23日の木曜日の横浜からの帰り、最寄り駅に降りた私は、今までよく使っていた北口ではなくて、南口を利用した。
最近になって以前は高かったコインパーキングの激安が登場して、付近のコインパーキングも同調し、安値合戦が始まっているようだ。
7月になって、そのことに気付き、もっぱら南口から歩いて数分の所にあるコインパーキングばかりを利用している。
南口は数十年前に旧住宅供給公社が開発した、住宅地への入り口として整備されたので、まだ綺麗で空いている。
銀行ATMやコンビニ、ドラッグストアーなどがある。
この南口を利用する人はまだ少ない。
私もずっと北口の近くで手ごろな価格のコインパーキングばかりを利用していたので、南口に降りることはほとんどなかった。
デートを終わり、美術展を観てきて、さあゆっくり帰ろうと出口を出た時に、南アメリカの日系人と思われる若い女性に声を掛けられた。
重そうなバッグを肩から掛けて、手元には綺麗にパッチされたメモのようなものを指さしていた。
「私は留学生です。コロナで仕事がありません。」その続きは読まなかった。
彼女は「仕事ナイ」とだけ言った。
「私も仕事がない。」
私は以前にペルーやブラジルからの出稼ぎ労働者と深夜のアルバイトをしていたこともある。
その以前に会社のストレスを忘れるために、もっと強力な気をそらす事に集中しようと思って、スペイン語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・ロシア語を1年間づつラジオで習っていたので、少しはスペイン語が話せた。
そこでブラジルからの出稼ぎ労働者と仲良くなって、私の車でブラジル人が多く住む群馬県のある町を訪ねたこともある。
そこにはブラジル人が経営するブラジルからの輸入品ばかりを取り扱っているスーパーマーケットがあった。
彼らは喜んだよ。
煮豆にすると言って、私の知らない名前の豆を買ったり、私にもこのお菓子は美味しいからと、勧めてくれた。
もう12月になっていて、ブラジルではクリスマスに欠かせないケーキというのがあって、それは保存が効くから買ってきた。
当時でも2000円か3000円したから、特別な時にしか食べられない、上等品だったようだ。
帰りに日帰り温泉に招待したりして一日を楽しんだこともあった。
ここで注意して欲しいが、ブラジルはポルトガル語なので、スペイン語は全く通じない。
英語もあまり通じないので、彼らの習得した日本語が一番通じる言語だった。
でも、あまり言葉は関係なかった。
そういう経験があり、発展途上国の人々には親近感さえ感じている。
彼らはブローカーと呼ばれる仲介者によって入国していて、パスポートを押さえられていて、勝手にアルバイト先を変えられなかったりして人権がかなり侵害されている。
それでも日本で10年間働けば、ブラジルに帰ると家を建てられ、一生働かないで暮らせるそうだ。
ブラジルに帰ったら、私に遊びに来るように言われた。
きっと豪邸に住むんだろうな。
ブラジルに帰ったら私らの生活とは、かけ離れた人生が待っているんだろうな、と考えに耽ったこともある。
懐かしい思い出だ。
そこに、今回の留学生が寄ってきたこともあって、少ないが(本当に少ない金額だが)100円をチップとして渡そうと思った。
私が小銭入れから100円玉を探していると
「クッキーを作りました。500円」
その言葉は私にはつらい言葉だった。
今まで遊んできてかなりの額を使ってきたのに、生活に窮した学生に100円しかやれないのか?
自分を責めることはしたくなかったので、100円玉を彼女の用意した缶の中に入れ、
「神のご加護を」
続けて「ゴット、ブレス、ユー」
God bless you
これは英語だから彼女には通じなかっただろう。
ここでスペイン語が出てくるようならば、立派なものだがそこまでそこまで習得していない。
彼女がいた駅の入り口から歩いて5分ぐらいの所のコインパーキングに車を停めていた。
休日でも一日(24時間)で400円の駐車場。
こんなセコイ金額の駐車場に止めて遊びにいっている。
その道すがら、考えた。
私は自己確立しているのだろうか?
自己確立とは何かが、はっきりとはしないが、自分は自分・他人は他人という考え方だと、かってな理解をしている。
日本でも明治維新から数十年は「自己」という概念すらなくって、他人と自分の境界線が曖昧だったと聞いたことがある。
その日に遊んだA嬢。
彼女は完全に自己確立している。
しっかり者という訳ではなくて、自分を確立している。
確立ってなに?
いつまでもこの疑問は続く。
風俗で働く人々は、苦境を潜り抜け、きっと自己確立している人が多いのだろうと想像する。
それに比べ、さっきの留学生に100円を渡した私は「自分は自分、他人は他人」という考え方を受け入れられない。
自己と他人の境目がはっきりしていないのかもしれない。