がめちゃくちゃ美味しかったです!

 

満腹になり、お風呂をいただいたら、もう夢の中・・・。

 

 

翌朝、5時前に起きて林蔵坊を出たら

 

 

あっという間に久遠寺本堂へ。

5時半からの朝勤に参加します。

 

 

祖師堂のお勤め、そして布教部お上人の法話まで聞いたら、外は明るくなっています。

鷹取山が輝いていますね!

 

 

ただいま~!

すぐに朝食をいただける幸せ。

やっぱり宿坊はいいですね!

 

 

林蔵坊、とても居心地の良い坊でした。

決して敷居は高くないので、多くの檀信徒に参籠してもらいたいと思います。

 

 

(林蔵坊歴代墓所に刻まれている鶴紋)

結果的に他の五老僧と相容れない存在になってしまった日興上人ですが、ここ身延山に、坊という形でその旧跡が生き続けていたこと、なにものかに感謝致します。

実際、身延山に拠点があったことで、日興門流の方々の窓口、取り次ぎ寺であったでしょうから、外交的にも林蔵坊の果たしてこられた役割は、非常に大きいと思います。

 

 

これからも末永く林蔵坊が繁栄してゆくことを、祈念してやみません。

 

 

(参考文献)

・「身延山史」(昭和48年:身延山久遠寺)
・「身延町誌」(昭和45年:身延町誌編集委員会)
・「日蓮宗寺院大観」(昭和56年:池上本門寺)
・「富士日興上人身延離山の研究」(昭和61年:早川達道 法華ジャーナル)
・「新訂 身延鑑」(平成13年:藤井日光 身延山久遠寺)
・「日蓮聖人のお弟子たち」(昭和58年:宮崎英修 日蓮宗新聞社)

(具足山妙顕寺総門)

建武元(1334)年、日像上人は40年にもわたる艱難辛苦の末、「妙顕寺は勅願寺たり」という後醍醐天皇の綸旨を賜りました。

ここに初めて、日蓮宗門は天下公認の教団となったのです。

具足山妙顕寺

 

 

「勅願寺」、調べてみると、天皇や上皇の命により、国家の安定や皇室の繁栄を祈願するお寺だそうです。

ただ、勅命を受けたからにはきちんと祈願をし、何より結果を出さなければ、名ばかりとなってしまします。

 

 

(日像上人より大曼荼羅を授与される妙実上人:本山妙覚寺編「日像菩薩徳行略絵伝」より引用)

日像上人は康永元(1342)年に遷化、妙顕寺の後任を託されていたのは弟子の妙実上人でした。

 

 

南朝正平7(1352)年(※)の夏は、全く雨が降りませんでした。文献には3月5日から実に105日間、降らなかったとの記述もあるほどです。

そうすると田畑も干上がってしまい、世は大旱ばつの様相を見せ始めていました。

朝廷は諸宗に祈雨の勅命を出しますが、一向に効き目が現れません。

(※)北朝文和元年。祈雨の時期については諸説あり、妙顕寺縁起では北朝延文3(1358)年とする。

 

 

そこで今度は、妙顕寺寺主の妙実上人に祈雨の修法を行うよう、勅命を発したのです。

(妙実上人祈雨之図:京都像門本山会編「大覚大僧正」表紙より引用)

妙実上人は早速、数百人の僧とともに桂川の川辺に赴き、祈祷を始めました。

間もなく(※)降り始めた雨は田畑を潤し、万民は歓喜したということです。

(※)法華経一巻がいまだ終わらないうちに、北山方面より雨雲が湧き、大雨が降り出したという

 

 

この霊験に帝は大いに喜び、日蓮聖人に「大菩薩」号、日朗上人、日像上人に「菩薩」号、妙実上人に「大僧正」の僧階を下賜しました。

(妙顕寺三菩薩堂)

 

(三菩薩堂に掲げられた扁額)

妙顕寺境内には三菩薩堂があるくらいですから、妙顕寺、そして日蓮宗門にとって、これがいかに栄誉なことであったか、つまり「実力の伴った一門」を世に知らしめた、大きな出来事だったのです。

 

 

この夏、僕はまさにその、妙実上人が雨乞いの祈祷を行った場所を訪問してきました!

 

上鳥羽の実相寺です。

20年ほど前に建立されたという、若々しい山門が迎えてくれます。

 

 

山門脇の題目碑。

 

 

側面には確かに「当寺開基 大覚大僧正」とあります。

 

 

クラシックな本堂です。

ご首題を書いていただいている間、本堂内でお経をあげさせていただきました。

 

 

訪問時、ご住職は作務衣、頭に手ぬぐいを巻いており、精悍で一見 庭師さんかと思いました。

気さくなお上人で、知識も豊富。いろいろお話を伺っちゃいました。

 

 

(実相寺に隣接する公園)

まず実相寺がある場所、「鍋ヶ淵」という個性的な地名が気になりました。

 

 

(祥久橋から上流方面を撮影)

実相寺の西、約1kmほどのところを桂川が流れています。

 

 

今でこそ治水により流路が定まっていますが、実は桂川は相当な暴れ川だったといいます。

下図は京都盆地の地形を示したものですが、桂川流域には広大な後背湿地(4:横線)が広がっているのがわかります。

桂川は この後背湿地エリアを自由に流れ、時代によって川筋が大きく変化したと思われます。

(京都盆地の地形分類図:植村善博「京都の治水と昭和大災害」より引用)

ご住職によれば、その昔は実相寺のすぐ脇を蛇行していたらしく、堤の様子がまるで鍋の淵のようだったことから「鍋ヶ淵」という地名になったらしい、ということです。

 

 

また、実相寺の前を南北に走る道、決して広くはない道ですが、これは「旧千本通り」というそうです。

 

 

この旧千本通り、調べると平安京があった時代は、平安京のど真ん中・朱雀大路が羅城門をくぐって、真南に延びるメインストリート「鳥羽造道(とばつくりみち」だったそうです。

(鳥羽造道:岸元史明著「平安京地誌」に加筆)

こういった情報を総合すると、妙実上人が雨乞い祈祷をされた場所というのは、

●帝が暮らす平安京大内裏の真南であり、かつ

●大きな川を望む場所だったわけですね。

(※)海から淀川を経て与渡の津に着いた物資は、牛車に積み替えられ、鳥羽造道を北上し平安京に届けられた。実相寺境内には街道に敷かれていた車石が保存されている。

 

 

(桂川:祥久橋より下流方面を撮影)

今回ブログを書くにあたって、各地の雨乞い修法や祭祀を調べてみました。

およそ共通しているのは、雨を司るといわれる水神、特に龍神に祈りを捧げるということ、また龍神は水に宿っているため、池や川の畔、ときには海でも行われるということでした。

 

 

(小湊誕生寺境内の八大龍王碑)

で、気になるのはこの龍神ですが、法華経では序品第一で早速、仏法守護の八大龍王(※)が総登場します。

竜族のトップ8ですからね、雨雲の行方などは自在にコントロールできるのでしょう。

(※)難陀、跋難陀、娑伽羅、和修吉、徳叉迦、阿那婆達多、摩那斯、優鉢羅の各龍王

 

 

日蓮聖人も有名な雨乞いの逸話、ありますね。

忍性上人との雨乞い対決で、日蓮聖人が法華経を読誦されたのは、鎌倉七里ガ浜の田辺ヶ池でした。

 

 

実際、田辺ヶ池の畔には八大竜王を祀る祠↑があり、雨乞いの旧跡に開かれた霊光寺、山号はまさに「龍王山」でした。

龍王山霊光寺

 

 

ちなみに他宗の雨乞いではどうかというと、例えば真言宗では善女竜王」が祈祷の対象となっているようです。

調べると善女竜王は、法華経提婆達多品第十二に出てくる娑伽羅龍王(八大竜王)の8才の娘のようで、だとすると日蓮宗でいう七面大明神とイコールになります。

考えてみれば七面山はもともと真言系修験の行場であったわけで、山上の池に棲む龍神そのものは同じなのでしょうね。

ブログを書きながら、いろんな事に気づかされます。

 

 

(妙実上人祈雨図:小林日董編「日像菩薩徳行記」より引用)

いずれにせよ法華経は、龍神が守護を約束したお経であることは間違いありません。序品第一や提婆達多品第十二でその名を唱え、讃嘆することで、龍神達が動き始めるのでしょう。

妙実上人が鍋ヶ淵で法華経を読み始めたら、もうミッションコンプリート確定だったのです!

 

 

また、こんなお話もあります。

妙実上人は雨乞い祈祷に先立って、宗祖であり、また雨乞い祈祷の先駆者であった日蓮聖人の坐像を彫刻したそうです。

妙実上人がお像にお伺いを立てたところ、「うん、うん、うん」とお像が三度うなずかれた、といいます。

国家の行く末を左右する勅命、妙実上人は不安もあったのでしょうが、これで確信し祈祷に臨まれたのでしょう。

実際、妙実上人はなんと雨具を用意して鍋ヶ淵にやって来られた、という文献さえあります。

ちなみに坐像は「うなずきのお祖師さま」と信仰され、毎年お会式の時だけご開帳されているそうです。

いつか拝見してみたいものです。

 

 

実相寺歴代お上人の御廟に参拝。

開山は、祈雨の効験を賞賛され、称号を賜った妙実上人、すなわち大覚大僧正です。

実相寺の開山年を祈祷が修された正平7(1352)年とすると、今年は開山674年となります。

 

 

その割に墓石が少なめなのが気になりました。

ご住職によれば、一つは境内のあるこの一帯、桂川と鴨川の合流地点に近く、水害で何度も流され、古い墓石が散逸してしまったこと、もう一つは実相寺は京都妙覚寺の筆頭末寺であったゆえ、不受不施論争に伴う弾圧をもろに受け、2~18世は未だに一切不明(除歴か?)、その影響もあるだろうということでした。

 

 

京都妙覚寺は、不受不施派の祖といわれる仏性院日奥上人が21世を歴されていたため、江戸幕府の監視がもちろん厳しかったと思われますが、当時の実相寺も、日奥上人の教育を受けたお上人が集まる不受不施派の拠点として、徹底的にやられた(※)のだと思います。

(※)宮崎英修上人著「不受不施派の源流と展開」によれば、(一般論として)弾圧により多くが断食、自害、流浪し、また地下に潜伏することで信仰を続けたという。以前は、西日本では備前・美作などに潜伏遺跡がみられたそうである。

方広寺大仏殿跡

 

 

(能勢妙見山にある日乾上人銅像)

秀吉主催の千僧供養会への出仕可否に端を発する日蓮宗門の不受不施論争は寛永7(1630)年、身池対論で一応の決着を見、京都妙覚寺貫首には身延山21世を務めた寂照院日乾上人が就きました。

恐らく実相寺19世からはしばらく、日乾上人に近いお上人が慎重に選ばれていたと想像します。

 

 

歴代御廟の近くには、松永貞徳の墓があります。

松永貞徳、僕はよく知らなかったんですが、「貞門俳諧の鼻祖」といわれ、それまで公家や知識人のものだった古典俳諧を、庶民の楽しみに落とし込んでくれた俳句界(※1のレジェンドだそうです。

貞徳の兄が実相寺住職(※2)であった関わりで、墓所が実相寺にあるといいます。

(※1)「俳句」は大正時代に正岡子規が初めて唱えた言葉。それまでは「俳諧」「発句(ほっく)」というジャンルだった。(日本俳句研究会HPより)

(※2)安祥院日陽上人。日奥上人に従い対馬に渡り、対馬で没したという。

 

 

(明治18年、松永貞徳遺蹟の修繕を記念した石碑)

今回、実相寺についての資料を漁っている中で、仏教界よりも俳句界からのアプローチで、実相寺の研究をしている文献が多いのがとても印象的でした。

 

 

ところで、ご住職とお話していて、ひとつ驚いたことがありました。

 

一昨年に訪問した岡山市の妙勝寺

こちらは南北朝の戦いで敗れた多田頼貞の葬地を、大覚大僧正がお寺にしたという由緒をもちます。

(明光山妙勝寺の山門)

時代は下り天正10(1582)年、多田頼貞の子孫である能勢頼次は、本能寺の変に関わった疑いで羽柴秀吉軍の攻撃を受け(山崎の戦い)、先祖代々の土地・摂津国能勢領を奪われてしまいます。

このとき能勢頼次は先祖にご縁の深い備前妙勝寺に逃れ、お題目を唱えながら再興の機を待つことになりました。

明光山妙勝寺

 

 

(能勢妙見山から川西市方面を望む)

やがて秀吉が没すると、状況は大きく変わり慶長4(1599)年、能勢頼次は徳川家康によって小姓に取り立てられ、更にのちの関ケ原で武功を立てたため、18年ぶりに能勢の旧領を回復した…ということを、過去のブログで書いた記憶があります。

 

 

ただひとつ疑問だったことがありました。

当時、家康は既に五大老筆頭、いわば最高レベルのVIPでした。

どうして流浪人の能勢頼次が家康に取り立てられたのか?ということでした。

 

実相寺のご住職によると、能勢頼次には弟がいて、兄頼次が備前に逃れたときに弟は出家、金剛院と称し、のちに実相寺の住職を務めていたということです。

慶長4(1599)年の1月12日は、大坂にいた家康が上洛する用事があり、その途次、実相寺に立ち寄り、休息しました。

このとき金剛院が家康に謁見、実は私は能勢頼次の弟であり、兄はいまだに人目を忍んで暮らしている旨を伝えたようです。

これを聞いた家康は、ならばまず、自分の身辺警護を任せてみようと小姓に取り立てた、ということでした。

 

 

いろいろつながった~!

このお話を聞けただけでも、実相寺を参拝した甲斐がありました!

関ケ原での活躍が評価された能勢頼次は堂々と旧領に帰還、のちに時の身延山法主・寂照院日乾上人とのご縁によって創建されたのが真如寺、また途絶されていた先祖代々の星信仰を、法華経でお祀りし直したのが、現在の能勢妙見山(真如寺境外仏堂)なのです。

無漏山真如寺

能勢妙見山

 

それにしても大覚大僧正、多田(能勢)氏、備前、不受不施義、日乾上人、妙見信仰というキーワードは、まるで一本の線でつながっているように繰り返し出てきますね・・・。

 

 

実相寺のご住職は、近いうちに岡山を訪問、参拝してみたいと仰っていました。

大覚大僧正や能勢頼次にご縁が深い備前の寺院、いくつもあるようです。

いろんな意味で奥深い備前。実相寺ご住職ならではの発見もあるでしょう。

是非また、ご教示いただきたいものです。

 

南無妙法蓮華経。

 

 

 

(参考文献)

・「平安京地誌」(昭和49年:岸元史明 講談社)
・「能勢地方における日蓮宗の展開」(昭和60年:植田観樹 日蓮宗豊能寺院)
・「正覚山実相寺の沿革」(平成5年:四方行正 近世初期文芸第10号)
・「第六百五十遠忌記念 大覚大僧正」(平成25年:京都像門本山会)
・「日像菩薩徳行略絵伝」(平成30年:京都本山妙覺寺)
・「京都の治水と昭和大水害」(平成27年:植村善博 文理閣)

(徳島駅前から眉山方面を望む)

鞆浦の法華寺を参詣した翌日、僕は徳島市内にある善学寺を訪問しました。

 

 

善学寺は、法華寺のご住職が15年前まで住持されていたお寺で、現在は息子さんが法灯を継承されています。

山門の奥に見える裏山は、徳島市のシンボル・眉山(びざん)です。

 

 

江戸末期に建立された題目碑です。

香の花が供され、水鉢にはキレイな水。

とても清められたお寺だということがわかります。

 

 

善学寺は通称「鬼子母神様のお寺」といわれています。

善学寺では、毎月8日(※)に鬼子母神講を開いているようです。

(※)鬼子母神様の縁日は8のつく日。失き子を探し7日間彷徨った鬼子母が、8日目、釈尊のもとに行き改心、法華経の守護神となったから…でしょうか?

 

 

本堂です。てっぺんに見事な相輪が立っていますね。

御本尊は本堂の2階にお祀りされており、こちらでご首題を戴きました。

 

 

ご住職はおそらく僕と同年代、想像通り とても誠実そうなお上人です。

実は前日の鞆浦法華寺 参詣にあたり、事前にアポやスケジュールなど、善学寺のご住職には大変お世話になり、お礼を申し上げました。

徳島のお寺に来られるってことは、もう随分廻られているんじゃないですか?」とご住職に言われました。

 

 

徳島県内の宗門寺院は10ヶ寺。これは沖縄、鹿児島に次ぐ少なさだといいます。

(徳島県美波町辺りを歩くお遍路さん)

徳島といえばお遍路に象徴されるように、真言宗カラーが非常に強い(※)ため、そのイメージもあるのでしょうが、わざわざ海を渡って日蓮宗寺院を目指す人は、そうそういないようですね。

でも、そう聞くと逆に徳島日蓮宗門、どんな様子なのか興味が湧いてきました!!

(※)優に300ヶ寺は越えるという。また真言宗には御室派、東寺派など沢山の分派があるが、徳島県は高野山真言宗が突出して多いのが特徴らしい。

 

 

善学寺 歴代お上人の御廟に参拝。

真言宗王国 徳島にあって、今日まで法華信仰の拠点を護ってこられた先師達に、心から感謝致します。

 

 

 

善学寺HPで紹介されている縁起によれば、

細川氏に仕える芝原城主・久米安芸守義広が旧地、藍園村黒田(現 徳島市国府町西黒田)に開創した法光寺が、天正3年(1575)、細川氏に代わり阿波を治める三好長治の勧めで、開山・善学院日形上人により改宗」とあります。

(歴代墓石に刻まれた墓誌)

善学寺は、阿波国の複雑な歴史を そっくり鏡写しにしたような由緒を持つお寺です。

前日お会いした善学寺の前ご住職(現:鞆浦法華寺ご住職)に伺ったお話も参考に、書いてみたいと思います。

 

 

善学寺の前身・法光寺があったといわれる西黒田は、吉野川の南岸に位置します。

葉物野菜とかブロッコリーなど、畑作が盛んなようです。

肥沃な土地、大河の恩恵ですね!

 

 

近くには芝原八幡神社があります。

戦国時代、この辺り(※)芝原城を構えていたのが細川氏の家臣・久米義広でした。

義広は領民の心を安らかにするためでしょう、真言宗の法光寺を自領に創建したのです。

(※)詳細な場所は未だ特定されていないという

 

 

(当時の阿波国守護所であった勝瑞城址)

当時の阿波国守護は細川氏之

ところがナンバー2の三好義賢(※)は畿内で力を蓄え、虎視眈々と守護の座を狙っていました。

天文21(1552)年、三好義賢は細川氏之を暗殺し、実権を握ります。

(※)晩年は生前法号の「実休」を名乗っていた

 

(鑓場古戦場跡)

主君を殺された久米義広は憤り(※)、翌年、三好義賢に仇討ちの戦を起こしました(鑓場の戦い)。

(※)久米義広にとって三好義賢は娘婿であったが、主君・細川氏之への義を貫いた。

 

 

(久米義広の遺徳を偲ぶ歌碑:義広の雄姿が刻まれている)

久米軍は奮戦(※)しますが、如何せん多勢に無勢、久米義広の一族郎党は滅ぼされてしまいます。

(※)ちなみにスマホで「義戦」と検索すると、最初に「鑓場の戦い」が出てくるほど、久米義広は正義を貫いた武将として名を残した

 

 

下剋上を果たし、久米義広も退けた三好義賢ですが、のちに河内で戦死してしまい、家督は子の三好長治がわずか9才で継ぐことになります。

この三好長治、いろいろな資料を読んでも、残念ながら良くない話ばかりが目につきます。

(三好長好の居城だった勝瑞城址)

若い自分の後見人として篠原長房という、とても有能な家臣がついてくれたのに、次第に彼を疎んじ、罪がないのに滅ぼしてしまったようです。

この頃から三好長治の強権政治が目立ち始め、阿波国内の政情不安が増してきたといいます。

 

 

(大阪堺にある廣普山妙國寺)

一方、三好家は法華篤信の一族、堺の妙國寺は長治の父・義賢の寄進によって開創されたほどです。

廣普山妙國寺(堺市材木町)

 

権力を手にした三好長治は、天正3(1575)年、阿波一国を皆法華にしようと目論み、領民に改宗を迫りました

世にいう「法華騒動」です。
 
 

法光寺が日蓮宗に改宗したのもちょうどこの頃で、開山・善学院日形上人の院号を寺号に据え「善学寺」としたのだと思います。

調べた限りでは、徳島県にある日蓮宗寺院10ヶ寺のうち4ヶ寺の縁起に、三好長治の名前が見られるほどですから、当時の勢いは凄まじかったんだろうと想像できます。

(三好長治が開基の高雲山本行寺)

若干22才の三好長治が為したことに賛否両論あるとは思いますが、当時は強義折伏が是とされていたし、四国布教を睨んだ日蓮宗門の思惑も、多分にあったことでしょう。

手段はともかく、長治は純粋に阿波国に正法を弘め、政策の軸に据えたかったのだと、僕は思いたいです。

 

 

(阿波三好家の居館跡と推定される勝瑞城館跡)

ちなみに三好長治による阿波法華プロジェクトですが、真言宗などの激しい反発から、公場での法論対決(勝瑞宗論)にまで至ります。

ところが直後に三好長治自身が戦死したため頓挫、三好政権も衰退してゆきます。

 

 

(長宗我部元親:平尾道雄著「長宗我部元親」より引用)

これを好機と見たのでしょうか、天正10(1582)年、隣国土佐の長宗我部元親が阿波国を制圧します。

このとき、日蓮宗に改宗したばかりの善学寺も焼けてしまったそうです。

 

 

ところが長宗我部政権も、そう長くはありませんでした。

天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国討伐です。各地の武将が連合軍を組織して攻め入り、長宗我部軍を降伏させました。

(戦前まで徳島城址にあったという蜂須賀正勝銅像:渡辺世祐著「蜂須賀小六正勝」より引用)

特に、阿波国の要所は秀吉の重臣・蜂須賀正勝が攻めたてました。実はこの軍勢の中に、鑓場の戦いで果てた久米義広の遺児がいたといわれています。

三好義賢との戦の直前、久米義広の嫡男は 播磨国の赤松氏(※)を頼って匿われたそうです。

この子が成長して久米四郎左衛門義昌となり、彼は阿波国の地理には滅法詳しいですから、蜂須賀正勝に的確なアドバイスをし、勝利に導いたといいます。

(※)久米義広の主君・細川氏之の縁故

 

 

(徳島中央公園内に立つ蜂須賀家政銅像)

四国平定を果たした豊臣秀吉は、論功行賞として阿波国18万6千石を、蜂須賀家政(正勝の嫡男)に与えました。

以後、阿波国は明治維新まで蜂須賀氏の国として、やっと安定したのです(とはいえ蜂須賀氏は秀吉の家臣。政権が徳川に変わり苦労したようですが)。

阿波国はホント、激動の歴史を重ねてきたんですね…。

(※)当初、秀吉は正勝に阿波国を与えるはずだったが、老齢の正勝は、余生を秀吉に近待したいと希望し辞退、代わりに子の家政に与えられた

 

 

(芝原八幡神社境内の大銀杏)

一方、久米義広の遺児・義昌ですが、徳島県史によれば、四国討伐時の戦功により「以西郡日開島および麻植郡山路村で150石の地を給された」とあります。

旧領に堂々と帰還を果たし、父の無念を果たしたわけです。

 

 

(「正保元年 阿波国徳島城之図」に加筆:国立公文書館アーカイブより引用)

蜂須賀家政は阿波国に入国すると早速、徳島城を築きます。

その昔、渭山(いのやま)城があった場所を中心に城構えが造られ、このとき眉山の麓に寺町が設けられたといいます。

 

 

(藍の葉を乾燥させたもの:勝瑞城館跡展示室の展示物)

それまでの相次ぐ戦乱で、国全体が疲弊していた阿波。

蜂須賀家政は、藍作や塩田など独自の産業を振興する一方、荒廃した神社・仏閣の再建を奨励し、民心を和らげようと努めました。

 

 

こうした流れの中、文禄2(1593)年、久米義昌は父・義広に由縁のあった善学寺を、寺町に再建させたのです。

阿波国がいちばん殺伐とした時代を知っている義昌のこと、善学寺に込めた思いは、それは深いものがあったでしょう。

 

 

(灰燼と化した寺町:徳島空襲を記録する会編「写真集・徳島大空襲」より引用)

時代は下り太平洋戦争末期、徳島市は大空襲に見舞われました。

善学寺本堂にも焼夷弾が命中し、完全に焼けてしまったといいます。

寺町の大部分が焼き尽くされ、瓦と土塀だけが遺されたそうです。

 

 

昭和45年(1970)、本堂を再建したことを足掛かりに 少しずつ復興、現在の寺容が整えられたということです。

今の本堂が鉄筋コンクリート造りなのは、そうした空襲の記憶、教訓が込められているのかもしれませんね。

 

 

(山門に掲げられた扁額)

善学寺の山号は「長久山(ちょうきゅうざん)」。

山号の由来を伺うのを忘れてしまいましたが、その歴史ゆえ、せめて安寧な世の中が続きますように、という願いが込められているような気がしてなりません。

 

 

(河野幸夫著「徳島 城と町まちの歴史」より引用)

現在の寺町には6宗派、23ヶ寺あるそうですが、このうち↑日蓮宗寺院は6ヶ寺、法華宗(本門流)寺院が1ヶ寺、軒を連ねています。

 

 

(眉山ロープウェイ内から寺町を望む)

善学寺のご住職によれば、真言宗王国にあって、宗門寺院が散在するよりは、こうして一箇所にまとまっていた方が、結束が保てるし、行事も合同で行いやすいということ。

「小さい所帯ですけど、仲良くやってます」とおっしゃっていました。

 

 


帰り際、ご住職に「次回は是非、8月のお盆の時期に来てください!」と言われました。

そう、徳島といえば阿波踊り、一度ナマで見てみたいもんだなぁ。

 

・・・と思っていたら、奇跡が起こりました!

 

(新町川越しに藍場浜演舞場を望む)

町の中心部に近づくにつれ、「ドンガドンガドンガ・・・」という、身体の底に響く音。

 

 

なんと、4月なのに阿波踊り、やってたんです!

 

 

「はな・はる・フェスタ」というお祭りで、各グループ(「連」っていうらしい)10分ほどのパフォーマンスですが、入れ替わり立ち替わりで踊りを見せてくれます。

 

 

いや~、ライブはいい!

終始テンション上がりっぱなし、踊りたかったな~!

こうなりゃ次回は、8月に来るしかないか!

 

 

 

(参考文献)

・「長宗我部元親」(昭和41年:平尾道雄 人物往来社)
・「蜂須賀小六正勝」(昭和4年:渡辺世祐 雄山閣)
・「徳島県史」(昭和41年:徳島県史編さん委員会)
・「徳島 城と町まちの歴史(昭和57年:河野幸夫 聚海書林
・「徳島歴史散歩」(昭和49年:佃実夫 創元社)
・「日蓮宗徒群像」(平成5年:宮崎英修 宝文館出版)

gooブログサービス終了に伴い、拙ブログ「日蓮聖人のご霊跡めぐり」、Amebaブログに引っ越しました!

引っ越し作業とともに、過去の投稿の手直しをしていたら、半年も経ってしまいました。

 

 

リニューアル最初の投稿として、今回は4月に旅した徳島県のご霊跡を紹介します!

 

(徳島阿波おどり空港にて)

遠い遠いと思っていた徳島でしたが、湘南を始発に乗って、羽田を朝7:05に発つと、8:20には徳島阿波おどり空港に着いちゃいます。

 

 

レンタカーを借りて、高知との県境に近い海陽町まで、約2時間半のドライブです!

 

 

国道55号線(かつての土佐東街道)は、山間部を縫うように走っています。

春の山は彩り豊かです。

緑や赤紫の若葉に、淡紅色の山桜も混じり、見ているだけで気分がアガります。

 

 

四国は真言宗王国。

開祖 空海上人の足跡を辿るお遍路さんの姿を、よく目にします。

 

 

11時頃、ようやく海陽町の鞆浦(ともうら)に着きました。

目指す法華寺は、町並みとともに名所になっているようですね。

 

 

海陽町の真ん中には海部(かいふ)川があります。

「海部」と聞くと、僕らサーファーは胸がときめきます。

(サーフィンワールド平成2年11月号より引用)

海部川の上流域は国内有数の降雨地帯、流れ出た土砂が河口に溜まり、屈指のサーフポイントになります。

雑誌に特集されるほど、いい波になります。

 

 

残念ながら当日は湖のように静かでした!

 

 

海部川の河口沿岸は、岩礁に護られた独特の地形から、「鞆」(とも:巴の語源。弓に使う武具の形に似ている)と呼ばれ、古くから風待ち、潮待ちの港として知られてきました。

 

 

(鞆浦漁港)

漁業に従事する方が多いようですね。

「海部(かいふ)」という地名は、漁業の民「海部(あまべ)」が由来だとか。

 

 

これは…寒天の原料・テングサかな?

徳島県は国内有数の産地だといいます。

 

 

(鞆浦漁港)

鞆浦は、時間が ゆぅ~っくり流れてます。

護岸で昼寝でもしたら気持ちいいだろうな!

 

 

鞆の最奥部(実際、鞆奥というらしい)に入ってゆきます。

映画のセットみたいな路地を徐行してゆくと…

 

 

どん突きにありました。法華寺です。

 

 

山号は吉祥山(きっしょうざん)です。

 

 

三方を急峻な山に囲まれた境内。

決して広くはありませんが、独特の雰囲気があります。

左が祖師堂、右が釈迦堂。

さらに右奥に庫裡があって、渡り廊下でつながっています。

 

 

お昼前だというのに、ご住職夫妻が温かく迎えてくれました。ホント、恐縮です。

法華寺のご住職は僕の親世代、すなわち戦前生まれじゃないかと思いますが、お元気!そしてとにかく知識が豊富!

お寺の縁起を、日本史、宗門史に照らし合わせて わかりやすく説明してくださいました。

これがまた驚きの連続だったので、記録も兼ねて、書き残したいと思います。

 

 

法華寺祖師堂には「鞆のお祖師さま」という有名な祖師像がお祀りされています。

ご好意でお開帳していただき、拝見しました。

歴史を重ねた木像独特の黒さがありますが、ものすごく眼に力があり、すでに僕の心は見透かされていると感じました(笑)。

 

 

非常に霊験あるお祖師さまらしく、昔も今も、全国から参拝者がいらっしゃるそうです。

また地元鞆浦(ここもやはり真言宗が強いそうですが)では宗派問わず、住民に信仰されているとか。

体調が悪くて病院に行かなきゃならない時、病院よりも まず先に お祖師さまに手を合わせに来るとか、法要の際には朝獲れのブリが奉納されるとか…漁師町とはいえ、ご住職夫妻はここに来たばかりの頃、面食らったそうです。

お祖師さまが、あまりに身近な存在なんですね!

 

 

この祖師像、ルーツを探ると日蓮聖人ご在世中にまで遡るといいます。

 

日蓮聖人が伊豆流罪中(弘長年間)、感得された梅の霊木がありました。

のちに弟子である日法上人(彫刻の名手)が霊木から三体の祖師像(※)を造立、日蓮聖人によって開眼され、うち一体が阿波に届けられました。

(※)あと二体は大覚山妙泉寺(大阪府和泉市)、阿毘縁山解脱寺(鳥取県日南町)に現存するという

当時、阿波国守護は小笠原氏。

今まさに元の大軍が九州に襲来するかという時代、本土防衛に臨む小笠原氏のもとに、身延山在山中の日蓮聖人がわざわざ代僧を遣わして、祖師像を持参させたのでした。

 

 

祖師像は、眉山南麓の八万村に法華寺が建立され、そこに祀られることになります。

はじめは戦勝祈願として贈られた祖師像、もちろん軍功の霊験もありましたが、庶民の願いも叶うということから、噂を聞きつけた人々が続々と参拝に来るので、門前町ができるほどだったといいます。

 

当地には今も「法花(ほっけ)」「法花谷」という地名が残っています。

ご住職のお話では、法花には妙法蓮華経の5字が充てられた小山が5つあって、その麓に法華寺があった(※)と伝わる、ということでした。

(※)現在の住所表示では徳島市八万町法花谷。恐らく現在、徳島市の法花谷配水場がある辺りだと思います。

 

 

(法花谷を囲むように小山が連なる)

時代は下り戦国時代、四国制圧を目論む土佐の長宗我部氏は、阿波国に攻め入ってきました。

長宗我部軍は八万村にも火を放ち、このとき法華寺は門前町もろとも焼かれてしまいました。

天正5(1577)年のことでした。

 

 

ところが唯一、無傷で焼け残ったものがありました。

日蓮聖人の木像でした。

(冷田川:通称ではなく、正式名称)

これを発見した兵士は怖くなり、お像を近くの川に投げ入れました。

すると驚くことに、お像がつめたっ!と声をあげたといいます。

 

 

(冷田橋:祖師像が投げ入れられたのは この付近という)

実際、法華寺の旧地近くには、冷田川(つめたがわ)冷田橋(つめたばし)があり、由来として日蓮聖人像の逸話が語られているといいますから、ホント、興味深いですよね!

 

 

天正16(1588)年、海部鞆浦の沖合で、毎夜 海が光り輝くという不思議な現象がありました。

そこで、漁夫が網を入れたところ、木像が揚がってきたそうです。

(昭和14年に法華寺に奉納された絵馬:祖師像湧現の状況を描いている)

漁夫達はその木像に ただならぬものを感じ、互いに手を組み合わせ、丁寧に木像を運びました。

そして小高い山(※)を越えた場所に木像を安置したといいます。

(※)手を組んで運んだ由来から、手倉山というらしい

 

 

(そう、右手に笏、左手に経巻を持ってました!)
ところが後日、木像について驚きの事実が判明します。

寂照院日乾上人(のちの身延山21世)が四国布教で鞆浦に立ち寄った際、村人から頼まれたのでしょうね、この木像を調べたところ、お像は日蓮聖人ご自身が開眼した一木三体の一体であり、兵火に焼かれた八万村法華寺の あの祖師像だとわかったのです。

 

 

(能勢妙見山の日乾上人銅像)

日乾上人は19才にして身延山で天台三大部を講じ、また26才で本国寺求法院檀林の講主に迎えられ(最年少記録)、天台学を講じるほどの学識の持ち主。もちろん宗門史、宗祖についての知識も豊富だったはずで、鑑定結果は間違いないでしょう。

 

 

川に投げ込まれた祖師像は海まで下り、紀伊水道を南下して蒲生田岬を越え、実に11年をかけて鞆浦まで流されてきたのです。

(Google earthに加筆)

早速 村人は協力して祖師像をお祀りする伽藍を建立、日乾上人を開山に迎えて文禄元(1592)年(※)、かつて八万村にあった法華寺を遷座、という形で現在の吉祥山法華寺が開創されました。

(※)寛永3(1626)年という説もあります。

 

 

ちなみに祖師像が揚がった海沿いには、合掌姿の日蓮聖人像が立っています。

ホント、いい表情の石像ですね!

 

 

また大祭の時には実際に漁船を出し、湧現の海上で祖師像を渡御させるそうです。

漁師町ならではですよね!

(法華寺庫裡に掲げられた写真)

それにしても、あまりにドラマチックな縁起、そのうえご住職の説明が上手いものだから、話しに引き込まれ、ちょっとした映画を観ている気分でした。

 

 

ひとつ疑問が生じました。

日蓮聖人はなぜ、阿波国守護である小笠原氏の戦勝祈願をしたのだろう?

実は法華寺の先代ご住職(※)が、そのヒントになりそうな説を提唱されています。

僕なりの解釈を、以下に書きますね。

(※)ある難しい学問の研究者さんでもあるそうで、法華寺縁起も相当鋭く探求されたと聞きました。

 

 

(南部実長公が日蓮聖人を出迎えた身延山「逢嶋之遺蹟」)

文永11(1274)年、三度目の諌暁が受け入れられず鎌倉を去った日蓮聖人、波木井郷の地頭であった南部実長公の招きで身延に入山されたことはよく知られています。

 

 

(身延山菩提梯脇にある南部実長公銅像)

日本国にそこばくもてあつかうて候み」(波木井殿御報)

つまり当時日本中から、すごく扱いに困る人、鼻つまみ者にされていた日蓮聖人。

その身柄を、果たして南部実長公の一存で引き受け、そのうえ一山を寄進するまで できたのでしょうか?

 

 

↓これは平安末期における甲斐国の勢力図です。

甲斐国はおよそ甲斐源氏の三大勢力によって統治されていたことがわかります。

 ●武田一族:青色

 ●安田一族:オレンジ色

 ●加賀美一族:茶色

(道の駅なんぶに併設された南部氏展示室の展示資料)

そもそも南部実長公は加賀美の血筋、当時の波木井郷も加賀美一族の勢力下にあったわけです。

 

 

(加賀美遠光坐像:加藤雅彦「加賀美次郎遠光公物語」より引用)

加賀美の祖は遠光。

遠光の長男は秋山光朝でしたが源頼朝に疎まれ早逝したため、実質的な嫡男は頼朝の信頼が厚かった次男の小笠原長清(小笠原氏の祖)でした。つまり加賀美領地内の一切は、(遠光没後は)小笠原当主の判断(※)で行っていたはずです。

(※)信濃守に任じられた小笠原長清は甲斐を離れるが、以後も当主として甲斐の統治に目を光らせていたと思われる。

 

 

(道の駅なんぶにある南部光行騎馬像)

ちなみに南部光行(南部氏の祖:実長の父)は加賀美遠光の三男、つまり小笠原長清の実弟であり、大切なことは兄の判断を仰いでいたでしょう。

ということは、南部実長公も小笠原の当主に、日蓮聖人を身延山に入山できるよう願い出て、小笠原の許しがあって初めて身柄を受け入れることができた、と考えるのが自然だと思います。

 

 

一方、それまで阿波国守護は佐々木氏でしたが、佐々木氏は承久の乱(※)で官軍側についたため、鎌倉幕府は信頼の厚い小笠原長清を阿波国に派遣、佐々木氏を滅ぼします。

(※)承久3(1221)年に起きた後鳥羽上皇と鎌倉幕府の抗争

(眉山山頂から徳島市中心部を望む)

以降100年以上、阿波国は小笠原長清の子孫が治めました。

つまり日蓮聖人ご在世中はずっと、阿波は小笠原氏の国だったわけです。

 

 

一説によれば、代僧を遣わして阿波国に祖師像を寄進されたのは、日蓮聖人の最晩年だといいます。

どこも引き受けてくれず、行き場を失くしていた自分に、身延山という安寧の地を与えてくれたことへの感謝もあったでしょう。

(身延山 日蓮聖人御草庵跡)

また、自分は体調がすぐれず、いつ死ぬかもわからないが、そのときはぜひ、身延山に墓所を設けたいという願いが、既にあったかもしれません。

その上で、元寇防衛に命を削る阿波小笠原一門に、せめてもの恩返しをしたかったのだと思います。

 

 

(鞆浦の日蓮聖人石像 遠景)

それにしても、四国徳島のご霊跡についてブログを書いているのに、まさか日蓮聖人の身延ご入山にまつわる逸話、それも身柄を受け入れる側の経緯にまで、話が及ぶとは思いませんでした。

どんなに遠くても、来てみるもんですね。大満足です!

 

 

最後に、法華寺祖師堂について、ご住職から面白いお話を伺いました。

江戸時代を通じて、鞆のお祖師さまは信仰を集めましたが、中には裕福な方もいたそうです。

久住九兵衛さんは、確か屋号を「伊勢屋」と伺ったように記憶してますが、藍の取引(阿波ならではですね!)で大成功した方だそうです。成功の陰にはお祖師さまの霊験もあったのかもしれません。

文久3(1863)年、現在の祖師堂を独力で建立させたといいます。

 

 

昔の富豪はお金の使い方が違います。

総ケヤキ造り、複雑な木組みはもちろん、随所に豪華な彫刻を施しています。

ここまでの建築は、そうそうお目にかかれません。

 

 

唐破風下の彫刻は江戸初期、名工 左甚五郎一門が手掛けたものを用いているそうです。

飛騨高山をルーツ(※)とする左甚五郎一門らしく、雷鳥らしき鳥が彫られています。

四国広しといえど、雷鳥の彫刻があるのは法華寺だけでしょう!

(※)「左」姓は「飛騨」が訛ったという。また甚五郎は高松で没したとされる。

 

 

ご住職は15年前、徳島市中心部の長久山善学寺から移ってこられたそうです。

法華寺祖師堂を寄進した久住九兵衛さんが、もともと善学寺のお檀家さん、というご縁もあったのかもしれません。

宗祖由縁の大切なご霊跡。

法灯を絶やさぬ覚悟をもって、遠い鞆浦で奉職しておられるご夫妻の姿が、何よりも強く、印象に残りました。

 

南無妙法蓮華経。

 

 

(参考文献)
・「郷土伝説 大阿波の横顔」(昭和9年:横山春陽 徳島日日新報社)
・「八万わがふるさと」(昭和59年:橋本幸四郎 第一出版)
・「加賀美次郎遠光公物語」(昭和63年:加藤雅彦)
・「徳島歴史散歩」(昭和49年:佃実夫 創元社)
・「日蓮聖人にまつわる阿波の伝承」(平成19年:萱間顕誠 現代宗教研究誌)

 

なお、法華寺参詣にあたり、事前にスケジュール等、親切に相談に乗ってくださった徳島市長久山善学寺 大塚上人に、この場を借り厚く御礼申し上げます。

毎朝のお勤めの際、僕は「朝夕諷誦(ちょうせきふじゅ)日蓮聖人御遺文」(2019年:池上本門寺)を1ページ分、読むようにしています。
これは身延山の朝勤に倣っての習慣で、毎日読めば3年で日蓮聖人の御遺文を完読できるようになっています。
(池上本門寺刊 朝夕諷誦日蓮聖人御遺文 上下巻と附巻がある)
この「朝夕諷誦日蓮聖人御遺文」、調べてみると「昭和定本日蓮聖人遺文」(1952年:立正大日蓮教学研)というご遺文集を底本(※1)に校訂(※2)し、今から6年前に刊行されています。
(※1)ていほん:校訂の際に拠り所にする原本
(※2)文章や字句の誤りを直し、よい形になるよう、訂正すること
 
 
同じように、基礎となった底本を辿ってゆくと…
 
「朝夕諷誦日蓮聖人御遺文」(2019年:池上本門寺)
     ↓
「昭和定本日蓮聖人遺文」(1952年:立正大日蓮教学研)
     ↓
「日蓮聖人御遺文」(1904年:加藤文雅)
     ↓
「高祖遺文録」(1880年:小川泰堂)
 
となるそうです。
(※)泰堂居士の死後、息子の周司さんが刊行している
 
(小川泰堂居士:「撮された戦前の本門寺」より引用)
これ実は「朝夕諷誦…」に限ったことでなく、現在、世に出ている日蓮聖人のご遺文集いずれも、ルーツを追ってゆくと小川泰堂居士(※)の「高祖遺文録」30巻に行き着くといいます。
(※)生涯を在家で活動した方、このブログでは敬意を込めて居士と呼ばせていただきます。
 
 
小川泰堂居士は神奈川県人、また在家の偉人として、僕は以前から尊敬しており、いつかこのブログで小川泰堂居士について書きたいな、と考えていました。
昨年、古書店で「小川泰堂傳」(小川雪夫著:天業民報社)を見つけ、購入しました。
ご令孫が書かれただけあって、泰堂居士の生きざまがリアルに描写されていました。
 
 
今回のブログは、この伝記で初めて存在を知った「栖神永宅之碑」についてです!
 
小川泰堂居士は文化11(1814)年、相模国藤沢の医者の子として生まれました。
11才で単身江戸に出て医術(※)を習得、22才で神田に医院を開業しています。
(※)小川家の家業は医業であった
(道場があった江戸後期の日本橋:「葛飾北斎傑作100選」より引用)
ただ、泰堂居士が学んでいたのは医術だけではないんですね~!
国漢学、書道、歌道、茶道、画道、雅楽、柔術を深く究め、いずれも師範の水準まで至っていたらしいですから、才能に溢れた人だったんでしょう。
例えば接骨術にも通じると始めた柔術では、日本橋に自分の道場を開き、なんと80人も!弟子がいたといいます。
 
 
泰堂居士の実家は、菩提寺であった藤沢・清浄光寺(通称:遊行寺)の門前町にありました。
(藤澤山清浄光寺 山門)
父・天祐さんは医業(漢方医)を営んでいましたが、国漢学の知識も豊富なことから、清浄光寺の檀林で国漢学も講じており、泰堂居士も後を継いで、清浄光寺で国漢学の講義を持っていたといいます。
つまり小川家はバリバリの時宗、清浄光寺の大檀那だったわけです。
 
 
泰堂居士が信仰を改めるきっかけは、25才の時でした。
(持妙法華問答抄・高い岸を縄で登る喩話:林鳳宣編「妙行日課」より引用)
回診帰りに寄った江戸蔵前の古書店で、ふと手に取った「持妙法華問答抄」に心惹かれ、日蓮聖人という人に興味を持つようになりました。
 
 
(立正安国論を献上する日蓮聖人:堀内天領画集「日蓮聖人の生涯」より引用)
それまでの泰堂居士は、単純に「日蓮嫌い」でした。
傲岸、排他的、政治に口を挟む、太刀を持つ、酒を飲む(いずれも否定できません笑)など、僧侶にあるまじき人だと。
 
 
だけど書いてあることは素晴らしい、もっと読んでみたいということで、知人から他のご遺文も借り、読み耽ったのです。
当時から、ご遺文をまとめて収載している本はあったそうです。
ところが誤字脱字や偽の情報も多く、生真面目な泰堂居士にしてみれば、到底許されるレベルではなかったのでしょう。
 
泰堂居士は定本となるご遺文集を、自分で作ろうと決心します。
 
 
ちょうどその頃、郷里から近い片瀬の龍口寺で一本の老松が枯死し、巷の話題になっていました。
(龍ノ口刑場跡)
「晃の松(こうのまつ)」と呼ばれた老松は、日蓮聖人が座られた刑場跡にあり、鎌倉時代から樹齢を重ねた貴重な木だったそうです。
 
 
(現在は龍口寺妙見堂前に、若い松が植えられている)
泰堂居士はせめて一枝だけでも、後世に伝えたい、と龍口寺に願い出て、結果、松の材一片(※)を寄贈されました。
(※)龍口寺の妙見大菩薩像は、同じ「晃の松」材から刻されたものという
 
 
泰堂居士は仏師に頼み、松材から宗祖像を刻んでもらったそうです。
(泰堂居士が生涯、持仏とした宗祖像:ニチレン出版「日蓮大士真実伝」より引用)
この日蓮聖人像開眼をもって、泰堂居士は日蓮宗に改宗、同時にご遺文校訂を発願しました。
これを機会に江戸を引き払って郷里藤沢に帰り、「高祖遺文録」校訂作業に没頭、四半世紀の歳月をかけて原稿を仕上げたのです。
 
 
ちなみに泰堂居士、日蓮宗に改宗するにあたり、はじめは出家するつもりだったようです。
仏門に入り、不退転の覚悟で遺文校訂に臨む考えを、父親に伝えました。
(小川泰堂居士:「撮された戦前の本門寺」より引用)
ところが父・天祐さんにこう諭されたといいます。
沙門になる事によってのみ、志が達せられるものではない。俗人でも法を輝かすことはできる
刺さる言葉ですね~!
これを聞いて、泰堂居士は在家として、生涯活動してゆく意思を固めたのです。
 
 
ここでちょっと脱線。
小川泰堂居士の生家であり、「高祖遺文録」校訂の作業場でもあった藤沢宿の旧宅付近を訪れてみました。
龍ノ口へは境川沿いを1時間も歩けば到着する距離感です。
(境川にかかる大鋸橋から清浄光寺方面を望む)
古くから清浄光寺(通称:遊行寺)の門前町として栄えた藤沢宿は、東海道6番目の宿場というだけでなく、大山や江ノ島詣りの分岐点でもあり、泰堂居士の時代、それは賑わったそうです。
 
 
(中央「医師 孝栄」が泰堂居士旧宅:ふじさわ宿交流館「藤沢宿復元図」より引用)
ちょうどその時代の藤沢宿復元図には、旧東海道から少し入った所に泰堂居士の旧宅(医師としての通称は孝栄)も書かれています。
 
 
現地には現在、キリスト教会らしき建物があり、残念ながら往時を偲ぶという感じではありませんでした。
 
 
また旧東海道(国道467号)の歩道上、変圧器ボックスに描かれた地図には「小川泰堂墓」とあります。
 
 
以前は確かに、旧宅近くに泰堂居士の墓所があったそうですが、平成20(2008)年に池上本門寺・大堂横↑に移されています。
池上参詣時には是非、手を合わせてください。
 
 
ちなみに藤沢宿には、日蓮聖人直々のご霊跡があります。
龍口法難の翌日、お祖師様が依知に向かう途次に真言宗のお寺で休息、時の住職が弟子となって創建されたのが、長藤山妙善寺↓です。
泰堂居士の旧宅からは目と鼻の先、もともとお祖師様と深い仏縁があったのだろうと思います。
 
 
話を戻しましょう。
小川泰堂居士の名を世に知らしめたのは、何といっても「日蓮大士真実伝」だと思います。(実は長藤山妙善寺の情報、「日蓮大士真実伝」で初めて知りました!)
(日蓮大士真実伝:「日蓮聖人と法華文化」図録より引用)
日蓮聖人の伝記本はそれまでにも沢山出されていましたが、本当に日蓮聖人という人を啓蒙できているか、それによって読み手を感化できているか、泰堂居士は常々、疑問を持っていたそうです。
 
 
泰堂居士の門下(※)に、近江屋藤懸與左衛門、明石屋根本源兵衛という篤信者がいて、ある時、彼らが堀之内に500両の資金をもって石灯籠を献納しようとしていました。
(※)泰堂居士に教化された人は多く、いわゆる一門が存在したようだ。あの甲比丹ゼイムス氏も門下。
(堀之内妙法寺)
泰堂居士は
果たしてお祖師様は、立派な石灯籠を欲しいと思っているだろうか?それより一人でも多く大衆を感化したいと思っているはずだ。今こそ、その500両でお祖師様の立派な伝記を作ろうじゃないか!
と二人を説得、これを原資として慶応3(1867)年に刊行されたのが「日蓮大士真実伝」でした。
 
 
泰堂居士は自ら全国に出向き、お寺の縁起や各地の伝承も調べ上げました。
歌道や詩も得意だからでしょうか、非常に流麗な文体で構成されており、読み始めたら最後、没頭してしまいます(笑)。
(藤沢橋交差点)
もともと泰堂居士、17才にして藤沢の郷土史を記録した「我棲里(わがすむさと)」という著作を発表しています。
現在、藤沢界隈では、宗教家としてよりも、地誌、風土誌の分野で有名人だといいますから、面白いですよね!
自分の足で歩き、生きた情報を収集、記録するというのは、彼が得意としたスタイルなんでしょう。
 
 
明治~戦前にかけて、「日蓮大士真実伝」は種々の改訂がなされ、類纂本が沢山出されました。
(日蓮大士真実伝の初版本と類纂本:小川雪夫著「小川泰堂傳」より引用)
同一の著者で「日蓮大士真実伝」ほど、多くの本屋が競って出版した書物はないともいわれ、部数では当時の数ある伝記本で、もちろん首位だったそうですよ!
 
 
さて、泰堂居士が改宗直後から始めた「高祖遺文録」、そして「日蓮大士真実伝」の執筆は、実に28年間に及びました。
その間に書き溜めた原稿、書写した遺文類など、自宅には膨大な書類が遺りました。
ツツジの花
泰堂居士にとっては、いずれも全霊で対峙した戦友のような存在。
これらを単に焼却廃棄するのではなく、日蓮聖人の霊地に埋めることが、お祖師様への何よりの供養になると考えました。
 
 
果たして明治3(1870)年9月12日つまり龍口法難600年の聖日、一門参集のもと、龍口寺境内の一画に、泰堂居士はこれら書類を自髪とともに埋めました。
傍らには槙の木が一本植えられたそうです。
(裏山が迫っている龍口寺境内)
この場に参列した近江屋藤懸與左衛門、明石屋根本源兵衛、つまりあの500両の二人は、是非とも泰堂居士の頌徳碑を建てたいと本人に申し出ました。
泰堂居士は「今までの業績は儂(わし)の功ではなく、宗祖のご加被によるもの。志があれば宗祖の讃仰碑を設けてくれ。」と、これを謝絶しました。
 
ところが二人の意思は強く、それを察した泰堂居士は、宗祖讃仰碑の裏面にならば、碑の由来(※)を刻むことを許したそうです。
(※)自ずと泰堂居士の偉業を記すことになる
 
 
先日、片瀬龍口寺を参拝した際、この宗祖讃仰碑を探してみました。
 
ありました!
本堂左側、日蓮聖人が留め置かれた「ご霊窟」の近くに、それと思われる石碑を見つけました。
 
 
碑の表面、篆額(※)「高祖賛」は身延山70世の止明院日祥上人、表側の碑文は池上60世の妙慈院日運聖人による揮毫だそうです。
(※)てんがく:石碑の上部などに古い書体で書かれた題字
 
 
ちなみに「高祖讃」は、深草元政上人が作られた日蓮聖人のご遺徳を称える漢詩で、今でも大きな法要では声明の形で詠まれることがあります。
 
 
そして裏面。
 
刻まれた碑文は以下です。
泰堂小川先生 相模州藤澤之醫人 性厚佛乗 行餘 孳孳考訂 高祖遺文 傍 修傳記 勤勞積年 倶脱稾予議根明甫而 上梓之其功 全成 今明治庚午得 大士龍口厄難六百之辰建一片石 於其地碑 碣之下埋先生之脳華 及書稾若干 而駐不凡之薫蹟 且為其 栖神之永宅云 藤懸義徳識 根本尚親謹書
僕の下手な訳文ですが、こんな感じかと思います…
 
小川泰堂先生は相模国藤沢の医師
人望があり信心深い上に研究熱心な人
高祖遺文の校訂に励む傍ら、宗祖の伝記作成にも尽力された
龍口法難600年の砌、これら永年の執筆生活の草稿を
先生の髪と共に、ここに埋めた
一片の石碑を建てることで、
不凡の薫蹟をとどめ、栖神の永宅と為さんとす
藤懸義徳(近江屋)撰文、根本尚親(明石屋)謹書
 
短い漢文の中に、小川泰堂居士の業績と石碑の由来が、よく込められていますね。
 
 
ちなみに「栖神之永宅」ですが、小川泰堂居士が生前語っていた「身はどこの塵に混ざるとも、心はここ(龍ノ口)に栖むべかりける」に因むそうです。
 
 
(栖神永宅之碑は本堂のすぐ横にあります)
郷里に近い法難霊跡、また持仏の由来でもある龍ノ口は、泰堂居士にとって別格の聖地だったのでしょうね。
 
 
小川泰堂居士は明治11(1878)年12月25日、65才で亡くなります。
 
当初、泰堂居士を私淑する人々により香華の絶えなかった栖神永宅之碑ですが、どんどん世代も変わりますから、時代とともに忘れ去られてゆきます。
(関東大震災からの龍ノ口復興を記した龍口寺境内「至誠通神」碑)
さらに追い打ちをかけるように、大正12(1923)年に関東大震災が発生、龍口寺も裏山が崩壊し、石碑が土砂に埋もれてしまいました。
ともすれば石碑の存在自体が、無きものになりかねませんでした。
 
 
ところが、のちに偶然(※)が重なり、あの石碑を復旧し直さないか?という機運が高まります。
(※)泰堂令孫はじめ建碑関係者の遺族複数人が、浅草妙音寺で偶然に顔を合わせたという。
(栖神永宅之碑の台座表面)
幸いなことに槙の木は残っており、およその位置はわかっていたようです。
 
 
崖下から石碑を掘り起こし、境内の別の場所に塔身し直すわけで、これは龍口寺ほか宗門関係者の協力なくしては成し得ない事業。
ところが話はとんとん拍子に進み、昭和11(1936)年12月25日、現在地に石碑が再建されました。
この事業、「小川泰堂傳」には『田中智学先生の配慮の下に』進められたと記されています。
 
 
田中智学氏は明治~昭和初期、在家の立場から宗門改革を実践した活動家(※)です。
(※)「宗教家」という肩書を、本人は嫌がったという
(田中智学氏:師子王文庫刊「田中智学先生略伝」より引用)
一度は出家し、宗門の檀林で学びますが、宗祖ご遺文とあまりに違う摂受的な学風に疑問を持ち還俗、独学で研鑽を重ね、ご遺文に忠実な「純正日蓮主義」を弘めました。
 
 
(身延山御廟入口付近にある「田中智学先生法勲碑」)
田中智学氏の業績は沢山ありすぎて書ききれませんが、例えば日蓮系各宗に連帯を求め、今の日蓮聖人門下連合会の基礎を築いたり、また大正天皇から「立正大師」の諡号を宣下されるに際し、活動の中心となるなど、宗派僧俗を超えて自由に動ける、そして説得力のあるレアな人材、先にも後にもこういう人はいないと思います。
 
 
「栖神永宅之碑」の再建時、田中智学氏はすでに76才。
(栖神永宅之碑と龍口寺大堂)
それでも老躯に鞭打って、関係各所への働きかけや、事業の流れを上手く取り仕切ったんじゃないか、と想像します。
 
 
田中智学氏は小川泰堂居士より半世紀ほど後に活躍した人ですから、二人には直接の接点はなかったと思われます。
(鎌倉扇ヶ谷にある田中智学氏の師子王文庫趾)
しかし純正日蓮主義を主張した田中智学氏にとって「高祖遺文録」、「日蓮大士真実伝」の2書はいずれも、思想の根幹を成すものだったでしょうし、小川泰堂という在家の活動家に、極めて強い影響を受けていたと想像します。
 
 
こんな話があります。
「高祖遺文録」校訂がようやく落ち着いた頃、小川泰堂居士は思うところがあり(※)自ら戒名を「圓明院小川泰堂居士」と付けています。
この戒名、法華信者なのに日号がないことに関し、「自分の死後、俗人で宗祖の教えを弘通する人がつけてくれるから、今はつけないでおく」と家族に語ったそうです。
(※)この頃から体調を崩しがちになっていた
(大正13年の泰堂居士旧宅附近:旧東海道歩道上の変圧器より)
それから20年、すなわち泰堂居士が亡くなって8年が過ぎたある日、田中智学氏が藤沢の泰堂旧宅を訪れました。
もうその頃には、田中智学氏は宗門改革運動のリーダーとして講演依頼が絶えず、その日も平塚へ講演に向かう途次、泰堂居士の墓参に立ち寄ったのです。
 
 
田中智学氏は、泰堂居士の墓石にも位牌にも、日号がないことにすぐに気付き、家族に「あれほどの法華信者なのになぜですか?」と尋ねたそうです。
理由を聞いた田中智学氏は早速、泰堂居士の日号を「日文(にちもん」と付けました。
(※)遺文録のために一生を捧げた人だったから
(池上本門寺・泰堂居士墓に立てられた卒塔婆)
泰堂居士の死後、彼のいう「俗人で純粋に宗祖の教えを弘める人」の来訪は、先にも後にも田中智学氏ただ一人。
泰堂居士の家族も、合点がいったようです。
 
 
深~いご縁でつながる二人の在家。
石碑再建にあたり田中智学氏は、それが自分の最後のお役目(※)であるように、裏方として尽力されたのだと思います。
(※)石碑再建から3年後、田中智学氏は79才で亡くなっています。
調べれば調べるほど、この石碑には先人達、特に在家の純粋な、そして深い思いが込められているんだと知り、感謝の念が深まります。
 
龍口寺に参拝する機会があったら「栖神永宅之碑」、是非とも探してください!
 
 
(参考文献)
・「小川泰堂傳」(昭和15年:小川雪夫 天業民報社)
・「複刻 日蓮大士真実伝」(平成21年:小川泰堂 ニチレン出版)
・「日蓮文書の研究(1)」(平成19年:小林正博 東洋哲学研究所)
・「登龍十年 新倉日林猊下喜寿記念集」(昭和51年:龍口寺)
・「撮された戦前の本門寺」(平成23年:池上本門寺霊宝殿)
今回のブログは、僕が毎日使っているお経本にまつわるお話しです。
 
(毎日使っているうちに表紙の文字が読めなくなりました笑)
僕が初めて自分のお経本を持ったのは、父が亡くなった9年前。
父が晩年使っていた「日蓮宗勤行経典」(池上本門寺監修)↑を相続しました。
 
 
法要でよく読まれる部分を抜粋、訓読も載っている上に、勧請から四誓まで書いてあるから、一冊でお勤めが完結できる優れモノ、今でも補助的に使っています。
 
 
あとを追うように母が亡くなったのが8年前、その頃から法華経の他の部分も読んでみたいと思い始め、身延山の仏具屋さんでカナ付きの一部経「真読 妙法蓮華経一部八巻 二十八品(大宣堂印刷)↓を購入しました。
朝晩少しずつ練習し続け、とうとう2年前、一部をひと通り読めるようになりました。
僕の拙い信仰における一里塚、すっごく嬉しかったのです。
 
 
この「真読 妙法蓮華経一部八巻 二十八品」、巻末には平成8(1996)年、浜松長栄寺の服部智量上人が編集、校訂された旨が書かれています。
この服部智量上人にいつか直接お会いして、お礼を申し上げたいと思うようになりました。
 
 
(長栄寺山門)
この1月、東名道の浜松西インターから10分ほどの、長栄寺を訪問しました。
 
 
長栄寺は想像以上に寺域が広く、また墓石の数からお檀家さんも相当多いと思われます。
 
 
(山門横に掲げられた縁起)
元和3(1617)年の開創と伝わりますが、度重なる火災のため、縁起の詳細は不明といいます。
ただ、旧本寺(浜松西本徳寺)でも管理していた長栄寺過去帳によれば、古くはそれこそ鎌倉時代以前の戒名も散見するようで、この場所には日蓮宗としての長栄寺が開創される前から、お寺らしきものがあったと推測できるとか。
(※)身延山11世・行学院日朝上人が開山されたお寺
 
 
このお堂は「三身宮」です。
長栄寺の守護神である普賢三身大菩薩をお祀りしているそうです。
 
 
市川智康上人著「仏さまの履歴書」によれば、普賢菩薩は人の本来あるべき姿(忘れがちですよね!)を衆生に教えるため、化身となって現れるということです。
確証はありませんが、「三身」はその化身のことかもしれません。
 
 
(「三階松」は社紋なのかな?)
三身宮の由緒は古く、元亀3(1573)年にあった三方原の戦いで、武田軍の攻撃から命からがら逃げ延びた徳川家康が、この地の庄屋・八衛門の導きで三身宮に匿われたという逸話が、当地で伝承されているといいますから、それ以前から存在したのでしょう。
 
 
本堂です。
昭和47(1972)年に建立された、鉄筋ベースの堅牢なお堂です。
 
 
ご本尊にお参りするため、本堂に入らせていただきました。
 
そして、この黒板書きを目にしました。
服部智量上人は14年前、すでに遷化されていました。
お経本を刊行されたのは約30年も前ですから、覚悟はしていましたが、本当に残念です。
 
 
せめてもの供養にと、服部智量上人のお経本で、追善のお経をあげさせていただきました。
 
 
(「みのぶ」誌 古いバックナンバーは1年分の合本となっている)
実はその後、平成8年の「みのぶ」誌に、服部智量上人の対談が載っているということを知り、早速、身延山布教部にバックナンバーを求めました。
 
 
ありました!
平成8(1996)年9月、11月、12月号の3回に分けて掲載されていました。
素人の僕でも一部通して読むことができるようになった「真読 妙法蓮華経一部八巻 二十八品」を、服部智量上人は一人で校訂、編集したこと、そして当時の宗門寺院全てに、なんと無償で贈呈していたことがわかりました。
 
 
それゆえ称賛の声が相次ぎ、「みのぶ」誌上で功刀貞如上人(※)と対談することになったそうです。
(左が服部上人、右が功刀上人:「みのぶ」誌より引用)
服部智量上人の人となりや、長栄寺のこと、そしてお経本を作った理由が、3回に分けて掲載されています。
以下太字は「みのぶ」誌対談からの引用です。
(※)当時の身延山布教部長。七面山奥之院別当として有名なお上人です。
 
 
服部智量上人は「お経を読む」ことに、人一倍こだわったお坊さんだと思います。
(身延山久遠寺 御真骨堂拝殿)
若い頃、身延山布教部におられた時は、祖師堂、御真骨堂でのお勤めが終わると、御真骨堂で「時の鐘が鳴るまでずっとお経をあげていた」そうです。
 
 
お父様も日蓮宗僧侶、やはり「暇があれば一日でもお経を読んでいる人」で、服部上人はお経の読み方について、お父様から相当厳しく指導されたといいます。
こうしたスタイル、実はお祖父様から継承されたもので、さらに遡れば、お祖父様の師匠は天竜二俣妙雲寺の住職で、この方が「ものすごくお経を読んだ人」として知られた方だったそうです。
服部智量上人のお経へのこだわりは、その辺りにルーツがあるのでしょう。
 
 
ところが服部智量上人、「果たして自分は正確に読んでるかなという、疑問が常にあった」といいます。
師から弟子に伝えられる読み方、各門流独特の読み方、お経本ごとの読み方……ほとんど同じに見えますが、こと細部については意外と、違うんですね。
 
 
例えば音読みの違い。
服部智量上人が示された例では「三千大千世界」の世。
あっちではセと読んだり、こっちではゼと読んだり」。
また、訓読由来の読み方が混在しているケースもしばしば。
見宝塔品に何度も出てくる「塔中」。
『とうちゅう』『たっちゅう』と読んだり」しているそうです。
 
 
いろいろ調べると、「カナ付きのお経本」自体は、相当昔から存在していたことがわかりました。
特に江戸中期、尾張出身の久成院日相上人が編纂された「日相本」は、代表的なカナ付き本だそうです。
(日相本:河村孝照著「法華経読誦音義宝典」より引用)
ところが日相本、カナは細かく載っていますが、読みを伸ばす部分、縮める部分の表示がありません(例えば「比丘」、1拍で読む部分と2拍の部分があると思います)。
また例えば「佛慧」のカナ、日相本では「ブッエ」とありますが、現場のお坊さんがそう発音しているのか、疑わしい部分もあります。
 
 
考えてみれば、世には実に様々なお経本が流通しているわけで、我々はその違いに気付かぬまま、微妙に異なるお経を読んでいるのかもしれません。
自分だけで読んでいる分にはいいですが、例えばこれを自分以外の人に教えることになったら(お坊さんならば よくあるでしょう)、服部智量上人でさえ「100%自信はない」そうです。
 
 
(長栄寺境内の日蓮聖人銅像)
仮に「学者の先生方が、大聖人がどう読まれたかを解明してくれれば、宗定ができます。宗定ができないこと自体、絶対的な読み方がないということでしょう
 
 
しかしながら法華経は日蓮宗の根本経典。
服部智量上人いわく、お経を読む人が疑問を抱えながらでは「一部経を読む人は いずれいなくなってしまう」、そうしたら「行学二道の 行の方は消滅してしまう」とさえ危惧していたのです。
そこで、「邪道(※)」かもしれないが 平成の時代にこそ、カナ付きのお経本、それも宗門の隅々にまで行き渡った「定本」が必要、でなければ、読みの違いは統一不可能、と服部上人は確信しました。
(※)昔はカナ付きのお経本を使わせてくれない風潮があったらしい
 
 
当時、宗門ではカナ付きのお経本を出す予定がなかったそうで、ならば自分が出すしかないと、発願したといいます。
世に流通するたくさんのお経本を調べ上げ、あるいはカセットテープに録音された音声も参考に、異なる部分をあぶり出し、それらを一つに絞ってゆくという、気の遠くなる作業に明け暮れました。
 
 
作業は困難を極め、やめたくなったことさえあるそうです。
それでも息子さんにハッパをかけられながら、実に6回もの校正を経て、遂に完成させたのです。
(7年目のお経本。補修しながら使ってます!)
出来上がったお経本は前四巻(1~11)、後四巻(12~28)の2冊で一部経になっています。
 
 
どうしても2種類の読み方がある部分はカナを併記してありますし、一字で半拍子(例えば「釋迦牟尼佛」を3拍子で読むなど)の場合は符号が付いています。
(ラインマーカーだらけでスミマセン…)
極力、現在普及している漢字を使っていますし、また何より一句ごとにスペースがあり、極めて読みやすくなっています。
 
 
これが日本全国くまなく、4400ヶ寺に行き渡ったのですから、「平成の定本」といっても差し支えないでしょう。
(特に陀羅尼部分の読み、すっごく助かってます)
折しも立教開宗750年(平成14年)を目前に控えた良い砌。
服部智量上人、63才での大偉業でした。
 
 
長栄寺、歴代お上人の御廟を参拝。
 
 
墓誌には34世までのお上人が刻まれています。
これまで法灯を継いでくださった多くの先師に、心から感謝致します。
 
 
34世が服部智量上人(法号:本信院日秀上人)です。
本来ならば、服部智量上人はお父様のお寺(浜松泉の法光寺)を継承するはずが、ご縁のあった長栄寺が荒廃し始めていたため、昭和37(1962)年、29才の時に、請われて長栄寺に入られたといいます。
 
 
現在、広い駐車場になっている所に、旧本堂があったそうです。
 
 
服部智量上人は荒れた寺地を開拓、昭和47(1972)年に本堂を再建、それ以後も庫裡や書院の新築など、ほぼ現在の寺容を整えました。
お経本の製作は、それらが一段落した後のことだったのでしょう。
対談では「住職になってから、ずっと仕事しっぱなしですね」と仰っていました。
 
 
服部智量上人は昭和8(1933)年生まれ、僕の亡父の1才上ですから、生きておられたら91才。
どんな声で、どんなお経を読まれたんだろう?
お会いしてみたかったな、そしてお礼をお伝えしたかったな…。
 
次の世代のために、ひたすら身を削られた聖(ひじり)を想い、墓前で合掌しました。
 
 
(一部読むごとにお経本の巻末に正の字を書いてます)
ちなみに、服部智量上人のお経本を使って、2年前から一部経を読み始めた僕は、これまでに26部を読むことができました。
 
 
実は最近、カナに慣れすぎてもいけないと思い、僕は生意気にも、カナ無しのお経本(頂妙寺御蔵版)を新たに購入しました。
たぶん全然読めないんだろうな~と、ダメもとで…。
 
 
ところが…読めるんです!
句点や旧字には難儀しますが、音読み自体はきちんとできるんです。
これには正直、驚きました!カナ付き一部経に慣れると、カナが無くても読めるんです。
恥ずかしながら僕の脳ミソは、37年間の波乗りで相当、塩漬けになっています。
それでも読めるんですから、カナ付き一部経のメリットは計り知れないと思います。
 
 
最後に…
「真読 妙法蓮華経一部八巻 二十八品」の巻末に遺されている、服部智量上人の言葉を記して、今回のブログを終えたいと思います。
(服部智量上人:「みのぶ」誌より引用)
 
これ小衲(※)薄学にして正確ならざる点もあらんや
されど 将来 部経読誦の妙音 絶えることもあらんやを憂い
意を決して出版す
”妙法蓮華経は 我等僧侶の命なり”
願わくば各聖 精進ありて 部経読誦の妙音 梵天に響かんことを祈る
以て開宗七百五十年の鴻恩に擬す
 
平成八年四月二十八日
浜松 長榮寺小住 服部智量
(※)しょうのう:僧侶が自らを謙遜していう言葉
 
服部智量上人、本当に、本当にありがとうございました!
お経本、生涯大切に使わせていただきます。
 
 
(参考文献)
・「みのぶ 第八十七巻」(平成8年:身延山久遠寺 身延教報社)
・「法華経読誦音義宝典」(昭和52年:河村孝照 国書刊行会)
・「仏さまの履歴書」(昭和54年:市川智康 水書房)
・「日蓮宗勤行経典」(平成3年:池上本門寺 日本仏教普及会)
・「真読 妙法蓮華経一部八巻 二十八品」(平成8年:服部智量 大宣堂印刷)
・「頂妙寺御蔵版 妙法蓮華経一部二巻」(平成19年改正:本山頂妙寺 平楽寺書店)
 
なお、服部智量上人の対談記事を「みのぶ」誌バックナンバーから特定、入手の手配までしてくださった身延山布教部 望月上人に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
(日蓮聖人聖語カレンダーより)
2月16日は日蓮聖人のお誕生日でした。
今年でご降誕804年だと思います。
 
 
(誕生寺近くの小湊漁港)
日蓮聖人はご自身の出自を
日蓮は安房の国 方海の 海人が子なり」(本尊問答抄)
と遺されています。
つまり小湊片海(かたうみ:今の鴨川市東部)で、海人(あま:漁師)を生業とする家に生まれた、ということです。
 
 
(善日麿誕生を喜ぶ貫名重忠公:堀内天領画集「日蓮聖人の生涯」より引用) 
日蓮聖人のお父様は貫名重忠公、もともと遠江国貫名(現在の袋井市東部)の出身でしたが、源平の合戦で平氏に味方したことが原因(※)で鎌倉幕府から睨まれ、安房国小湊に流されたと伝わっています。
(※)貫名山妙日寺の説明板より。諸説あり。
 
 
貫名重忠公は正嘉2(1258)年に亡くなり、遺言により先祖からの地・遠江国貫名に葬られました。のちに日蓮聖人のお弟子さんが当地に貫名山妙日寺↓を建立しました。
こちらには7年前に参拝させていただきました。
お祖師様の家系を知ることができて、とても満足した覚えがあります。
 
 
ところが人間とは欲深いもので、貫名重忠公のさらにご先祖様を知りたくなるのです。
日蓮聖人という強烈なカリスマのルーツはどこにあるのか?誰まで辿れるんだろうか?
(佐渡日蓮聖人大銅像)
法華経の普賢菩薩勧発品第二十八に「少欲知足」(欲を少なく、足るを知る)という教えがありますが、この際一旦スルーさせていただいて…今回は自分の好奇心を満たすべく、貫名家のさらに先を探しに出かけました。
 
 
(井伊谷川)
浜名湖の北東沿岸(※)には、幾筋かの川に浸食されてできた、大きな谷があります。
(※)行政区の再編(2024年4月)により浜松市北区→浜松市浜名区に変更されました
 
 
(浜松市地域遺産センター展示より引用)
井伊谷(いいのや)です。
 
 
奥に見えるのは標高467mの三岳山。
谷あいに田んぼが広がる、長閑な風景です。
 
 
昨年放送されていた大河ドラマ「光る君へ」。
当時の帝・一条天皇は、許されぬ愛に突っ走っていましたね!
(一条天皇と定子:NHK「光る君へ」ホームページより引用)
ドラマには出てきませんでしたが、この一条天皇の近臣に藤原共資(ともすけ)という人がいたようです。
藤原北家、あの藤原鎌足の12代後だそうですから、相当な家柄の方だと思います。
 
 
正暦元(990)年、勅命により藤原共資は遠江国の国司として下向することになり、浜名湖に突き出た庄内半島、その突端の村櫛(むらくし)に築城して暮らしました。
(Google earthに加筆)
当時、遠江国には皇室直轄の領地がいくつもありました。
皇室の財政に直結するわけですから、遠江国の国司は重職だったといいます。
それだけ共資は、天皇からの信頼が厚い人だったと想像できます。
 
 
ただ、共資には世嗣となる男子がいませんでした。
それまでに男子を二人授かりましたが、いずれも早逝しています。
そのため共資は居城から20kmも離れた渭伊(いい)八幡宮(※)に毎月参拝、どうか良い後継者を授かるようにと、祈願していたのです。
(※)井伊谷の総鎮守
 
 
寛弘7(1010)年の正月元旦、恒例の渭伊八幡宮参拝を済ませた共資は、御手洗(みたらい)の井戸(※)で、元気に泣く男の赤ちゃんを見つけました。
いわゆる捨て子なのか、あるいは意図的に置き去られたのかはわかりませんが、共資はその子に何か感じるものがあったのでしょう、自分が引き取って後継ぎにしようと決意します。
(※)御手洗とは今の手水舎、つまり神仏を拝む前に参拝者が手や口を洗い清める場所
 
 
男の子は「共保(ともやす)」と名付けられました。
共保が発見された井戸は、今でも田んぼの真ん中に、白壁に囲まれて保存されています。
 
 
玉垣に囲まれた石の井桁です。
で、その右には大きな橘の木がありますね!
 
 
共保が発見された時、その誕生を祝うかのように、井戸の傍らに橘の花が一輪咲いていた、と伝わっています。
柑橘類の花はふつう5月頃開花します。正月だと相当季節外れですが、いわば奇瑞(良いことの前触れとして起こる不思議な現象)だったのでしょう。
僕が訪れたのも1月末、もちろん花はありませんでしたが、果実は沢山なっていましたよ!
 
 
橘は、不老不死とか魔除けの意味があるスピリチュアルな果実として、古くから大切にされたそうです。京都御所にも植えられているし、3月3日の雛飾りにも、右近橘と左近桜が飾られますよね!
(我が家の雛飾り:あれ?右近橘に花も実も付いている!)
そうそう、聖徳太子の出生地にも、橘の木があったということです(今その場所は天台宗の橘寺になっているそうですよ)。
 
 
(井伊谷宮には「まゆ玉」が飾られていました)
その昔、子供は親元から離し、お寺で育ててもらうと、強い子に成長するといわれていたからでしょう、井戸で保護された共保は、渭伊八幡宮の神主夫婦、そして隣接する地蔵寺(恐らく昔は寺社一体だったと思います)の和尚に預けられ、大切に育てられました。
 
 
武道にも学問にも優れた共保の噂は京に上り、藤原一族の間でも話題になるほどだったといいます。
(井伊共保の居城であった井伊谷城跡)
やがて共保は元服し、養父・共資の次女(※)と結婚します。
のちに共資から家督を継ぐと、共保は渭伊八幡宮裏の小高い丘に城を築き、こちらに土着するのです。
(※)次女ですが名は「長子(ちょうし)」。共保よりも2才年上。
 
 
このとき初めて自らの姓を「井伊」と名乗ったそうです。
「渭伊」八幡宮の「渭」を「井」に変えたのですね!
渭伊八幡宮はもともと井戸の付近にあったようですが、のちに1kmほど北に遷座され、現在もよく清められています。
 
 
(井伊八幡宮の説明板より)
そもそも「渭」という漢字を辞書で調べると、「水の流れ」的な意味が出てきます。
 
 
実はこの辺り、古代の遺跡が多いようなんです。
浜松市地域遺産センターの展示によれば、井伊谷では特に湧水や川の近くから銅鐸が出土するなど、古くから水を、祭祀の対象としていたと推測されるそうです。
(浜松市地域遺産センターの展示より引用)
そして驚くことに、それこそ古墳の時代から、この一帯は「」と呼ばれていたとか。
とすると、「井伊」という姓には、地元への深い思いだけでなく、水への感謝も込められているのかもしれません。
 
(井伊共保公出生の井戸 説明板より)
一方、養父・共資は、井伊家の祖となる共保が独り立ちするにあたり、共保出生の由緒から、橘を家紋に、井桁を旗印の紋として与えました。
 
 
 
実際、さきほどの共保出生の井戸、石碑の傘部分には「井桁」「丸に橘」が彫られています。
 
 
もうおわかりですね!
日蓮宗の宗紋「井桁に橘」のルーツは、あの井戸にあるのです。
 
 
共保の4代後、井伊盛直の子が
●井伊の宗家(井伊良直)
●赤佐家(赤佐俊直)
●貫名家(貫名正直)
に分かれるのですが、貫名正直の3代後が貫名重忠公(日蓮聖人のお父様)となるわけです。
つまり日蓮聖人の遠いご先祖は井伊家、さらに遡れば藤原北家ということになります。
 
 
(龍潭寺・井伊家御霊屋の大棟:臨済宗寺院とは思えない紋)
ところで、井伊家では「井桁」と「橘」が別個に使われています。
では、これらを組み合わせて日蓮宗紋としたのは、いつ頃なのでしょう?
 
 
いろいろ文献を漁ると、一般論として仏教各宗派が宗紋を使い始めるのは、徳川幕府の宗教統制以降、という見解が多かったです。
「井桁に橘」もその頃からじゃないかと、個人的にも思っていました。
(身延山三門前にある天水桶)
ただ、鈴木智好上人(※)が昭和12年に著された「日蓮聖人御系譜の研究(続)」には、「重忠公 遠州より房州に流されたる時 幕府の役人により持ち来りたる唐櫃に 井桁に橘の紋所が付いていた」という記載があります。
(※)藤原共資公を日蓮聖人の遠祖と考え、その旧跡(村櫛城址)保存に尽力されたお上人の一人です。
 
 
(貫名家菩提寺・袋井妙日寺の大棟)
これが事実ならば、「井桁に橘」は貫名家の紋が発祥となります。
独自に「井桁」と「橘」を組み合わせることで、井伊の血筋を家紋に留めようとした、そしてのちに貫名の家紋が日蓮宗の紋として使われるようになった…かもしれませんが…真相はどうなんでしょう?
 
 
さて、そろそろ井伊家の祖・共保公の話に戻りましょう。
(井伊谷城山頂から井伊谷を望む)
寛治7(1093)年に83才で逝去するまで、共保は井伊一門をよく統率し、立派に遠江国を治めました。
 
 
遺骸はかつての地蔵寺(今の龍潭寺)に葬られ、井伊家歴代墓所の最奥に墓が設けられています。
(※)地蔵寺は行基菩薩開山なので法相宗だったと考えられる。戦国時代に臨済宗に改め、龍潭寺となった。
 
 
(左が22代直盛、右が初代共保の墓石)
井伊共保公は日蓮聖人の遠祖となる人。
龍潭寺の現在の宗旨は臨済宗ですが、小さな声でお自我偈を唱えさせてもらいました。
 
 
龍潭寺は井伊家の菩提寺として繁栄、徳川家康に仕えた24代・井伊直政までの歴代当主が、こちらに眠っています。
(龍潭寺 井伊家歴代墓所 説明板)
また直政の養母は、あの「おんな城主 直虎」。
大河ドラマ放映後の混雑はすごかったらしいですよ!
 
 
(彦根城天守)
秀吉や家康から重用された井伊直政は、高崎を経て近江彦根に拠点を移し、初代彦根藩主となります。
 
 
以後、井伊家の本拠地は彦根ですが、井伊谷の墓所、そして井伊共保公 出生の井戸の整備は、歴代当主がなさってきたそうです。
なかなかできることではありません。心から感謝致します。
 
 
(彦根城天守から見える琵琶湖)
余談なんですが、井伊谷と彦根、いずれも大湖のそばにありますよね?
古くは、遠江国浜名湖は「遠淡海(とうつおうみ)」、近江国琵琶湖は「近淡海(ちかつおうみ)」と呼ばれていたそうです(遠近は都からの距離でしょう)。
水の湧く井戸から始まった井伊家のこと、兄弟のような湖の畔に、再び引き寄せられたのでしょう。
 
 
日蓮聖人の生涯も、驚くほど水にまつわる逸話が多いです。
(善日麿誕生時、湧き出す清水:堀内天領画集「日蓮聖人の生涯」より引用) 
まずお生まれになった時、庭に清水が湧き出たのはよく知られています。
 
 
(鎌倉の日蓮乞水)
地面を杖で突いて冷たい水を湧き出させ、また祈りによって雨を降らせました。
 
 
(佐渡真浦の波題目碑)
大荒れの海を渡る時には、波に題目を書いて鎮め、
 
 
(身延山・宗祖御草庵横を流れる身延川)
晩年は川に囲まれた身延山を、法華経の聖地とされました。
 
 
(七面山一ノ池)
そう、七面大明神も水の神様でしたね!
 
いつもどこかに水の気配を感じる、そんな方が宗祖・日蓮聖人なのです。
 
 
先日、親しくさせていただいているお寺で、大荒行を成満されたお上人の帰山式が催され、参列させていただきました。
 
 
寒空の下、目の前で7名のお上人が何度も冷水をかぶる姿に、圧倒されました。
なかなか他宗では見られない光景だと思います。
 
 
式典の最後、そのお上人が大勢の参列者に謝辞を述べられました。
百日間、沢山のお経を読み、沢山の水をかぶり続けたお話に触れ、
「行堂で培ったお経の力、そして水の力を、お世話になった皆さんにお返ししてゆきたい」
と仰っていたのが印象的でした。
 
 
この世に生きる我々が、祈りによって神仏と感応したいとき、それを可能にするのが水の介在なのかもしれません。
「御手洗の井戸」なんて、まさに人と神仏の境目だったのでしょう。
(井伊共保公 出生の井戸)
井伊共保公を初祖とする日蓮聖人、そして聖人が開いた一門が今でも「水の力」を信じ、尊崇していること、僕はとても納得できました。
 
 
(帰山式で使われた水)
日蓮聖人の、遠い遠いご先祖様から続く、水の系譜。
今も確かに、引き継がれています。
 
 
日蓮聖人のルーツを探る旅、井伊家の家祖や藤原北家まで遡ることができました。
また「井桁に橘」紋のはじまりも確認することができ、無事、僕の欲求は満たされました!
 
「少欲知足」、明日から頑張ろうかな…。
 
 
 
ちなみに「井伊共保公 出生の井戸」、車で行く場合は、龍潭寺の駐車場に停め、
 
そこから50m、歩いてすぐです!
 
 
(参考文献)
・「日蓮聖人御系譜の研究(續 )」(昭和12年:鈴木智好著 「棲神」第22号 祖山學院同窓會文學部)
・「水城 橘の君 生誕の水のいわれ」(昭和58年:福川智香子著 JDC)
・「宇宙世紀の人造り」(昭和45年:湯川日淳講述)
・「日蓮聖人の御一生」(昭和16年:水島芳静著 天泉社)
昨年11月、初めて身延山の祖廟輪番奉仕に参加させていただきました。
(法喜堂入口)
日蓮聖人の御廟を、六老僧が交代で護持したことに始まる輪番奉仕、いつか参加したいと思っていましたが、以前から親しくさせていただいている内船寺さん(南部町)の奉仕団に混ぜてもらい(檀家じゃないのにスミマセン…)、念願が叶いました!
 
 
(久遠寺御真骨堂)
御真骨堂参拝や御廟常唱殿の清掃など、初体験のことばかり。
あっという間に時間は過ぎ、午後2時頃お開きとなりました。
内船寺さん、本当にありがとうございました!
 
 
その晩は、三門右側にある松井坊に参籠させていただきました。
 
 
落ち着きのある玄関です。
宿坊体験を推進する「お寺ステイ」の拠点でもあるんですね!
身延山内では他に、端場坊、志摩房が該当します。
 
 
お部屋はこんな感じです。
手入れの行き届いた和風旅館って雰囲気です。
小雨交じりの肌寒い日でしたが、こたつに入り、熱いお茶をいただいているうちに、心も体もほっこり。
 
 
窓から見えるのは色づき始めた鷹取山。
左隣の建物は山本坊さんです。
 
 
夕方、本堂の一画をお借りしてお勤めをしました。
本堂内は山を背にして須弥壇、内陣がありますが、裏山が迫っているせいでしょうか、外陣らしきエリアはなく、我々檀信徒は脇間に座るようなイメージです。わかります?法要の際は、お上人を真横から見る感じです。
 
 
わ~い!夕食の時間です。
「今日は特に寒いので」と、汁物を山梨名物・ほうとうにしてくださいました。
いずれもめちゃくちゃ美味!
奥様ありがとうございました。
 
 
お腹は満たされ、熱めのお風呂に肩まで浸かれば、自然とまぶたも閉じてきます。
おやすみなさい…
 
 
最近、久遠寺の朝勤は年間通じ、5時半に統一されました。
松井坊を5時前に出れば、十分間に合います。
 
 
朝勤から帰ると、心づくしの朝食。
なんて幸せなんだ!
 
 
実は7年前、三門を起点に 昔の七面山参詣道を往復した際にも、松井坊に前泊させていただきましたが、おもてなしのクオリティは当時から変わらず、好印象でした。
本当に良い宿坊だと思います。
 
 
それではそろそろ松井坊の由緒を探ってゆきましょう。
 
松井坊、正確には「長松閣松井坊」だそうです。
山号寺号、両方に「松」の字が入っています。
(松井坊から三門を望む)
境内に松、ありますね。
昔はもっと大きい松があったのかな?
 
 
そうそう、松といえば、お部屋の床の間に、こんな掛け軸がありました。
調べると、この漢詩は宋の時代の詩人・陶淵明による「四時の詩」、四季の風景を詠んだものだとわかりました。
最後の五文字は「冬嶺秀孤松」。
冬に山を眺めると、他の木が葉を落としている中、松だけが青々と際立っている、そんな様子を表現しています。
 
戦争、災害、氾濫する情報…大変な世に生きる私達ですが、とにかく惑わされず、流されず、松のように生きなさい、と教えてくれているように感じます。
 
「長松閣松井坊」にも、そんな願いが込められているのかもしれません。
 
 
松井坊歴代お上人の御廟は、本堂左側にあります。
 
 
墓誌には36世までのお上人の法名が刻まれています。
長きにわたって松井坊、そして身延山久遠寺を護持してくださった歴代に、心から感謝致します。
 
 
墓誌の筆頭、開基のところには「日長尊者」とあります。
日長尊者とは、波木井(南部)実長公の孫にあたる波木井長氏(ながうじ)公のことです。
 
 
(菩提梯下に祀られる南部六郎実長公銅像)
ここで身延山開基・波木井実長公の子について、おさらいしましょう。
実継(長男:実長の嫡家、根城南部氏)→長継→師行
実氏(二男:加倉井南部氏→常陸の湯)
三郎(三男:佐賀武雄の舩原を拠点に元寇警備に尽力)
長義(四男:波木井郷の地頭)→長氏
 
 
 
(波木井南部氏の居城があった波木井山)
そもそも波木井南部氏は、波木井実長公の長男(実継)の家系が当主を務めていました。
ところが時代は南北朝の動乱期、特に4代師行公は奥州の平定に力を注いだため、甲州の本拠地を守るのは、長義公の子・長氏公の役目となっていったと考えられます。
 
 
一方、日蓮聖人ご入滅後の身延山は、
2世日向上人(六老僧)
3世日進上人(中老僧)
4世日善上人(九老僧)
と、しばらくは日蓮聖人の直弟子、孫弟子によって護持されていたことは、よく知られています。
(身延山御草庵跡)
しかし、宗祖ご入滅から半世紀も過ぎれば、直弟子、孫弟子も いなくなります。
すると身延山護持の柱は、おのずと大檀那である波木井長氏公に委ねられていったと想像できます。
 
 
(身延山歴代墓所:手前が日向上人墓、その右奥に5~8世墓)
実際、身延山5世からは波木井氏の縁者が歴代を占めています。
5世日台上人(長氏の二男、鏡円坊開創)
6世日院上人(日台上人の弟?)
7世日叡上人(波木井一族)
8世日億上人(波木井郷の人)
 
 
身延山史には、長氏公について
祖父(実長)の蠋(ちょく:とどまる)を紹(つ)いで身延に荷擔(かたん:背負う)し、志を竭(つく)して力を振るうこと 実長在世の如し
とあります。
(身延山御草庵跡)
日蓮聖人というカリスマを失くして数十年、身延山は異体同心で なくなりつつある。
ならば自分に近いベクトルを持ったお上人を歴代に据え、身延山を安定させようと尽力したのでしょう。
 
 
(松井坊本堂)
長氏公は晩年、自らも出家して日長と号し、貞治3(1364)年、御廟所奉仕の念から身延山中谷に一坊を開創します。
松井坊のルーツです。
 
 
こちらは松井坊の坊号塔
表側は青い文字で「松井坊」と刻まれていますが
 
 
裏側を見ると、妙見様のお像が安置されている旨が刻まれています。
調べるとこのお像は、もともと波木井長氏公の持仏で、一説には伝教大師最澄上人ご親刻と伝わるとか。
松井坊を開創したときに長氏公が安置したのでしょう。
 
 
ここで一つ疑問が生じました。
波木井(南部)氏と妙見様、どんな関係があるんだろう?
 
僕がまず連想したのは、身延山梅平にある鏡円坊
鏡円坊は、波木井実長公の屋敷跡に、身延山5世日台上人(波木井長氏の二男)が創建したお寺です。
 
 
本堂の大棟に、九曜紋が掲げられていたのを覚えています。
 
 
また、7年前に訪れた青森県八戸市の根城
 
 
(八戸市博物館:銅像は根城南部氏4代 南部師行)
付近には八戸市博物館がありますが、ここには奥州南部氏の展示資料が沢山ありました。
 
 
(八戸市博物館の展示資料より引用)
南部氏の家紋は「向かい鶴」ですが、よく見て下さい。
鶴の胸あたりに、やはり九曜紋、ありますよね?!
 
 
(根城主殿に展示されていた唐櫃)
九曜紋は北辰妙見の印、敢えて家紋に入れているほどですから、そこには大きな意味があるのでしょう。
 
 
一方、甲斐国は古くから馬の産地として知られ、波木井(南部)一族も代々、牧場を経営して、良馬を育てていたようです。
(身延山山頂からの眺め)
日蓮聖人のご遺文にも、こんな記述があります。
「此の身延の沢と申す処は 甲斐国飯井野御牧三箇郷の内 波木井の郷の…」
(松野殿女房御返事)
 
この「御牧(みまき)」こそ、波木井(南部)一族の牧場だといわれています。
 
 
(青森県八戸市の種差海岸)
波木井実長公の父・光行は、源頼朝の奥州討伐で戦功を挙げ、陸奥国糠部地方(青森県、岩手県の一部)を与えられました。
以来、甲州、奥州両方の南部地方を、一族で手分けして領したのです。
 
 
(青森県尻屋崎の寒立馬:南部馬の特徴がよく残っているといわれる)
奥州南部地方は八甲田山の火山灰地、農耕には適していませんが、雪が少なく広大な草原は馬の飼育に最適でした。
一族は甲斐での経験を生かし、こちらでも馬産を始めるのです。
 
 
妙見様は馬の神様ともいわれます。
古くは中央アジアの遊牧民族が、移動の際の目印にしたのでしょう、北極星や北斗七星を信仰対象としたのが始まりだそうです。
(能勢妙見山境内の神馬銅像)
妙見様を祀る宗門寺院では、馬の像を見ることがしばしばあります。
 
 
(南相馬市博物館に掲示されていたポスター)
また宗門とは直接関係ありませんが、相馬の野馬追いは、捕らえた野馬を妙見様に奉納する神事がルーツだそうです。
 
 
(松井坊本堂の扁額)
南部一族は昔から馬産に関係が深かったわけで、ならば波木井長氏公が妙見様のお像を持仏にしていた、というのも納得できます。
 
 
(池上への旅:堀内天領画集「日蓮聖人の生涯」より引用)
あ、そうそう、弘安5(1282)年、身延山を下りて常陸の湯をめざす日蓮聖人がお乗りになったのは、波木井公から供された、気立ての良い栗鹿毛の馬でしたね。
妙見様に護られながら、病身のお祖師様を池上まで送られたのでしょう。
 
 
スミマセン、結構脱線しちゃいました!
松井坊の歴史に戻りましょう。
江戸末期以降、松井坊は被災と復興を繰り返します。
 
慶応元(1865)年12月14日、昼四ツ半といいますから午前11時頃、中谷の坊から出た火は周辺を焼き尽くしました。
このとき三門(初代)も全焼しましたから、隣接する松井坊も類焼してしまいます。
(慶応大火後の身延山:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用) 
廃仏毀釈など仏教に風当たりが強かった時代だと思いますが、信者さん達の支援が厚かったのでしょう、松井坊は間もなく再建されます。
 
 
(松井坊の裏は急斜面、ほぼ真上には円台坊がある)
ところが大火から10年後の明治8(1875)年初夏、降り続く大雨で裏山が崩れ、再建されたばかりの伽藍は大破してしまいました。
 
 
(明治15年の門前町:身延山久遠寺刊「身延山古寫眞帖」より引用) 
明治20(1887)年3月4日の昼過ぎには、中町(門前町)から出火、200戸以上の町家とともに、仮仁王門(初代三門の代わりに再建された)と周辺の坊も類焼、松井坊も再び焼けてしまうのです。
 
 
(松井坊から三門はこんなに近い!)
松井坊は三門の並びという立地、一見良さげに感じますが、歴史を辿れば、よくここまで復興してきたものだと、感心してしまいます。
 
 
今、ふと思い出したのが、身延山山頂にある奥之院思親閣
 
 
休憩所や御札所の前に、大きな浄水槽があるんですが、御存じでしょうか?
実は、思親閣の水道設備が整えられたのは昭和36(1961)年のこと、それまでは雨水が頼りだったといいますから、驚きです。
(ちなみに電気は昭和24(1949)年に通じてます。)
 
 
身延山史を調べると、この水問題に取り組んだのが当時の思親閣別当・松井坊36世の望月堯海上人でした。
(寺平から身延山を望む)
麓の用水ダムから高圧ポンプで572mもの揚水を成功させ、山頂の水問題は一気に解決したといいます。
 
 
浄水槽に取りつけられた「献納のことば」は、「東京浅草 松井講有志一同」となっています。
この大プロジェクトを全面的に支援したのが、松井講の方々だったわけです。
本当に、感謝に堪えません。
 
災害など、数多の困難を乗り切ってきた松井坊もまた、こうした篤信の人々に支えられてきたのでしょうね。
 
また参籠させていただきます!
 
 
(参考文献)
・「身延山史」(昭和46年:身延山久遠寺)
・「身延山古寫眞帖」(平成27年:身延山久遠寺 身延文庫)
・「日蓮宗徒群像」(平成5年:宮崎英修著 宝文館出版)