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38度線の北側でのできごと

38度線の北側の国でのお話を書きます

 たぶんコロナの間ぼくは絶不調か、あるいはギリギリのところで生きていた気がする。

 

 ある媒体で書こうという話があったが全然立ち上がれず、週刊誌の仕事はアップアップ。講演の仕事はなんとかこなしたけど、なんでこなせたんだろうと思うくらい疲れていた。

 

 加齢だと思っていたのだけど全然違った。パッと霧が晴れたのである。

 

 水道橋での講演会の二次会、三次会のことだった。ある研究者、趣味者として話していた時にバルブが繋がるような感触がした。

 

 なぜ日本人趣味者とつながるのをぼくは避けていたのか。明確にわかった。ぼくの持つ在日ネットワークが全滅しかねないということを本能的に悟っていたのだ。それほど趣味者の世界では裏切りとあり得ない疑心暗鬼が渦巻いていた。

 

 ぼくはそこから距離を置いていたこともあって、若干の不快感は与えていたであろうものの、ぼくという人間の情報がぼく以外から漏れることはなかった。それがぼくを守っていたのだ。

 

 絶不調の中でもちゃんと安全圏にいたわけだ。えらいぞ。

 

 そして平壌文化語保護法の話を研究者さんとした。話はベルリン、ソ連、日本と飛びながら、この法律の成立が南北関係の新しいフェーズになり得ることを確信した。そこからは早かった。数年来止まっていた媒体に頭を下げコラムをひとつ書き、定例の大学の講演の企画を早々に提案した。

 

 講演の予定が1か月早まったのはちょっと驚いたけど、水道橋の飲み会からのムーヴを感じながら走り抜け速度が戻ってきた気がする。

 

 さて、来月からは韓国語教室が始まる。問題は北朝鮮本国が門を開けるかだけど、再び北上開始。