江戸~明治初期にかけて、関西で特に隆盛した日蓮宗檀林(※1)は6ヶ所、いずれも京都にあり、「関西六檀林」といわれていました。
(松ケ崎檀林旧跡:湧泉寺山門)
毎年 京都旅行の折、少しずつその旧跡を訪問してきました(※2)が、唯一、訪問していなかったのが山科檀林跡です。
実は昨夏、参拝が叶いましたので、紹介したいと思います。
(※1)お坊さんの学問所
(※2)本圀寺求法院檀林跡は存在しないが、山科本圀寺内に求法講院として再興
(山科駅とJR琵琶湖線)
京都駅でJR琵琶湖線に乗って、ひと駅で山科駅に到着してしまいます。ちなみにもうひと駅乗れば、滋賀県の大津駅です!
山科駅からゆっくり5分も歩くと、護国寺に至ります。
ビルに囲まれた、町なかのお寺です。
大きな題目塔が迎えてくれます。
基壇には「学校」と刻まれています。
護国寺は山科檀林の旧跡です。
江戸時代、ここにお坊さんの学校があったんですね!
山号は「了光山(りょうこうざん)」です。
(「妙信院法悦」が法悦さんの法号。ちなみに右の「貞林院法春」はお母様と思われる)
ん?・・・この題目塔、谷口法悦さんの寄進だ。すげぇ!
谷口法悦さんは江戸前期に生きた法華の篤信者、京都の方です。
一族で信仰を深め、東海道や身延参詣道沿いに、多くの題目塔を遺しました。
身近なところでは身延山御廟へ至る参道、↑この題目塔が谷口法悦さんの寄進です。
プライベートは謎に包まれた信者さんですが、魅かれるものがあります。
いつか谷口法悦さんをテーマにブログを書いてみたいです。
護国寺の山門です。
紀州藩2代藩主・徳川光貞夫妻の寄進だそうです。
徳川光貞公、祖母は養珠院お萬さま、母は瑤林院(加藤清正の娘)ですからバリバリ法華の血筋、お題目を聞いて育ったのでしょうね。
鉄筋造りの本堂です。
造形が独特ですよね!
扁額には「栴檀林」。
学僧を栴檀(香木※)に見立て、彼らが集まって知識を高め合う場所、ということで「檀林」の語源になっています。
(※)香木のように品格のある学僧、という願いも込められているのでしょう
歴代お上人の御廟に参拝。
開山から今日まで、いい時代も、良くない時代もあったでしょう。
それでも脈々と法灯を継いでくださった先師たちに、心から感謝致します。
歴代御廟の一画に開山廟のお堂があります。
(開山廟:堂内には開山日勇上人、二世日通上人、四世日堯上人の墓が格護される)
ここに山科檀林を開いたのは、京都妙傳寺14世の法性院日勇上人でした。
日勇上人は京都の人、高貴な家柄出身でしたが、幼いころから俗世を離れたいと思っていたようです。
(久遠寺参道。左奥は日勇上人が身延山時代、住まわれた竹之坊。自らも竹之坊15世に名を連ねる)
日勇上人は、お父様が親交のあった身延山24世・顕是院日要上人のもとで出家、若い頃から身延のお山で学業に励みました。
とても聡明で頭の切れる方だったようですね!
(身延山山頂から南を望む)
京都出身の日勇上人にとって、四山四河に囲まれた身延での生活は、不便なこともあったでしょう。
しかしそれ以上に十代の多感な時期を、日蓮聖人のお膝元で日々精進し、得たものはとても大きかったのだと思います。
日勇上人は京都に戻り、師匠の日要上人が歴世(※1)した妙傳寺に、20才そこそこで瑞世します。
京都妙傳寺は「関西身延」といわれ、円教院日意上人(※2)が開創、宗祖の御真骨が奉安されているなど、身延山と非常にご縁の深いお寺、日蓮宗本山です。
かつて京都には学養寺という、関西身延門流の拠点がありましたが天文法難で焼失、以降は妙傳寺が、その役割を引き継いできたと思われます。
(※1)日要上人は心性院日遠上人の後を請け、妙傳寺9世を務める
(※2)身延山11世行学院日朝上人の直弟子。のちに身延山12世に晋む
日勇上人は以前から、京都に檀林を設けたいと考えていたようです。
このころ既に 松ケ崎、求法院、東山、鷹峰といった檀林は存在していましたが、それでも独自の檀林を求めたのは、身延門流の矜持、と言いましょうか、若い時分から身延山の空気に触れてきた日勇上人が、本山並び立つ京都において、学の世界で一つの潮流を作りたい、と考えたからではないかと、僕は思います。
(江戸中期の護国寺境内図:「山科の歴史探訪4」より引用)
寛永20(1643)年、日勇上人は宇治郡竹鼻(今の山科)にあった真言宗の古刹跡を求め、お堂を建立して護国寺を開きました。
日勇上人は人脈が広い方、また家柄の良さもあったのでしょう、公武からの支援を受けて諸堂を整備、護国寺内に山科檀林の開闢を果たしました。
(山門に掲げられた扁額)
また日勇上人のお弟子さんの寂遠院日通上人は、他の学室や鷹峰檀林での経験がありますから、山科檀林内のルールを定めるなど、主にソフト面の基礎を築かれたようです。
さらに日通上人は学識も卓越しており、その講義を聞きたいと全国から学僧が集まってきたといいます。
宗門史研究の権威であった影山堯雄上人によれば、(一般論として)江戸時代の檀林員は、たとえ自宅から通えたとしても、学寮に入ったといいます。
これは檀林教育の目的に叶うもので、つまり檀林は ただ知識を授けるだけの場ではなく、人の手本となる人格を形づくる場なのだといいます。
(山科庠学生墓誌:「庠」は檀林のこと)
立ち振る舞い、行儀作法、心の持ちようなど、全体を美しい人間に仕立てるのが檀林、だから全寮が基本だったのです。
檀林生活の6~7割が給仕奉公に充てられ、残りの3~4割で学問を究めたという、そんな環境だったそうです。
身延山史によれば、山科檀林出身の身延山歴代法主には、30世寂遠院日通上人のほか、31世、32世、33世、34世、37世、56世、58世、66世、69世、70世と、実に11名も瑞世していることがわかります。
(身延山歴代御廟:いちばん手前が日通上人墓。この並びはほぼ山科出身者!)
特に身池対論(寛永7年)以降の身延山法主は、名実ともに宗門のトップ、品位や人徳も要求されたでしょう。
いかに山科檀林のレベルが高かったかが伺えますね。
明治5(1872)年の学制発布により、230年続いた山科檀林は廃止され、また廃仏毀釈もあったため、境内は一時荒廃しましたが明治の中頃に復興、現在の寺容となりました。
(護国寺庫裡:こちらで書き置きのご首題をいただきました!)
実は今回、護国寺参拝にあたり、事前にご住職にアポを取ろうとご連絡差し上げました。
ところが ちょうどその頃(8/26~9/9)、護国寺からほど近い大本山本圀寺で日蓮宗布教院(※)が開かれており、期間中、護国寺のご住職は講師として寝食を共にするため、申し訳ないけれど護国寺ではお会いできません、ということでした。
(※)布教説教の研鑽を積む修行。毎夏、本圀寺内で開かれる。
(本圀寺近くの琵琶湖疎水)
ただ期間中の毎朝、晨朝説教(しんちょうせっきょう※)があるので、是非聞きに来てください!とお誘いくださり、そういう機会もなかなかないだろうと、8月31日の朝、少し早起きして本圀寺に行ってきました!
(※)布教院修行僧による実践の場。一般の人も聞けます!
今年の布教院には全国から33名のお上人が参加、15日間にわたり高座説教の腕を磨きます。
本圀寺大本堂での朝勤後、お上人方がキビキビと動き、あっという間に外陣に高座と客席が出来上がりました。
ギャラリー全員によるお題目の中、演者が登壇します。
その日の晨朝説教は、偶然にも僕と同郷(小田原)のお上人による高座でした。
法華経如来寿量品第十六にある良医治子の喩え(※)を、地元小田原の薬「ういろう」ネタも織り交ぜながら熱演されました。
お話の内容、笑いも誘う話術もさることながら、独特の作法や立ち振る舞いも、見事でした!
(※)毒を飲んだ子供を救うため、あえて死んだふり(方便)をして薬を飲ませる医者の話。
(本圀寺付近から山科盆地を望む)
ひと通り説教が終わると、講師である護国寺のご住職から批評があります。
これがまた秀逸でした。(一部を記憶している限りで書きますね!)
「昨今、残薬が社会問題になってます。医者は患者の病気を治療するため、良かれと思って薬を必要な日数分、処方してくれます。ところが患者は、医者の思いとは裏腹に、痛くなくなったら飲まなくなってしまう。」
「これは信仰にも当てはまるのではないかと思います。困ったときには必死でお題目を唱える。けれども問題が解決したらさっぱり忘れてしまう。」
「人にお題目を唱えさせるのは並大抵のことじゃない、だから良医治子の喩えが生きてくる。例えばそんな視点も説教に入れ込むと、さらにお話の幅が広がると思います。」
実は僕、以前からYouTubeで護国寺のご住職の法話を何度も視聴しており、「面白いお話をされるお上人だな~!」と思っていましたが、この批評は目からウロコ、 「布教院の講師をされるだけのことはある」と再認識しました。
(晨朝説教前に散華されたお経葉。護国寺のご子息にいただきました!)
布教院というのは一定期間、講師も修行僧も寝食を共にし、話術から立ち振る舞いまで究めようとする場、まさに現代の檀林のようです。
今日、護国寺すなわち山科檀林旧跡のご住職が、布教院に深く関わっておられるのも、偶然ではないのでしょう。
墓じまい、寺離れなど、近年 仏教を取り巻く状況は大きく変化しています。
少子化、人口減少とともに、この傾向はさらに加速してゆくでしょう。
檀家がお寺を支える構造は、近いうちに崩壊し、どんどん淘汰されてゆく…そんな未来さえ想像できます。
(鎌倉辻説法:堀内天嶺画集「日蓮聖人の生涯」より引用)
でも考えてみれば鎌倉時代、日蓮聖人は何もないところから一宗を立ち上げ、辻立ちしてお説法を始めたのです。
時には杖で叩かれ、石を投げられしながら、それでも聴衆は絶えることなく、日蓮聖人は着実に信者を増やしてゆきました。
それは何故でしょう?
人々が「このお坊さんの話を聴きたい!」と思ったからに違いありません。
戦争や災害、孤独や生活苦など、今の世相は日蓮聖人の時代と何ら変わりありません。
みんな心に傷を抱えているはずで、近い将来、「このお坊さんの話を聴きたい!」という、そんなお坊さんに人が集まることでしょう。
お寺ではなく、お坊さんに人が集まるのです。
(昨今の新聞、見出しだけで暗くなります:3月4日読売新聞1面)
遠い昔、幕府に睨まれて島に流されても、あるいは不受不施を主張して退寺・隠棲しても、それでも檀越信者がお坊さんのもとに集まり、話を聴きたがったように、昔の形に戻ってゆくのではないかと思います。
僕にも、そんなお上人が何人かいます。
護国寺のご住職は、その一人です。
さきほどの晨朝説教の批評なんて、普段から日常を法華経の目線で捉えているから、あんな面白いお話に昇華するんだと、感心します。
是非、布教院のお上人方には、「このお坊さんの話を聴きたい!」と思わせる何かを掴んでほしいなと、切に思いました。
(参考文献)
・「諸檀林並精貞法類」(大正7年:影山堯雄 關観朗刊)
・「身延山史」(昭和48年:身延山久遠寺)
・「日蓮宗徒群像」(平成5年:宮崎英修 宝文館出版)
・「山科の歴史探訪4:名所図絵に見る山科」(平成4年:山科の歴史を知る会)
・「現代宗教研究第11号」(昭和52年:影山堯雄特別寄稿 日蓮宗宗務院)





































































































































































































































































































































































































