自殺。この行為は否定こそされないものの、推奨されない。しかし僕はこの"能動的死"についてもう1度考えたい。(今回は電車への飛び込みなど、多大な周りへの被害をもたらすものは含めないものとして考える。また僕のブログでは、自殺を能動的死と呼ぶ。)
 まず初めに打ち明ける。僕は高校生の頃に、小学校の頃の親友を能動的死で亡くしている。彼のことはダキと呼ぶ。彼はとても調子者で、勉強が大の苦手、謝るのも苦手なやつだった。ダキとは本当にいろんなことをして笑ったし、いろんなことをして怒られた。別々の中学へ入学するのと同時に彼とは疎遠になっていた。高校時代の帰宅後、回覧板で流れてきた訃報で久々に彼の名前を見た。驚いたことにその時僕は、かなり冷静だった。お通夜に行って、久々に会うダキの家族は見たこともないような悲しい顔をしていた。ダキの顔を見た。小学校の面影が残る大人びた顔、首には察しのつく痕が残っていた。
 大学生になった今、ようやくダキの自殺について綺麗事抜きで考えられるようになった。彼の選択、僕にはどうしても否定できなかった。能動的死というものは当然そこまで簡単にはできない。何度も考えては立ち止まってを繰り返すものだろう。実際僕もそうだ。彼ほどではないと思うが、死にたい時が無いことはない。彼の能動的死からの抵抗は、なんらかの理由で回数制限を超えてしまったのだろう。そう思う。
 能動的死を否定する人間が多くいる。確かに他の人間に実害的な迷惑をもたらすという理由については正論だと思う。しかしそれ以外はよく言えば人間のやさしさ、悪く言えば単なる綺麗事だ。僕は能動的死という選択肢を持つことを肯定したい。能動的死を否定する人は僕にとって、人生に絶望している人から唯一の逃げ道を奪っているようにしか見えない。本当に抜けていると思うのが、周りの人よりもはるかに能動的死を考えている人の方がそれについて深く考えているし、他の人間がその選択をどう評価するかなんて分かった上で実行に移していると思う。
 若者の自殺が増えていることについて、これを大人たちは未熟が起こした過ちや、感情の昂りから起こした行動だと思うかもしれない。それももちろん否定はしない。しかしこうも考えられる。今の若者が自分の人生を客観的に見て価値をつけられるようになったと。最近ではインターネットの普及、SNSの流行で様々な人間の人生、日常を見ることができる。つまり僕が言いたいのは、自称井の中の蛙が大海を知れるようになった。その蛙は井の中ではもう満足できない。しかし大海で溺れたり、魚に食べられるくらいならもう自分にいるところは無い。死んでしまおうと考えた。ということだ。死生観について現実的な考えを持っているのは若者の方が多いと思う。それに加えて理想も高いから、惨めな自分でい続けるのは生き地獄になってしまうと思う。この"生き地獄"という表現は過度では無いと思う。
 能動的死、それは本当に全ての人に与えられた選択肢である。何も持たざるものと自認した人間にとって唯一の"逃げ道"を破れることは、死ぬよりも苦しいと思う。身近な人が能動的死を選んだとして、それに涙したり悲しんだりするのは良いと思う。しかし、
「俺に相談しろよ!」
とか、
「生きてた方が良かったって。」
などというのは、断言する。綺麗事だ。僕はダキの死を通して思った。本当の能動的死は、止めることなんてできるわけがない。結果として止めれてないんだから。
 能動的死は各個人に保有権のある核だ。能動的死が不可能になった時、この世は地獄と化す。