「雨の日は気が塞ぐ」という話を高校時代の友人をしていて、性別の違う友人の症状はぼくとは若干違うものの、お互いコロナの影響も加わり鬱々と過ごしていた。
そんな冴えない近況を昨日、1時間くらいぼくらはだらだら話した。
友人には娘がいて、今年高校生になった。彼女がお腹にいたころ、臨月の友人をぼくは見舞っている。産婦人科を父親でもない男性が訪ねるのは少し勇気がいることだった。
友人と初めて会ったのは高校2年生の時だから、その年齢に娘がなるというところで、腐れ縁に笑った。辛い時間、絞り出すような笑いだった。
再び南北関係が緊迫して来て、北側の情報が多く入るぼくの味方は少し人とは違うところに傾いている。結局のところ、主体か事大かを北は南に問うたのであり、同盟か民族自決、どちらを取るのかを迫ったわけだ。だが、その方法は少々、過激だった気がする。子どものころ大好きだった、今も大好きな西部警察さながらのセンセーショナルな建物の爆破シーンは印象的で、その土煙と共にその真相を覆い隠している。
よかろう、されば決闘だという流れに傾きつつありそうで怖い。
2000年6月15日にぼくはソウルにいて、南北頂上会談が開かれていて、その時よりも前の状態に両国間の状態は戻った感がある。
こんな時に何を想うかというと、平壌で出会った人たちのことで、また彼らと再会できるか。元気で過ごしているか。コロナや封鎖の影響はないか。そんなことなのだ。
雨の日は気が塞ぐ。県境を越えることが出来るようになったが、国境はまだだ。日常は遠い。世界は寄り遠い。