説教題「手を上げて祝福されるイエス」@日本ホーリネス教団東京中央教会・錦織寛牧師
聖書箇所:ルカ24:50~52

ご復活の後、天に上げられるイエスに関する記事。
以下、要約。

イエスはかねてからご自身が苦しみを受けられた後によみがえられること、父のもとに帰るが聖霊を与えられることを証された。
聖霊を受けた者は力を受けて世界の果てまで証人となることも示されている。

では、天に帰られた後、イエスは何をなさっているか。
地上での働きを終えてゆっくりくつろいでいるわけではない。
天の父なる神の右で我々のためにとりなしてくださっている。

50節の記述によると、イエスは手を上げておられる。
手を上げるというのは祈りの姿勢を表している。

私たちも礼拝において祝祷を受ける。
これは一週間ハッピーにいきますようにというようなものではない。
それは祝福を受け継ぐ者として召されているということ、誰かのために祝福を祈る者とされるということ。

イエスは弟子たちに後の働きをゆだねられた。
それはイエスご自身が示してきたことを伝え、復活の証人となるため。
罪のゆるしのメッセージをこれからは弟子たちが運んでいくようにとそのわざを託された。
弟子たちはイエスと行動を共にしなくなって自信がなかったかもしれない。
しかしイエスが祝福され、弟子たちに聖霊が下って彼らは福音を語り始めた。
それまでイエスを見捨てて逃げたり否定して、弱さや不甲斐なさに泣くことになったはずの弟子たちがである。

世の中にはもっと立派な人、相応しそうな人がいるのに、自分が救いにあずかったことに疑問をもつ人もいるかもしれない。
私たちもこの世に遣わされていく時、祝福されている。そして祝福する者とされている。
世界のために祈るのもいい、各都道府県のキリスト教会をおぼえて祈るのもいい。
身近な人、あの人この人、あのことこのことのために祈ろう。

以上。

今回この説教をとおして、祝祷のとらえ方が自分の中で曖昧になっていたことに気づかされた。
説教の中でも言われているが、「これからの一週間分の願掛け」のような気分でいたことも否めない。
祝福を受ける資格などないにも関わらず、そのようにして下さった恵みによって、またほかの人のために祝福を願う者として新しい一週間を生きていきたいと思った。

http://netradio.febcjp.com/2020/04/19/susv200419/

※5/16まで聴取可能

説教題「御復活は、静かに深くやって来る」@日本キリスト教団石動教会・井幡清志牧師
聖書箇所:ヨハネ21:1~14


復活祭(イースター)をむかえて、イエスのご復活とそれを信じる我々の信仰生活について語られている。

説教題がまず良い。派手ではないが流麗な言葉選びで格調高い。キリスト教の祝い事としてクリスマスが一般的に広く知られているが、キリスト者にとってはご復活をぬきにして信仰を語ることはできず、イースターはキリスト降誕と同様に大きな祝い事である。昨今、奇をてらった説教題で人目を引く教会や牧師をネット上で散見するが、イースターのような特別な礼拝は静まって与りたい。

井幡牧師の説教はいつも心地良く聴くことができる。それは落ち着いた声質と声量と速さで、押しつけがましくなく淡々と語られるからだろう。会衆を煽るような言葉を口にすることもない。それはまるで今回の説教題のようでもある。ちなみに説教において聴きやすさはもっと重要視されていいと個人的には思っている。しかしこれについて語り始めると長くなり脱線するので他の機会に書いてみたい。

以下、要約。
フランスで発生したノートルダム大聖堂の火災についてまず触れられる。これは世界的な出来事として衝撃をもって報道された。(今回放送されたこの礼拝は昨年2019年のイースター礼拝の内容であり、火災が発生したのはこの約一週間前である)

一方で、今日の聖書箇所で語られるイエスの復活は弟子たちの個別的な出来事として記されている。難解な人知を超えた出会いとして描かれてはいない。我々が思い描けることとして書かれている。しかも、弟子たちにイエスが現れるのはこれが三度目である。

イエスが十字架上で処刑され葬られてから、弟子たちはイエスに招かれる前に戻ったかのように漁をするなど通常の生活を営んでいた。そこに今回イエスが姿を現され、弟子たちに朝食の準備をして待っておられた。それは我々の生活が無価値なものではなく、イエスがそこにおられることを示している。

イエスは神と我々の間を隔てる壁を超えて来てくださった。復活は信仰の中心的な出来事である。それは側で我々をじっとご覧になり、前に進もうと後押しをしてくれるイエスとの出会いということができる。

死は、人と人との間では断絶をもたらす絶対的な壁である。人と神との間には、弱さや愚かさといった罪により断絶する絶対的な壁がある。イエスのご復活はその大きな壁を超えて来てくださり、神の大きな力が我々とともにあるために発揮された出来事だと言える。

日常を生きる我々とともに歩むためにイエスはよみがえられた。イエスがペトロに「今度は舟の右に網を打ってごらんなさい」と声をかけられたように、イエスは我々を支え導き、前進をもたらしてくださるお方、一人一人のこの世の歩みを見ていてくださり、そこに関わってくださるお方である。

世の中の壮大な出来事にうもれている一人の姿に目をとめ、み力を注いでくださるイエスを知ることが我々の信仰生活であると最後に締めくくっている。


http://netradio.febcjp.com/2020/04/12/susvex200412/

※5/9まで聴取可能
 

説教題「なぜキリストは十字架に」@日本キリスト教会高知旭教会・青木豊牧師
聖書箇所:エレミヤ13:15~17、マタイ23:25~36


復活祭(イースター)を前に、キリストの受難について語られている。
以下、要約。

イエスは律法学者やファリサイ派の偽善的な行為を批判しておられた。それは福音書でしばしば見られ、多くのキリスト者にとってよく知られた箇所とも言える。この説教では、キリストの受難と合わせて偽善がなぜ批判されることなのかを分かりやすく説いている。

宗教改革者であるルターも修道院でみられる偽善に我慢ができずそこを去ったという経緯がある。罪の告白の回数を競い合う修道士たちは、告白しなくてもいい些細なことまで言い、その内容も酷かった。

神が求めていることは、キリストを生きること、キリストが人類の罪を引き受けられたと知ることであり、人が他人に誇れるものであってはならない。それは罪に対する敏感さや純粋さということでもない。

それすらも人間は競い合って誇ろうとする危険性があることを指摘し、それはイエスが忌み嫌った律法学者やファリサイ派がしていたことを想起させる。信仰において自分は他人より良いことを多く行っているとか優れているという思いが、もはや神に関心を向けず自分のことばかり考えており、神の言葉に耳をふさぐ行為だとしている。

説教にはパウロの名も書簡もいっさい出てこないが、行為義認ではなく信仰義認を貫いている内容であった。


http://netradio.febcjp.com/2020/04/05/susv200405/  ※5/2(土)まで聴取可

恵み深い主なる神様

4月を迎えました。

会社や学校などでは新年度となり、一年の中でも変化が多い時期です。

人によっては、仕事や学校、住居などが変わり、新しい環境に身を置く方がいます。

また、そういう方をむかえる立場になる方もいます。

慣れない環境に心身ともに疲れをおぼえることもあります。

すべての人が毎日を穏やかに過ごせるように、どうか私たち一人ひとりをみこころにとめてください。

主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。

キリスト教、教会、聖書、キリスト教メディアなどについて、このブログで書いていきます。正式なオープンはまだ少し先になる見込みですが、準備期間中も更新するかもしれません。