マツメイラス松田(松田勇希)さんがPodcastハトトカの中で高校時代にのイングランド4部でセミプロデビューをした件などについて話していました。今回の文章はその様子をインタビュー風にアレンジした文章として書き起こしたものとなります。

 

元ページ

http://hatotoca.com/podcast/before_england_mazda/

 

【インタビュイーのご紹介】

松田勇希(マツメイラス松田) 1982年生まれ

フリーランスサッカー実況解説者。サッカーエンタメ番組「シュウアケイレブン」MC FRESH!/JFL・地域リーグ」実況解説(FRESH!/「ハトトカ」MCpodcast/ 映画「ホペイロの憂鬱」サッカーアドバイザー(一部出演)/

Twitter @mazda16

 

ハトトカ第9回『サッカーの母国イングランドへ。 思春期の決断の裏側にあった、 サッカーとの出会いと挑戦の話。』

 

 

―――松田さんは2014年のブラジルワールドカップに行く際に、それまで勤めていた会社を辞めたと聞いています。なぜそこまでして、ブラジルに行こうと思ったのでしょうか?

 

(松田)どうしても、サッカーにかかわる仕事に着きたくて、ブラジルというサッカー王国で行われるワールドカップに現地で参加したい一心で、仕事を辞めてブラジルに行きました。ゆくゆくはサッカー解説者になりたいと思っています。

 

―――サッカー解説者を目指しているとのことですが、今現在は何をしているんですか。

 

(松田)今現在は、サッカー関連ですと映像作成の仕事に携わっています。前職が広告関連の仕事だったので、その関係もあって依頼を受けて依頼に沿った映像を作成しています。

 

―――では、サッカー解説者はこれからの目標ということですね。やはりテレビ解説者が目標ですか?

 

(松田)特に場は問いません。サッカーツアーをして現場で解説をするという形でもいいです。海外のサッカースタジアムではイヤホンガイドでサッカー解説が流れているんですけど、ああいう形でもいいかなと思っています。

 

―――サッカーを語るというのは専門的であるし、しかも、日本ではJリーグというプロリーグが誕生したという1993年だから意外とルールは浸透していないから、まだオフサイドから説明しないといけないくらいのレベルですよね。

 

(松田)私は、サッカー場やスポーツバーでサッカーを友人に解説することがあるのですが、初心者に説明するのはオフサイドくらいですね。それ以上説明してしまうと初心者は覚えるのが大変だから、その後は興味を持ってもらった箇所についてその都度説明するのが良いかと思います。

 

―――私も松田さんからサッカーの話を聞くことがあるけど、語り口が非常に興味深いと思っています。それは、松田さんが選手をよく見ているし、自分なりの解釈をしているなというのが感じられます。ただ、その視点や解釈はどこで培われたものなのかを今日は特に聞いていきたいと思っています。

 

(松田)僕が独自の視点をもっているといえるのであれば、それは日本とイングランドでのサッカーのプレイ経験と、サッカー選手として挫折を味わったことにあるのではないかと思います。

 

―――イングランドでプレイをしていたというのは、いつ頃なんでしょうか?イングランドでのプレイ経験を詳しく聞かせてください。

 

(松田)イングランドに行ったのは16歳のときです。イングランドに行ったことを説明するためには、僕がサッカーを始めた経験から説明しないと上手く話せないので、そこから説明させてください。僕は小学校4年生のころからは野球をやっていたんです。大阪に住んでいたので父親が阪神タイガースのファンだったので、その影響でした。ただ、どうも野球は向いていないなというのは思っていて、中学校に入った時には野球以外を選びたいと考えていました。小学校六年生の時に既に小学校で一週間の中で授業の時間の1時限だけ行う形式のサッカー部には入っていたので、そこでとりあえずサッカー部に仮入部に行った際にサッカーの魅力に取りつかれました。

 

―――仮入部の段階で何か衝撃的な出来事でもあったのですか?

 

(松田)仮入部をしたときに,フジタ(当時:ベルマーレ平塚)のクラブチームのジュニアユースの選手たちが冷やかしで仮入部していたんです。その時期はクラブチーム休みの期間だったという理由で。当然、その選手たちは1年生ながら非常に上手くてハイレベルな練習を見せられて、「サッカーってこんなに自由で、可能性に満ち溢れているんだ」という衝撃を受けたんです。しかも、そこに仮入部として参加していた選手はうまいからこそ、下手な僕に自由にプレイをさせてくれて、うまく活かしてくれたんです。僕も下手なりに必死にプレイしたので、みんながサッカーを始めたころを思い出したのか、その場がとてもよい雰囲気になって、非常に楽しかったんです。しかも、野球と比べてボジションに縛られておらず、「なんて自由なんだ」と感じたんです。

 

―――当然サッカーもボジションの縛りはあるけれど、その仮入部の段階ではとても自由にプレイをさせてもらえたんですね。

 

(松田)そういう経緯もあって入部を決意しました。また、当時「2年生のキャプテン」で小学生時代からの知り合いがいて、その人が信頼に足る人物だったというのも入部を決意する要因でした。

 

―――その先輩は2年生でもうキャプテンだったんですね。

 

(松田)その先輩が「2年生のキャプテン」という理由は少し複雑で、当時3年生と2年生が対立していて、練習も分離しているというような状態で、2年生と3年生にそれぞれにキャプテンがいたんです。ただ、やはり僕は当然ながら下手で、リフティングができなくて。当時は30回リフティングができないとスパイクを履いてはいけないという制度があったんですが、1か月練習してもリフティングが5回しかできないような状態だったんです。

 

―――リフティング5回は少ないかもしれませんね。

 

(松田)1か月に1回「リフティング試験」があったんですけど、僕はそれに2回落ちました。ただ、2回目は28回までできるようになっていました。ボールが自分の一部になるというような感覚をつかむために、その頃は夜な夜な近所の太陽公園で練習していました。ボールの中心を感覚でとらえられるようになるために,必死で練習していました。そんななか、僕は下手なりに徐々に周りに認められるようになってきたんです。

 

―――それはなぜですか?

 

(松田)浮き球を蹴る際に85%くらいの確率でドライブシュートを打っていたんです。つまり、それは単純に遠くに飛ばしたくて蹴り上げる癖があっただけなんですけど、「リフティングできないやつが、浮き球をダイレクトで売ってドライブシュートが打ててしかもゴールに入る」ということが結構な確立であったんです。また、初めはそれが偶然だったんですけど、何度かやっているうちにその蹴り方が意図してできるようになっていて、何よりも先にドライブシュートを覚えました。

 

―――なんだか少年漫画みたいですね(笑)

 

(松田)そういったこともあり、中2の先輩が「リフティング5回しかできないのに、ドライブシュートが打てる」点を面白がってくれて、また、努力を認めてもらえたようで「中2の練習に来ないか」と誘われたんです。当時練習は上級生が中が悪いのもあって、中1、中2、中3とカテゴライズされてしまっていたんですけど。

 

―――他にも誘われた人はいたんですか?

 

(松田)僕の他にも2人いました。僕を含め引っ込み思案ではあるけど、努力をしているというタイプを中2のキャプテンが抜擢してくれたんです。ただ、他の中1の人はあまりそのことが面白くなかったみたいです。

当時中1には小学生時代地元のクラブチームにいたような明らかに僕たちより上手な人が抜擢されなかったわけですから。

 

―――キャプテンは技術よりやる気に注目して集めたんですね。

 

(松田)そうなんです。ただ、他の2人は他の1年生の「なんでお前らが」という態度に堪えられなくて、1年生の練習に戻ってしまったんです。

 

―――なんで松田さんは1年生の練習に戻らなかったんですか?

 

(松田)僕はただ、2年生の質の高い練習にものすごい喜びを感じていたんです。しかも、2年生はとても優しくて、その良さが1年生に伝わってなかったようだったので、僕はここで練習をして先輩たちの良さを1年生に伝える橋渡しをしたいという思いでした。やはり、サッカー部として全体もまとまってほしかったので。そんな中、試合にも出してもらえたんです。

 

―――当時2年生は何人いたのですか?

 

(松田)27人くらいいました。その時は中2の先輩にも後でやっかみをいわれましたけど(笑)。もちろん、スタメンではなく後半の残り3分くらいの時間で。コーナーキックの際に左サイドハーフで出場したんですけど、その時その際に近くの先輩が「コーナーキックでは大体ファーにボールがくるから、お前はそこにいろ」と言われて、当時僕はかなり自信なさげにピッチに立っていたので、マークなんてついていなかったんですけど、そこに居たら、本当にそこにボールが来たんです。ただ、僕はそうはいっても僕になんてボールが来るわけがないと思っていて、準備ができておらず、思いっきりゴールを外してしまいました。もうその後真っ白での記憶はないです。これは、失敗のエピソードですけど、やはり先輩のコーナーキックの精度とか、レベルの高い人とサッカーをすることに熱中していたんです。

 

―――確かにレベルの高い中に入っていくのは大切ですよね。サッカーのみならず、勉強とかでも同じように思えます。それは普遍的なことかもしれません。

 

(松田)ただ、その後中2のキャプテンから、お前は中1の練習に戻れと言われました。それは先輩から「中1を盛り上げろ」という意味だと思ってそう理解してたんですけど、そのチームでは全然勝てませんでした。どうも、そのチームは全体的にメンタルが弱かったのか、中学時代はずっと勝てなかったんです。技術はあっても、なぜかパスが緩いとか。

 

―――サッカーはどこか野蛮なところがあるから、ガツガツいかないと巧さはあっても押されてしまうところがありますよね。そして、気持ちで押されてしまうと通せるはずのパスも通らない。

 

(松田)自分の責任を感じて、それを全うしようと思ったらいいプレイができるんですが、責任を感じて逃げたくなったら全くいいプレイができないんです。中学校時代は僕も含めたみんながそんなプレイヤーでした。

 

―――中学校時代は、サッカーは楽しめているけど、プレイヤーとして充実していたわけではないようですね。

 

(松田)そうして高校に行くんですけど、当時反抗期で「僕は高校に行かずに就職したい」とか言いっていたんですけど、親にはどうしても高校に行ってくれと請われて結局高校に進学しました。ただ、その時に高校に魅力を感じていなくて、サッカーについてもどうしようか考えていた時に、小学校時代からの友達から「俺が入っているクラブチームに来れば?」と誘ってくれて、それがフジタ(ベルマーレ平塚)でした。

 

―――クラブチームは誰でも入れるような場所ではないと思うんですけど、セレクションとかはなかったのですか?

 

(松田)その点は僕も懸念していたんですけど、その友達は「大丈夫、最近セレクション緩いみたいだから」と言われたので、セレクションを受けに来ました。ジャージとTシャツで行ったんですけど、周りはバルセロナなどの各々の好きなクラブチームのユニフォームを着ていたり大分本格的な格好をしていて、1人場違いな感じでした。ただ、どうやらフジタも資金不足で部費がほしかったみたいで、聞いた通りセレクションとしてはだいぶ緩くて合格しました。しかも僕は左利きだったのが良かったみたいです。

 

―――左利きはもちろん右利きとは違うという点でチームにいるとアクセントになるし、1990年代当時はある種宗教じみた左利き信仰がありましたよね。脳の構造として左利きは右脳を使うから、想像的で芸術的なプレイヤーが多いとされていて、サッカーでは「天才」扱いされることが多かったですよね。

 

(松田)そうなんですよ。特に年齢が高いほうがその左利き信仰の度合いが高くて、その時のフジタのユースの監督もそのタイプだったのですぐ気に入られました。晴れてとんでもないレベルのユースのクラブチームに入ることができました。僕を誘ってくれた友達も、大阪選抜の経験者ですし全国大会に行ったことがいる人がゴロゴロいるようなチームでした。そのチームの小学校時代は全国大会で優勝しているようなチームだったんです。入ったはいいけど、その瞬間は怖気づいていました(笑)。で、実際に練習に参加したんですけど全くついていけませんでした。初めてドロップアウトと呼んでもいいくらいついていけませんでした。基礎練習の段階からついて行けなかったんです。インサイドやインステップなど様々な蹴り方で相手の胸に返す、という練習があったんですけど、僕のボールは全く相手の胸に帰らないのに、周りはどんどんこなしていくんです。練習相手にも申し訳ない気持ちも芽生えてきて、どんどん萎縮していき、そのことにより練習ができなくなり、成長が回りから遅れるということを経験しました。そこで、サッカーという今まで自分が好きだったものが嫌いになるというわけではないけれど「悲しいもの」になるという経験をしました。練習後にトンボかけをするんですけど、練習がうまくできなかったことがグラウンドに対して申し訳なくて、特に荒れてもないような部分にもずっとトンボがけをするというような心理状態でした。今思えば、その時間を練習に費やせばよかったんですけど、当時はそう思えないような状態でした。

 

―――確かにあまりにもレベルが違うところにいると、そうなるかもしれませんね。相手からすると「できて当然」のことがこちらにはできないと、「なんでこんなことできないの?」とか、言われてしまうんですけど、こちらとしてはまだその段階に行けてないからできないわけで、その練習をしたいのに怒られて悪循環になるんですよね。

 

(松田)そうなんです。監督は「なんでできないんだ」っていうんですよね。僕は、自主練の量を2倍に増やしたんですけど、自分だけでやってうまくなるのはリフティングくらいでした。だから小技ばかりがうまくなりました。小技がうまくなると、「試合で使える練習をした方がいいよ」と言われるんですけど、そこはついていけないというジレンマを抱えていました。

 

―――やはりレベルが合っていなかったんですね。

 

(松田)その結果、僕は不登校になってしまいました。好きなサッカーでうまくいかったので、元々嫌いだった高校に足が向かなくなってしまうんです。ただ、クラブチームの練習には行っていました。だから、高校の友達からは「不思議キャラ」と思われていたようです。留年をするかしないかというところで担任の先生から「あと1日来なかったら留年だ」と連絡が来たんですけど、僕はその日も学校に行かずにいました。

 

―――え?いかなかったんですか?

 

(松田)その日はライオンキングを見てました(笑)。ただ、天邪鬼な性格だったので、出席日数が足りなくなってから、「きょうから全部行ってやろう」と思い、学校に行くようになるんです。そこからは皆勤賞でした。ただ、僕や家族は留年したと思っていたので、家族会議をして親からは「せめて高校は卒業してほしい」と言われて、でも僕は「このままの心理状態じゃ、高校に行くのは難しい。いったんイングランドに留学したい。」

 

―――それは、飛躍しましたね(笑)。

 

(松田)建前は環境を変えることと、英語の勉強をしたいということだったんですが、僕としてはくすぶっていたサッカーへの思いが捨てきれなくて、一度「サッカーの母国に行ってみたい」という気持がありました。まあ、高校生の精一杯の知恵で考えた結果がその結論でした。そうしたら、普段全部Noというような親だったんですけどこれだけはYesと言ってくれたんです。

 

―――では、高校一年生のまま留学することになったんですね。

 

(松田)それが、また別の話が合って、どうやら担任の先生が職員会議で僕を留年しないように意見を述べてくれたみたいなんです。どうやら、留年を決定するには一度職員会議で採択をする手続が必要だったみたいなんですけど、その場で物言いをしてくれたみたいなんです。どうやら、出席日数が足りなくなった後に皆勤賞だったことと、テストはそこそこの点数が取れていたことが良かったみたいで。そうして、僕の留年が撤回されて、二年生に進学できたんです。

 

―――では、二年生に進学した後休学して留学したんですね。

 

(松田)そうなんです、こうして僕は16歳のときにイングランドに留学することになりました。